#4 falling-⑥


 その日はまっていた書類を片付けた。終業時刻を迎えると、真っ先に綿貫が退勤した。そそくさと帰り支度をした後輩を見送ったところで、


「……珍しいな」と、陣内が呟く。


「光ちゃんが、あんなに急いで帰るなんて」

「友達と約束があるって言ってましたよ」

「友達?」


「彼氏とデートでしょ」と、柴原が声を弾ませた。


「いつもと違う香水の匂いがしたっすよ」

「だからセクハラですって、そういうの」

「賭けるか? デートかどうか」

「賭けません」


 すぐ賭け事に繋げようとする男に呆れ、才木は肩をすくめた。

 その後も葛城、棗、柴原の順に退勤し、オフィスは閑散としていた。残されたのは才木と陣内のみ。しばらく自分の席で居眠りしていた陣内だったが、八時を過ぎたあたりで目を覚まし、「俺も帰るかな」と、先に席を立った。


 その背中に、才木は「あの、陣内さん」と声をかけた。――無意識だった。

 陣内が足を止め、振り返る。


「なに」


 別に用があったわけではない。自分でもなぜ呼び止めてしまったのか、わからない。

 黙る才木に、陣内は眉をひそめている。なによ、と再度問われ、苦し紛れに才木の口から飛び出しのは、「飲みに行きませんか」という一言だった。



 平日の『SPICE』はいていた。テーブル席のほとんどが空席だったが、才木たちはカウンターに並んで腰かけた。


「お前が俺を誘うなんて珍しいな」

「たまにはいいでしょう」


 どういう魂胆だ、と陣内はいぶかしんでいる。失礼な男だ。


「ただ酒飲もうなんて考えんなよ。きっちり割り勘だからな、一円単位まで」


「……相変わらずケチですね」才木はため息をこぼした。


「心配しなくても大丈夫ですよ、今日は俺が奢りますから」

「え、まじで?」

「助けてもらったお礼です」

「よっしゃ、この店で一番高いボトル入れようぜ」

「こら」


 思わず乱暴な言葉が飛び出してしまったが、先輩は気を悪くした様はなく、「冗談だって」と返した。結局ビールを二つ注文することにした。メキシコ産ビールの瓶を軽くぶつけ合い、乾杯する。

 こうしてサシで酒を酌み交わすのは初めてだ。普段仕事で一緒に過ごす時間は長いが、プライベートでの付き合いはほとんどと言っていいほどなかった。勢いで誘ったはいいが、なにを話せばいいものか。いまさらになって後悔のような気持ちと若干の気まずさが生じたが、隣に座る男は一切気にしていないようだった。嬉々ききとした表情で料理を注文している。

 そういえば、と才木は口を開いた。いい機会なので、気になっていたことを訊いてみることにした。陣内の経歴についてだ。


「陣内さんって、警視庁勤務だったんですよね?」

「ああ。組対五課にいた」


 警視庁組織犯罪対策部――五課といえば銃器や薬物関係の捜査を行う部署である。そこから麻薬取締部特殊捜査課への転身。それが意味するものが栄転なのか左遷なのか、才木には判断がつかなかった。だが、その当時から陣内が一筋縄ではいかない捜査員だったことは、今の勤務態度を見ていれば想像がつく。


「クビになったんですか?」

「失礼だな」


 陣内はむっとした。


「自主退職だよ」

「なんで、また」

「警察官だと、やれることに限りがあるだろ。おとり捜査もできないしさ。麻取の方が自由に動けると思ったの」


 いくらなんでも自由に動きすぎでは、という言葉はビールと一緒に飲み込んだ。


「――そんなことより」と、陣内が話題を変える。


「どうだ、仕事は。続けられそうか?」


 心配してくれているのだろうか。――この男が?

 思わずビールを飲む手が止まった。病院の件といい、急に優しさを見せられると調子が狂ってしまう。


「……初めて教育係らしい言葉をかけられた気がします」

「うるさいよ」


 才木は一笑し、頷いた。


「今のところ、大丈夫だと思います」

「そうか? 困ったことがあったら言えよ」


 どうやら本当に心配してくれているらしい。珍しいこともあるものだ、と才木は内心目を丸くした。


「陣内さん、どうしたんですか。もしかして酔ってます?」

「お前は俺を何だと思ってんの」

「すみません、ちょっと驚いちゃって」


 陣内は頭を掻き、


「辞めるって言い出すと思ったよ、あんなことがあったから」


 と、呟くように言った。

 あんなこと――男に自宅で襲われた、あの夜のことだ。特捜課の皆が気を遣って話題に出さないようにしていることは、才木もなんとなく察していた。

「才木」いつになく真剣な表情で陣内が告げる。


「無理すんなよ」

「はい」


 どっちにしろ、辞めるわけにはいきませんし――才木は心の中で呟いた。施設の費用だって馬鹿にならない。母親を養うためには、ここで働く以外の選択肢は考えられなかった。

 一本目のビールが空になる頃には、話題は身の上話に移っていた。次の酒を注文してから、陣内が「お前のお袋さん、いつから薬に手を出したの?」と尋ねた。


「さあ、いつなんでしょうね」


 才木は曖昧に答えた。


「物心ついた頃には、すでに母は麻薬に溺れていたので」

「そうか」

「俺、父親が誰か知らないんですよ」


 才木は苦笑とともに言葉をこぼした。アルコールのせいか、いつもより口が軽くなっている。


「母が若い頃に交際していた相手で、金持ちだったことは知ってるんですが。母はその男にドープを渡されて、一緒に使用していたみたいで。俺を身ごもった後、その男は母を捨てて音信不通になったそうです。ドープ中毒だった母は、一度は俺を育てるために薬を絶ちましたが……耐え切れなかったんでしょうね。物心ついた頃には、自分で大麻やら覚醒剤やらを買うようになっていました。俺が高校生のときに一度逮捕されたけど、それでもやめられなかった」

「まあ、やめられる奴の方が珍しいな」


 そうですね、と頷く。


「……ボロボロになっていく母を見ていられなくて、施設に入れることにしたんです」


 見ていられなかった。というより、見たくなかったのだ。

 当時は大学にもほとんど行かず、バイトばかりしていた。費用を稼ぐために。――それでも結局、母は未だに薬物を断ち切れていない。


「偉いな、お前。孝行息子じゃん」


 という陣内の言葉に、才木は驚いた。一度もそんな風に思ったことがなかった。世話をするのが面倒で、しんどくて、母親を遠ざけたくて施設に入れるような――むしろ親不孝者だと思っていた。


「陣内さんは、どうなんですか」と、才木は話を振った。


「どんな両親でした?」

「俺もガキの頃から施設にいたから、親の顔知らないのよ。でもまあ、薬に手を出すような奴だから、ろくな奴じゃないことは確かだろうけど」

 陣内は幼少期を児童養護施設で育ち、後に里親にもらわれたそうだ。嫌なことを訊いてしまったのではないかと心配になったが、あっけらかんと話す陣内に少しほっとした。

 二本目のビールを飲み干したところで、才木はテキーラを注文した。

「おいおい、病み上がりだろ」と意外にも陣内が止めに入った。


「いいんです」


才木はにやりと笑った。


「俺、明日非番だし」


 飲みたい気分だった。できれば、酔いたかった。すべてを忘れられるほどに。

 しょうがねえな、と陣内は肩をすくめ、ショットグラスをもう一つ追加した。

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