#3 winged-⑩


 今回の一件で、組織の供給ルートをひとつ絶つことができた。だが、どうせすぐに他の方法での密輸を企てることだろう。麻薬組織と取締官のいたちごっこに終わりはない。何のために命を張るのか――馬鹿らしく思わないこともなかった。


「……麻薬って、恐ろしいですね」


モニターの中の高野をじっと見つめて、才木が言う。


「麻薬を使わない人間の人生まで、狂わせることができるなんて」


 長丁場の仕事が終わり、所轄を出たところで、


「みんなで飲みに行きません?」と、柴原が言い出した。

「大きな仕事が終わったんだし、打ち上げしましょうよ」

「えっ」


 才木は戸惑い、腕時計を見た。


「今からですか。もう三時ですよ」

「俺はいいや」と陣内は断り、新人の顔を指差した。

「またこいつの面倒押し付けられんの、御免だし」


 心外だと言わんばかりの表情で才木が反論する。


「陣内さんが飲ませるのが悪いんじゃないですか」

「陣内さん、もう歳だから」


 柴原がからかうように笑う。


「俺らと一緒に飲むのがしんどいんすよね」


 陣内は鼻で笑い飛ばした。


「その手には乗らねえぞ、シバ」



 結局、一杯だけ付き合わされ、帰宅できたのは明け方だった。

 陣内の自宅は千代田区にある。フリーのジャーナリストとして忙しく走り回っていた妻の望みもあって、アクセスの良い場所に新居を構えることにしたのだ。四角いフォルムとシックな黒い壁が特徴的な、二階建ての小洒落こじゃれたデザイナーズハウスを三十五年ローンで購入した。間取りは4LDK。今となっては広すぎて持て余している。

 リビングのソファに腰を沈め、緩んだネクタイをさらに緩めたところで、不意に電話がかかってきた。こんな時間帯の連絡といえば急な仕事の呼び出しか、もしくは、あの男しかいないだろう。

 通話に切り替え、無言で端末を耳に当てると、


『――最近、定期報告が遅れがちですね』


 若い男の声が聞こえてきた。あの男、の方だった。


「挨拶もなしか」と、陣内は笑う。

「ジウ」


 この男のことを陣内はジウと呼んでいるが、本名だとは思っていない。


『報連相は大切でしょう。特に、あなたのような立場の方にとっては』

「しょうがねえだろ。新人の教育係押し付けられて、なかなか単独行動できないのよ」


 言い訳を漏らすと、相手の声のトーンが低くなった。


『本当に、ただの新人なんですか? あなたを監視するために雇われているのでは?」

「心配すんな」


陣内は答えた。


「俺もあいつを監視してる」


 陣内は新人の顔を思い浮かべた。最近少しは使えるようになってきたが、まだまだひよっこだ。あれであいつがスパイだったらアカデミー賞ものだな、と嗤う。

 聞きましたよ、とジウが話題を変えた。


『あなたのチーム、ご活躍だったようですね』


 さすがに耳が早い。

 特捜課がロス・ティグレスの一味とやり合ったのは、つい先刻のことである。いったいどこから得た情報なのか――聞きたくもないし、聞く気もなかった。この男は底知れない闇と同じで、いくら光を照らしてもその実態を暴くことができない。理解しようとしても無駄なのだとわかっている。

 まあな、と陣内は軽く流しておいた。

『虎の尾を踏むとは、まさにこのことだ』と、ジウは声を弾ませている。人の不幸が面白いのだろう。

 彼について知っているのは、ジウという通称と、身体的特徴――百八十前後の長身で、頭は白に近い銀髪。爬虫はちゅう類を思わせる切れ長の赤い瞳。それから、意外とおしゃべりが好きな性格だということだけだ。


『――そうそう』と、ジウがまた話題を変えた。

『実は、あなたに話しておきたいことがありまして』

「なんだ」

『興味深いことがわかったんです。まさか、例の事件にそんな裏があったとは、私も知りませんでした。これは衝撃の事実ですよ』

「もったいぶるんじゃないよ。わざとらしいな」

『この方が盛り上がるでしょう』


 軽口を叩いてから、


臼井うすいのことです』 と、ジウはようやく本題に入った。


『臼井裕樹ゆうき、あなたの奥さんを殺した男』


 臼井裕樹――未だにその名を耳にするだけで虫唾むしずが走る。


「俺の嫁を殺して、ムショで自殺したヤク中の男ね」

『それがどうやら、自殺ではないようです』

「――は?」


 陣内は眉をひそめた。


「……どういうことよ」


 臼井裕樹は獄中で自殺している。刑務作業中に盗み出したひもを窓枠に結び付けて首をった、という話のはずだ。


『私が送り込んでいた内偵が、ようやく情報を持ってきました。実は、臼井は関東仁龍会の息のかかった人物だったらしいんです。おまけに、臼井が服役していた同時期に、同室の面子メンツに仁龍会の組員がいた。どうもその男が、自殺に見せかけて臼井を殺したようで』

「間違いないのか、その話は」

『苦労して手に入れた情報ですからね。刑務所はなにかとガードが固くて、手下を潜り込ませるのに四年もかかってしまった』

「白鴉の人間じゃなかったのか」

『白鴉の仕業に見せかけるために、何者かが臼井の背中に墨を彫ったのでしょう』

「……たしかに衝撃の事実だな」


 カーペットに視線を移す。あの夜、妻はここに倒れていた。血を流して。薬物中毒者による強盗目的の犯行――そう結論付けられ、臼井は刑務所に入れられた。その一か月後、首を吊って自殺した。受刑者の自殺は珍しいことではない。薬物中毒者となれば尚更なおさらである。

 だが、自殺に見せかけて殺されたとなれば、話はずいぶんと変わってくる。


 ――なぜ、臼井は殺された?


 陣内は緩めたネクタイを襟から引き抜き、ソファに放り捨てた。


『次は、仁龍会周辺を探ってみます。――ところで、そちらはどうですか? なにか目新しい情報は?』

 訊かれ、陣内は「そうだな」と考えた。

「この間の白鴉幹部殺し。あれは最初、組対のヤマになりそうだったが、風向きが変わった。被害者が公安のエスだったらしい。組織内の人物による粛清だと疑われてる」

『おや、それは残念』

「まさか、お前の仕業か?」


 陣内は嗤った。


「だとしたら、もう少し雑にやるべきだったな。うちの新人が褒めてたぞ、お前の犯行はスマートで品があるって」

『へえ』ジウは楽しそうに笑っている。

『なかなか見る目のある新人じゃないですか』

「教育係がいいからな」

『反面教師の間違いでは?』


 軽口の応酬を繰り広げたところで、陣内は電話を切った。

 リビングを出て風呂場へと向かう。服を脱ぎ、洗面台の隣にある洗濯機の上に放った。カゴの中には汚れた洗濯物がまっている。まるであいつみたいだな、と過去の同居人を思い出し、無意識に失笑がこぼれた。

 妻がこの世を去って、もう七年が経つ。

 ガラス張りの扉の先には、黒と白を基調とした浴室がある。陣内はシャワーを垂れ流し、頭からかぶった。

 水が弾け、音を打ち鳴らす。まるで雨音のようだ。

 嫌でも思い出してしまう。――そういえば、あの夜も雨が降っていた。

 水滴が頬を撫で、鍛えられた肉体を伝って床へと落ちていく。冷たいしずくを体に塗り込むように、陣内は首元から肩甲骨へと右手を滑らせ、背中に刻まれた鴉の翼を指先で撫でた。


 

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