#3 winged-②


 麻薬取締部特殊捜査課は新宿に拠点を置いている。人目を避けるように建っている五階建てのテナントビルは、株式会社鳥飼とりかい商事しょうじという一般企業が入っているように装ってあるが、その実は特捜課の隠れみのであった。ビルまるごと麻取の所有物で、二階がオフィス、三階がトレーニングルーム、四階が証拠保管庫となっている。

 一階の駐車場にセダンを停めると、陣内たちはエレベーターで二階へ向かった。カードキーでロックを解除してオフィスに足を踏み入れる。中には、同僚の柴原しばはら綿貫わたぬき、情報官のなつめ、課長の葛城――特捜課の全員が揃っていた。

 課長に報告を入れなければならない。葛城のデスクは、ガラス張りで仕切られた小部屋の中にある。ちょうど手が空いているようだ。ガラス越しに目が合い、陣内は「今、いいですか」と小声でつぶやいた。葛城は超人的な聴力を持つドーパーである。さらに集中すれば、音の跳ね返りから人や物の位置や大きさなどを把握する、所謂いわゆるエコーロケーションも使いこなせるほどらしい。どんなに小さな囁き声であっても、彼の耳は聞き逃さない。葛城が頷いたのを見てから、部屋のドアを開ける。葛城が口を開く前に、陣内は本題に入った。


「殺されたのは白鴉の幹部でした。捜一の調べによると前科はないようです。それどころか戸籍もないので、不法移民か無戸籍児だろうって。所持品の身分証には川添拓司という名前がありましたが、これも偽造でしょうね」

「その件なんだが」


 葛城の表情は険しい。


「先程、本部から報告があった。その男、どうやら公安が抱えていたエスらしい」


「……あー」陣内は声をあげた。それなら納得がいく。


「だから、戸籍がないのか」


 スパイは出生に関する一切を消去され、新しく身分を与えられる。公安が組織に潜り込ませた人物だとしたら、被害者の経歴が謎に包まれていることも頷ける。


「いや」と、葛城は否定した。

「正確には、白鴉の幹部だった男を寝返らせ、情報を引き出していたようだ。多額の報酬と新しい身分が約束されていたが、国外に逃がす直前にられてしまった」

「ってことは、ただの身内のゴタゴタっすか」

「その線が強いな」


 要するに、今回の事件は組織間の抗争ではなく、組織内の粛清である可能性が高いということだ。当局に情報を流していることを勘付かれ、裏切り者の川添は組織に消されてしまった。


「相変わらず、手強い連中だよ」と、葛城がため息をく。

「白鴉という組織がいまだ謎に包まれている理由は、こういうところにあるんだろうな」


 白鴉の内情を暴こうと、これまで様々な捜査機関が内偵を送り込んできた。しかし、なぜかすぐに見抜かれ、たいした情報を引き出せぬまま始末されてしまっている。結局、掴めた情報は、連中が諜報ちょうほう戦にけているということのみ。彼らもまた、あらゆる組織に情報源となる協力者を有していた。


「川添が公安の犬だとしたら、うちが追ってる事件とは関係なさそうですね。まあ、部屋にあった商品は、例の売人が更生施設で売りつけていたコカインとは別物だったので、どっちにしろ外れでしょうけど」

「そうだな」


 陣内が一通り報告を済ませたところで、葛城はガラスの外に視線を向けた。パソコンと向かい合っている新人を一瞥いちべつし、唐突に尋ねる。


「どうだ、才木は」

「どうって、なにが」

「なにかないのか、感想は」


葛城が肩をすくめた。


「いい子だとか、使えるとか」

「うーん……小言がうるさい」


 絞り出した陣内の回答は、上司のお気に召さなかったようだ。


「他には?」


 くそ真面目、頭が固い、優等生、可愛かわいげがない――頭に浮かんだ単語はさて置き、陣内は言葉を選んで告げた。


「正義感は強そうですが、特捜課に適性があるかどうかはわかりませんね」


 特捜課は麻取の中でも最もアングラなチームだ。違法擦れ擦れどころか、完全なアウトゾーンでの仕事も少なくない。あの優等生がそういった任務に耐えられるのか、いざというときにちゃんと引き金を引けるのか――とはいえ、新人がどうなろうと自分の知ったことではないが――今の段階では、はっきりと答えられなかった。

 葛城はからかうように笑う。


「お前と組んで一か月も続いているだけで、十分適性があると思うがな」

「どういう意味すか」

「忍耐力は合格ってことだ」

「失礼しちゃいますね」


 陣内は視線を逸らした。

 ふと、デスクの上に置かれている冊子が目に入った。表紙には『秀聖しゅうせいゼミナール』という文字が記されている。陣内は指差して尋ねた。


「なんです、それ」

「ああ、これか」


葛城は気恥ずかしそうに冊子を隠した。


「予備校のパンフレットだよ。来年娘が受験でな、いい塾に通わせろって嫁が口うるさいんだ。有名校だか何だか知らんが、授業料も馬鹿にならん」

「娘さん、いくつでしたっけ」

「十七、高二だ。反抗期真っ只中ただなかで、困ったもんだよ」


 嫁が口うるさい、娘が反抗期――そんな他愛たわいない上司の愚痴が、陣内には自慢のように聞こえてならなかった。我ながら捻くれた考えだな、と自嘲する。手に入るはずだった未来を、未だに諦めきれていないことを自覚させられてしまう。

 軽く雑談を交わしてから、陣内は自分のデスクに戻った。椅子に腰を下ろしたところで、斜め前の席の綿貫が振り返った。


「陣内さん、今夜空いてます?」

「空いてるけど」


陣内はにやりと笑った。


「なによ、ひかるちゃん。デートのお誘い?」


 才木が口をはさんだ。


「セクハラですよ、そういうの」

「冗談だっての」


 陣内はむっとした。相変わらず小言のうるさい奴だ。


「綿貫さんにセクハラするなんて」


柴原が笑った。


「先輩も命知らずっすね」

「お前のその発言もどうかと思うよ」


 男所帯の職場に慣れきっている綿貫は気にも留めていない様子だった。素知らぬ顔で話題を戻す。


「みんなで才木くんの歓迎会しませんか? うちに来て一か月つのに、一度も飲みに行ってないですし」

「ちょっと待った」と、柴原が声をあげた。

「俺が特捜課入ったとき、歓迎会してもらった覚えないんすけど」

「じゃあ、合同でやりましょう。今夜は才木くんとシバの歓迎会ってことで」

「……俺、もう五年目っすよ」


 肩を落とす柴原を無視し、綿貫が尋ねる。


「陣内さん、参加します?」

「課長が行くなら、俺も行くわ」

「なんすか、それ」と言ってから、柴原ははっと気付いた。

「……あ、わかった。課長がいなかったら自分のおごりになるからだ。せこいっすね」

「何とでも言え」



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