#4 falling-⑦


 思いのほか長居してしまい、解散する頃には日付が変わっていた。結構な量を飲んだような気がするが、意識はしっかりしているし、ちゃんと自らの足で歩けはした。陣内と別れてから、才木は自宅とは逆の方向へと進んだ。

 新宿にあるビジネスホテル――退院してからは、ここに寝泊まりしている。どうにも自宅に帰る気が起きなかった。あの家に、独りで居たくはなかった。

 ――思えば、陣内を飲みに誘ったのも、独りになりたくなかったからなのかもしれない。

弱っている。あの夜から、だ。自宅で男に襲われたあの日から、自分の心身がどこかおかしくなっているように思えてならなかった。

 ドアの鍵を開け、シングルベッドが置かれた部屋に足を踏み入れる。


 ――おかえり。


 男の声が聞こえた――ような気がした。

 幻聴だけでは済まなかった。頭の中に映像がちらつく。あの夜の出来事が視えた。男、注射器、ナイフ――切り落とされる指。

 厄介なのは、痛みだ。あの瞬間を思い出す度に、いつも指先に激痛が走る。まるで幻肢痛のように、感じないはずの痛みに脳がとらわれている。恐怖が痛みを引き起こしている。幻覚剤はとっくに抜けているはずなのに、今でもあの苦痛を思い出してしまう。あの夜から、才木の脳は度々フラッシュバックを起こすようになっていた。

 指先が熱を持ち、ズキズキと痛む。激しく脈打っている。才木は水道の蛇口をひねり、冷たい水に指先を浸した。――大丈夫だ、ちゃんと指はある、心配ない。

 言い聞かせながら視線を上げると、目の前の鏡が視界に入った。自分の背後に、黒い人影が映っていた。はっと驚き、才木は振り返った。――誰もいなかった。才木は長く息を吐き出した。再び鏡に視線を戻す。今度は青白い顔をした自分だけが映っていた。

 シャワーを浴びて、ベッドに横たわった。

 なかなか寝付けなかった。最近はあまり眠れていない。男の影におびえているせいだ。目を閉じると、あの男の声が聞こえてくる。いつ襲われるかわからない恐怖が深い睡眠を拒んでいる。酒の力を借りても、駄目だった。動悸どうきがして、落ち着かない。あの日の記憶がまぶたの裏に浮かんでしまい、指先の痛みがぶり返してくる。

 このままでは日常生活に支障をきたしそうだ。病院のベッドの上にいたときは、こんなことはなかった。心穏やかに眠れていた。才木は頭を殴られ、怪我けがしていた。頭痛を訴えたため、病院では強い鎮痛剤を投与してもらっていた。その薬のおかげで痛みを忘れ、副作用で眠気が増し、十分な睡眠がとれていたのだろう。

 才木はベッドから起き上がった。薬があれば、と思った。仕事用の携帯端末を取り出し、電話をかける。


「夜分にすみません、才木です」


 相手はニコラスだ。


『どうした、珍しいじゃん』


 珍しいもなにも、才木から彼に直接電話をかけるのは初めてのことだった。少し間を置いてから、才木は告げる。


「薬が欲しいんですが、用意できますか」


 理由は聞かないでほしい、と才木は頼んだ。


『薬? どんなだ?』

「気分が落ち着くような」


 麻薬ではなく、と付け加える。

 ニコラスはしばらく黙り込んでから、口を開いた。


『俺に頼むこと自体が非合法だぜ』


 任務外でニコラスに薬を入手させるのだ。露見すればただでは済まないだろう。


『明日、心療内科に行けばいいだろ。処方箋もらってこい』

「心療内科なんて、どこも予約でいっぱいですよ。今すぐに必要なんです」


 才木は語気を強めた。


『……わかったよ』


 一時間後に、とニコラスは言い残し、電話を切った。待ち合わせの場所は、ホテルの最寄りにある公園だった。約束の時間の十分前に到着し、二つ並んだベンチの片方に腰を下ろした。蛍光灯に群がるを眺めていると、不意に男の声がした。


「――よう」


 ニコラスだった。彼はいつの間にか隣のベンチに座っていた。今日は私服のようで、派手なスカジャンを羽織っている。じろじろと見つめる才木に、ニコラスは前を向いたまま「こっちを見るな」と注意した。


「足元、見てみろ」


 言われた通り、才木は足元を調べた。ベンチの下に黒いケースが置いてある。中身を確認すると、錠剤が入っていた。


「向精神薬だ。知り合いの心療内科医から譲ってもらった。日本ではまだ出回っていない。なかなか 強力な代物だから、認可が下りないんだ」


 と、ニコラスが呟くように言った。


「用法容量は守れよ。あと、酒と一緒には飲むな。癖になるぞ」

「わかってます」


 才木は自然と小声になっていた。誰にも聞かれてはいけないという罪の意識がくすぶっていることに、気付かないふりをした。

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