#2 sixth sense-⑨



 急用ができたと詳細を伏せて説明し、才木はこのまま直帰させてもらうことにした。陣内は最寄りの駅で降ろしてくれた。タクシーを拾い、目的地を告げる。向かう先はくだんの更生施設。電話の相手はその所長だった。

 施設は都内にある。刑務所のような外観をしているが、入所している人間もほとんどが薬物使用を繰り返している元犯罪者だ。手に負えなくなった身内が助けを求める最後のとりで――中毒者専用の更生施設は、ここ数年の麻薬使用者の急増に伴い、全国に増え続けている。

 施設を訪れた才木を、白衣の中年男性が出迎えた。普段は穏やかな風貌の男だが、今夜の表情はいつになく険しかった。彼はこの施設の所長で、才木も長いこと世話になっている。

 所長室に連れられた才木は、木製のテーブルの上に並べられたものを見て、仰天した。


――麻薬だ。


 白い粉末。コカインかヘロインか、それとも覚醒剤か。薬物の種類はこの際どうでもいい。問題なのは、この薬の出所である。


「今朝、お母様の部屋を掃除したスタッフが、これを発見しました」


 所長の言葉に、才木は愕然がくぜんとした。


「え――」


 麻薬を使わせないために、母を施設に隔離しているのだ。それなのに――いったい誰が、こんなものを母に与えたのか。憤りにも似た感情が芽生え、才木は拳を握りしめた。


「ここ最近、更生施設を狙った密売が多発しているようで」


所長が説明する。


「彼らは知り合いのふりをして治療中の入所者と接触し、麻薬を買わないかと誘うんです。そして、誘惑に負けた入所者から金を受け取り、差し入れに紛れ込ませて薬物を届けている。美和子みわこさん以外にも、うちの施設の入居者が何人も狙われていました」


 美和子というのは母の名だ。

 所長は頭を下げた。


「我々の不注意で……申し訳ありません」


 信じられなかった。母親が面会人から秘密裏に麻薬を仕入れていたなんて。


「母は、いつからこんなことを」

「記録を調べたところ、最初にその売人が面会に来たのは、三か月ほど前でした」


 三か月――強い失望を覚えた。この三か月の間、母は薬に手を染めていた。もう二度とやらないと約束したはずなのに。


「母と話せますか?」

「ええ、面会室にお越しください」


 才木は所長室を出ると、長い廊下を歩き、面会室へと向かった。板で仕切られた三つのブースがあり、ガラス越しに電話で会話ができるようになっている。まるでアメリカの刑務所のような造りだ。

 右側のブースに腰を下ろす。しばらくして、入所者の制服である水色のスウェットを着た母親が、施設のスタッフに付き添われて現れた。心なしか顔色が悪いように見える。彼女が目の前に座ったところで、才木は受話器を耳に当てた。


「母さん、どうして――」


 どうしてこんなことをしたのか。どうして薬をめられないのか。問いただしたいことばかりだった。


「……優人、お願い」


 母親は受話器を取らなかった。


「早くここから出して」


 ガラス越しに、くぐもった声が聞こえてくる。


「この病院は、人体実験してるのよ」

「母さん、聞いて」

「ねえ、お願い。これ以上ここにいたら、母さんおかしくなっちゃうわ。お願い、優人」


 目の前で妄想をわめきたてる母親に、才木はこの上ない無力感を感じた。


――約束したのに、どうして。


 毎月高い施設料を払って、頻繁に面会に来て、頑張って立ち直ろうと励まし続けてきたつもりだった。

 だが結局、彼女にはなにも届いていなかった。自分を変える気なんて、微塵みじんもない。すべてが無意味だったのだ。


「出して!」


 母が叫んだ。


「出してよ! 優人! 出しなさい!」


 母は喚き散らしながら、拳を何度もガラスに打ち付けた。出血し、透明の板が赤く染まっても、やめなかった。

 才木は唇をみしめた。


「……どうして」


――どうして、戦ってくれないんだ。


 どうしてあらがってくれないのか。どうして誘惑に負けてしまうのか。息子がこんなに心を砕いているのに。母の心が理解できない。

どんなに自分が頑張っても、どうにもならない。彼女にその気がないのだから。それが歯痒はがゆかった。

 心が折れそうだ。

 諦めが芽生えはじめていることには、とっくに気付いていた。やはり、無理なのかもしれない。依存から立ち直ることは、どうやっても不可能なのかもしれない。陣内の言う通り、中毒者は更生なんてしないのかもしれない。

彼女にとって、息子の存在は抑止力でもなんでもなかった。息子が悲しむから薬を絶とうなどという感情は更々ない。

 それどころか、血の繋がった一人息子より、赤の他人である売人が面会に来てくれた方が、母は喜ぶのだ。その事実がむなしく、かなしくて、やるせなかった。


「出せ! ここから出せ!」


 乱暴な口調に変わった。母は受話器を手にした。それでガラスを殴りつけて、叩き割ろうとしている。目は血走り、髪の毛を振り乱し、鬼のような形相で何度も何度もガラスを殴打している。――その姿に、幼い頃の記憶がよみがえった。母が薬漬けになったのは才木が小学生の頃だった。母は薬が切れるとよく暴れた。今のように。物に当たり、酷いときは才木を殴った。そして、冷静さを取り戻してから、いつも謝るのだ。ごめん、優人、こんなお母さんでごめんなさい――と。泣きながら、 自身を恥じながら、母はいつも腕に注射を打つ。

 錯乱して暴れる母を、施設のスタッフが二人がかりで取り押さえ、奥へと連れていった。

 言葉がなかった。

 才木は顔を突っ伏した。


――家族だって消えてほしいと思ってる。


 あのときの陣内の言葉が頭をぎった。母の顔が、陣内に射殺されたあの男の顔と重なる。

 もう元には戻らないのなら、いっそ、このまま――自分の中に浮かんでしまった言葉をかき消そうと、才木は頭を振った。

 ここで諦めたら、すべてが水の泡だ。

 自分だけは、母親の味方でいなければならない。いつか思いが通じることを願って。

 まだ折れてはいけない。心を奮い立たせ、才木は顔を上げた。


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