#4 falling-⑤


 男は小指から順番に切り落とした。小指、薬指、中指――四本目の指にナイフを当てられたところで、才木の精神は耐え切れず、意識を失った。

 再び目を開けた才木を待っていたのは、別の景色だった。

 白い天井が視界に飛び込んできた。ぼんやりとした頭でも、ここが自宅のリビングではないことはわかる。


「――起きたか」


 声が聞こえた。あの男のものではなかった。聞き慣れた声。

 ――陣内だ。

 ここは、とつぶやいたが、声が掠れて言葉にならなかった。喉がずきりと痛む。叫び過ぎたせいだろう。首を動かして辺りを見渡す。才木はベッドに寝かされていた。点滴の袋も見える。どうやら自分は病院にいるらしい。頭をきつく縛られているような感覚があった。包帯を巻かれているようだ。

 病院――才木ははっと息をみ、慌てて上体を起こした。


「ゆ、指が……俺の指が……」


 取り乱す才木を、陣内が「落ち着け」と制した。ベッドサイドにある丸椅子に腰を下ろしながら尋ねる。


「指がどうしたのよ」


 才木は呼吸を乱したまま、自身の腕の先に視線を向けた。そして、はっとした。切り落とされたはずの指は、すべて無事だった。掌を握っては開く動作を数回繰り返し、ようやく事態を把握する。

「おい」様子のおかしい才木に、陣内が眉間にしわを寄せている。


「なにがあった」

「……説明しますから、少しだけ時間をください」


 心を落ち着けようと、才木は深呼吸を繰り返した。

 指を切り落とされたときは愕然がくぜんとした。すべてを失ったかのような絶望を覚えた。幻だったとわかった今、安堵のあまり涙が出そうになった。頭を抱えるようにして俯き、涙をこらえる。

 しばらくして、


「……帰宅したら、侵入者がいて」


 才木は口を開いた。思い出しながら、順を追って説明する。


「いきなり襲い掛かってきました」

「男の顔は見たか?」

「暗かったし、顔を隠していたので、はっきりとは……」


 黒い服を着ていた。黒いマスクをしていた。男の特徴を、何とか記憶の中から掘り起こす。


「年齢は二十代から三十代だと思われます。かなり訓練されている印象でした」


 男の動きには無駄がなく、まるで軍人のようだった。

 それで、と陣内が続きを促す。


「男は、俺を殴って気絶させました。気付いたときには手足を縛られていて……薬を打たれました。おそらく、自白剤の一種かと」


 諜報機関が開発した強力な自白剤だと説明していた。強力、なんてものじゃない。あれは劇薬だ。才木は地獄を見た。幻覚とは思えないほどリアルな視界と、鮮明な感覚。薬が抜けた今でもよく覚えている。あの痛みは、本物だった。才木は指を切り落とされる度に、気を失いそうになるほどの激痛に襲われた。あまりの痛みに叫び、わめき、喘いだ。やめてくれと何度も懇願し、嗚咽おえつを漏らした。まさに拷問だった。

 恐怖がよみがえり、体が震えた。両手をぐっと握りしめる。ちゃんと指先まで感覚が通っていることを再確認してから、続きを話す。


「男に訊かれました。どこまで掴んでるのか、って。特捜課の捜査状況を知りたがっているようでした」


 陣内は返した。


「あの大学には、権力者のガキがいっぱい通ってるらしい。俺たちを目障りに思った誰かが、人を雇った可能性はあるな」


 大学を嗅ぎ回られると困る何者かが、捜査状況を知るために刺客を雇って才木を襲わせた――だとしたら闇の深い話だ。


「……陣内さんが助けてくれたんですか?」


 ふと、才木は尋ねた。

 失神してからなにが起こったのかを、才木は知らない。正直、あのまま殺されてもおかしくはない状況だった。いったいどのようにして自分は救出されたのだろうか。気になっていた質問を投げかけると、


「そうよ、感謝しなさい」と、陣内は得意げな顔をした。

「お前、オフィスに端末忘れて帰っただろ。俺が見つけて、お前の家まで届けてやったんだよ」

「……そうでしたっけ?」と、才木は首をかしげた。


ちゃんとかばんの中に入れたつもりだったが。


「そしたら、部屋の中から叫び声が聞こえてきてさ。鍵開いてたから中に入った。椅子に縛られて気絶してるお前見つけて、病院に運んでやったのよ。そんときは、もう男はいなかったけどな。俺に気付いて、窓から逃げたらしい」

