#4 falling-④
病院での診察を終えた後、奥村の身柄は所轄に預けた。恋人の野沢も事情聴取に応じているそうだ。才木と陣内は一度、新宿に戻った。特捜課のオフィスには葛城と棗がいた。さらに、ニコラスも同席している。今日はツナギ姿だった。宅配業者を装っているようだ。
才木たちが一通りの報告を終えると、棗が話を引き継いだ。
「端末から消去されたデータを復元しました。奥村と宮崎は度々メッセージを送り合っていたようです」
棗はパソコンを操作し、壁の大きな画面にデータを表示させた。復元されていたのは、コミュニケーションアプリを使用したメッセージのやり取りだ。才木は会話の一部を読み上げた。
「『レジュメ持ってる?』『レジュメちょうだい』『レジュメなくしたからコピーさせて』……頻繁に『レジュメ』という言葉が出てきますね」
「ええ。不自然なほどに」
ニコラスが尋ねた。
「レジュメってなに?」
「レジュメというのは、簡単に言えば「概要」や「要約」といった意味です」
棗が説明する。
「フランス語を語源とした言葉で、海外では履歴書や職務経歴書のことも含まれているようですが。大学においては、講義や研究発表の内容を要約したプリントのことを総じてそう呼ぶことが多いですね」
大学生にはお
「学生らしい隠語だな」と陣内が嗤った。
大学内での薬物売買――証拠は十分だった。しかしながら、これで事件がすべて解決、とはいかない。
「どうだった、ニコ」
陣内が話を振った。
「レジュメの味は」
奥村の家庭ゴミはすべて押収され、製造していた合成大麻の成分は本部で分析中であるが、その前に特捜課はニコラスに味見をさせていた。
「全然違った。カチノン系で味付けしてるって話は本当だな」
一通りの報告を聞いた葛城は腕を組み、状況を整理する。
「奥村は宮崎に要求され、自家製の覚醒剤や合成ハーブを卸していた。宮崎はそれらを友人たちに配り、サークルの飲み会で乱用していた。そして昨夜、宮崎と藤田と八島の三名がカラオケ店で死亡した。だが、彼らが使用した薬物は、奥村が製造した商品とは別物だった――ということか」
成分が違うのであれば製造元も違う。宮崎は別ルートでも薬物を入手していた可能性が考えられる。
「奥村の証言も気になりますね。宮崎は高校生のとき、すでにドープに出会ってると言っていました」
「宮崎は金持ちのボンボンらしいから、ありえない話じゃない」
よし、と葛城が声をあげた。
「明日からは宮崎の周辺を徹底的に洗う。陣内と才木は交友関係を当たってくれ。棗は引き続き、復元したデータから別の取引の記録がないかを調べろ。ニコラスは、あの大学に出入りしている売人がいないか探ってほしい」
課長の言葉に
「お先に失礼します」と、才木もオフィスを後にした。
ビルを出たところで、無意識のうちにため息を吐いてしまった。やけに長く感じた一日だった。いろいろなことがあったせいだろう。朝からひたすら大学で聞き込みを続け、自殺騒動にも立ち会った。体が重く感じる。
職場の最寄り駅から電車で七駅。そこから徒歩二十分。決して利便性がいいとはいえない場所に、才木の自宅はある。ハイム
鍵を開け、部屋の中に入る。
しんと静まり返ったこの部屋に帰宅する度に、やるせない気持ちになってしまう。いつも「おかえり」と笑顔で出迎えてくれた母親は、とうにいない。最近では、もう二度と戻ってこないかもしれない、という諦めにも似た感情が芽生えはじめていた。この仕事に就き、薬物中毒者の悲惨な末路を目の当たりにし続けているせいか、希望を失いかけている。
誰もいないはずの部屋に人の気配を感じたのは、リビングの電気を
男の声だった。
幻聴ではなかった。どくりと心臓が跳ね上がる。血の気が引き、才木は振り返った。黒い人影が見えた。――と同時に、その人影は才木に襲い掛かってきた。
強い衝撃が左のこめかみに入り、才木の体は弾かれた。なにが起こったのか、理解が追い付かなかった。床に倒れたところで、ようやく状況を把握する。何者かに鈍器で殴打されたのだ。予期せぬ侵入者に反撃する間もなく二度殴られ、頭から血を流して才木は気を失った。
能力は発動していない。何の予感もなかった。
悪い夢でも見たのかと思った。できれば夢であってほしいと思った。――だが、次に目を覚ましたとき、状況はさらに悪くなっていた。身動きが取れない。ダイニングチェアの上に座らされているようだが、四肢はロープで縛られ、椅子に結び付けられていた。
頭が
目が
不意に、激しい頭痛に混じって、左腕にちくりと痛みが走った。男は注射器を手にしていた。肘掛けに固定されている才木の腕に、針がゆっくりと埋まっていく。中の透明な液体が、才木の血管に流れ込んでいく。
次第に、頭がぼんやりとしてきた。意識ははっきりと保っている。なのに、どこか現実味のない感覚がする。まるで夢の中にいるような気分だった。
「なにを――」
問いかける声が
舌足らずな口調でなにを打ったのかと問えば、男は「海外の諜報機関が開発した強力な自白剤だ」と説明した。
男は椅子をもう一脚引っ張り出し、才木と向かい合うようにして腰を下ろした。
「あの大学を調べてたな」
男が尋ねた。声は若い。
「麻取はどこまで掴んでるんだ?」
捜査に関する情報を外部に漏らすわけにはいかない。黒いマスクで覆われている男の顔を、才木は
「そんなの、言えるわけないだろ」
男は一笑し、
「これを見ろ」
と取り出したのは、刃渡り十五センチほどのサバイバルナイフだった。
「このナイフで、今からお前の指を切る。質問に答えなかったら、一本ずつ切り落としていく」
男はもう片方の手で才木の手首を握った。才木の口から思わず悲鳴がこぼれた。
「なにを調べた?」
再び男が尋ねた。
指先が震えはじめている。才木は男から顔を
「手をよく見てみろ」
男が才木の顔を掴み、無理やり正面を向かせる。時計の文字盤が視界に入った。男が着けている黒い腕時計――時刻は十一時十五分を指していた。その先に、ナイフが見える。指先に刃が当てられ、ひやりとした感覚が走った。体が
男は凶器を見せびらかすようにして、告げる。
「今からこのナイフで、お前の指を切り落とす。――ほら、まずはこの指だ」
才木は悲鳴をあげた。震えが止まらなかった。やめろ、と叫んだ次の瞬間――指先に圧がかかった。ナイフと木製の肘掛けとがぶつかる音がして、才木の体に激痛が走った。鮮血が噴き出し、小指が床に転がり落ちるのが見えた。
まるで指先が燃えているかのような強烈な痛みに、才木は声にならない叫びをあげた。
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