「そうだったんですね」と呟く。


もし、たまたま陣内が家に来ていなかったら――考えただけでぞっとする。


「お前の自宅は警察が調べてるけど、プロの仕業だとしたら、たいした手掛かりは出てこないだろうな。今回のことは、葛城さんにも報告してある。三日くらいゆっくり休め、ってさ」


 才木は首を振った。


「そんなにいりませんよ。今日から出勤できます」


 陣内は肩をすくめ、才木の頭に手を乗せた。


「いいから、お言葉に甘えとけ」


 そう言い残し、病室をあとにした。



 しばらくは泥のように眠った。投与された鎮痛剤がよく効いていたおかげか、頭痛に苦しむことも、寝苦しさを感じることもなかった。

 目が覚めたときには夕方になっていて、才木はその日のうちに退院した。言われた通り二日ほど休みを取ったが、特にやることもなく退屈なので、三日目にはオフィスに顔を出すことにした。


「――才木」


 早々に復帰した部下の顔を見て、葛城は目を丸めた。


「もういいのか」

「はい。問題ありません」

「顔色が悪いな。まだ休んでいてもいいんだぞ」

「十分休めましたから」


それに、と才木は付け加えた。


「仕事をしている方が、気が紛れるので」


 きびすを返すと、「才木」と葛城が呼び止めた。


「何でしょう」

「陣内に礼を言っておけよ。あいつ、一晩中お前に付き添ってやってたんだぞ」


 知らなかった。才木は目を丸くした。てっきり陣内はあのまま帰ってしまったと思っていたが、泊まり込みで病室を見張ってくれていたのか。

 才木はオフィスにいる陣内の顔を盗み見た。陣内はちょうど欠伸あくびみ殺しているところだった。

 自分の席に腰を下ろし、隣の陣内に声をかける。


「お疲れさまです」

「おう」

「その節は、大変お世話になりました」

「おう」


 会話はそこで途切れた。陣内は珍しく書類作業にいそしんでいる。才木は話題を変えた。


「例の事件、進展ありました?」


 大学生の薬物中毒死の件だ。あの後、新しい動きはあったのだろうか。ずっと気になっていた。

 すると、陣内は頷いた。


「逮捕されたよ」

「誰が」

「木下潤」

「木下、って……俺たちに情報を提供してきた、あの?」


 食堂で話をかけてきた男子学生だ。木下は奥村の友人で、彼が薬物の売買に携わっていることを危惧していたはずだが。

 自分が休暇をもらっている間に、まさかそんな急展開になっていたとは。


「なんでまた、そんなことを」

「復讐だってさ」

「……復讐?」


 椅子を動かして才木に身を寄せると、陣内は端末を取り出し、例の画像を見せた。大学の入学式に撮影したもので、奥村たち四人の学生が写っている、あの写真だ。

「この子」と、指差したのはスーツ姿の若い女子学生。


「木下の二個下の妹。兄貴と同じ大学に入学したんだけど、何も知らずに例のテニスサークルに入って、飲み会でドラッグ盛られて、あの三人に襲われたらしい。彼女はそれがトラウマになって、大学に通えなくなった」


 胸糞むなくその悪い話だった。才木は言葉を失った。


「木下は、宮崎たちが奥村から麻薬を買っていることを知った。それで、宮崎に声をかけたんだ。『自分も薬を作っているから、一度試してほしい』ってな。同じ薬学部だから、宮崎はすぐに信用したんだろう。木下は致死量の薬品を合成した商品を宮崎に渡し、殺した。連中が死んでから、奴は俺らにタレ込んだ」

「麻取に情報を流して、奥村に罪をなすり付けようとしたってことですか」

「そゆこと」と、陣内が椅子の背もたれに体を預けながら頷く。


「……とんでもないクズでしたね、宮崎たちって」


 死人の悪口を言うのは良くないが、思わず悪態を吐いてしまった。


「その仲間もな。サークルのメンバー全員とっ捕まえて、話を聞いたのよ。そしたら、宮崎以外にもドープを使ったことがある奴がいた。高校受験の頃だったって。そのときの感覚が癖になって、ドラッグにハマったらしい。ドープはなかなか手に入らないから、別の薬をやるようになったって。典型的なパターンだな」


 とはいえ、高校生がそう簡単にドープを手に入れられるわけがない。


「なにか裏がありそうですね」

「ああ。宮崎たちを探っていけば、ドープの入手経路に関する情報が得られるかもしれない。明日からしばらくは、情報収集をメインに動くぞ」

「はい」

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