#2 sixth sense-⑧



 最初は、わらをも掴むような、すがるような気持ちだったのだという。

 数年前、佐藤はひどいスランプに陥り、試合でヒットの出ない日々が続いた。そこに、きのいい新人が現れた。このままではレギュラーの座を奪われてしまう――そう焦っていた佐藤に、知人を介して辻川が接触してきた。辻川から受け取ったドープを服用してみたところ、肉体も精神も冴えわたるような感覚に陥った。その日の試合で佐藤は二本のヒットを打った。

 それからは完全に癖になり、誘惑に逆らえなくなった。麻薬から抜け出せなくなった。ヒットが出なくなる度に、佐藤は薬に頼った。一年もてば免疫がつき、効果の持続が落ちて、乱用の頻度が増えた。そのうち、ドープなしでは試合に出るのが怖くなった。


「殺すつもりはなかったんだ」と、佐藤は頭を抱えた。

「どうして、こんなことに……」


 辻川に脅されたのは、ちょうどその頃だったという。写真と動画をネタに口止め料を請求されるようになった。払っても払っても、キリがなかった。いつ世間に暴露されるか知れたものではない。その恐怖におびえ、それから逃れるために、さらに薬を欲した。一生このまま脅され続けるのか、と絶望した。

 佐藤は辻川と会い、もうやめてくれ、これっきりにしてくれと何度も頼んだ。だが、辻川は聞く耳を持たなかった。事件の日もそうだった。これは有名人である佐藤に、安全に薬を届けるための手数料なのだと辻川は言い訳した。嫌だったら他の売人を探せ、その間ずっとヒットが打てなくてもいいなら――そう言われて、佐藤の頭に血が上った。証拠を消せ、と辻川に掴みかかった。

 揉み合いになっているうちに、辻川の腰に差してある拳銃が目に入った。気付いたときには、佐藤はそれを抜いていた。銃声が響き、はっと我に返ったときには、辻川が血を流して倒れていた。佐藤はパニックに陥り、そのまま逃げ去った。


 ――それが事件の真相だ。

 どうしてこんなことに、と佐藤は涙ながらに繰り返した。


「一度手を出せば、すべてを奪われる」


 陣内が低い声で言った。


「それが麻薬の力だ」


 サイレンが聞こえてきた。救急車と覆面の警察車両が才木たちを取り囲んだ。駆け付けた本郷刑事には、陣内が状況を説明した。


「――佐藤さん」


 救急車に乗せられる佐藤を、才木は呼び止めた。


「ここから、やり直してください。薬を絶って、ちゃんと罪を償ってください。あなたを支えてくれる人は、必ずいるはずだから」


 返事はなかった。ドアが閉まり、救急車が発進した。

 治療を受けた佐藤は今後、所轄の強行犯係と組対、それから麻薬取締部の事情聴取を受けることになるだろう。辻川を紹介した知人とやらが何者なのかを明らかにすれば、近年プロ野球界に蔓延まんえんしているドーピング問題にもメスを入れるきっかけになるかもしれない。

 佐藤は「理解できない」と断言していたが、彼の気持ちがわからないわけではなかった。プロの世界は生存競争が過酷だ。歳を重ねるごとに衰えを感じ、若手の台頭に焦りを覚え、佐藤は精神的に追い詰められていたのだろう。そこを、売人に付け込まれてしまった。


「悲しむでしょうね、柴原さん。子どもの頃からファンだって言ってましたし」

「佐藤にとって、ファンの存在は抑止力にならなかった。その事実が一番悲しいだろうよ」


 陣内のその一言は、才木の胸に深く刺さった。


「応援してくれているファンを悲しませたくない」という気持ちが少しでも佐藤に残っていれば、こんな事件は起きなかったはずだ。

 走り去る救急車を眺めながら、「もったいねえなぁ」独り言のような口調で陣内がこぼした。


「自分の力で勝負できるくせに、薬に頼りやがって」


 才木は少し驚いた。この男が、そんな情を滲ませた台詞せりふを吐くとは思わなかった。


「陣内さんも、なにかスポーツやってたんですか」

「どうしてそう思う?」

「なんとなく、そんな気がして」

「お得意の第六感か?」

「ただの勘です」


 陣内は煙草をくわえながら答えた。


「野球やってたよ。プロ野球選手目指して、毎日必死に練習してた」


 今の勤務態度からは想像もつかないな、と才木は思った。


「そんな可愛かわいらしい時代もあったんですね」

「小学六年まではな」


陣内は苦笑した。


「その頃、ドープの能力が覚醒したんだ。それからは、どんな速いボールでも止まってるように見えちまって、楽に打ち返せた。おかげでレギュラーは安泰だったけど、野球がつまらなくなった」


 この人には、いったいどんな世界が見えてるんだろうか――つい想像してしまう。便利な能力ではあるが、その分、この人にしかない苦労もあるのだろう。 

 陣内は煙草に火をつけ、目を細めた。


「あのまま、自分の能力を隠してプロになることはできただろうけど、なんとなく嫌だったんだよ。ズルしてるみたいで」

「陣内さんがそんなこと言うなんて、意外です」

「なんでよ」

「ズルが好きそうなのに」


 この野郎、と陣内は軽く才木の頭を小突いた。


「なんというか、皮肉ですよね。能力を求める人もいれば、持て余す人もいる」


 佐藤は、自分の実力以上の結果を求め、ドープに手を出してしまった。一方の陣内は、ドープに頼らず、自分の力で勝負することを望んでいた。


「ドープの最大の罪は、どんな人間にも麻薬を使う理由を与えちまったことだな」


 煙草の煙を吹き出しながら、陣内はそう言った。

 初めて陣内とまともに話をしたような気がした。彼の一服が終わるのを待ってから、才木は車に乗り込んだ。天井が見事に凹んでいる。運転席のドアを開けながら、「こりゃ課長に怒られるぞ」と陣内がにやにやしながら脅した。

 車を発進させ、夜の街を走る。特捜課のオフィスへと戻る道中で、「――なあ」と、陣内が声をかけてきた。


「お前、なんで麻取に入ったの?」


 どう答えるべきか、才木は一瞬悩んだが、正直に答えることにした。


「母親が、中毒者なんです」


 隠したとしても、どうせいつかは知られてしまうことだ。


「今は中毒者用の更生施設に入ってます。子どもの頃からずっと、母が麻薬をめられず苦しむ姿を見てきました。だから、こんな思いをする人を、これ以上増やしたくないって思ったんです」


 陣内は否定も肯定もせず、ただ「なるほどな」と返した。


「陣内さんこそ、どうして麻取に――」


 警視庁勤務だった男が、どういう経緯があって麻薬取締官として働いているのか。その理由を尋ねようとしたところで、邪魔が入った。端末の振動音が車内に鳴り響く。自分に電話がかかってきたようだ。


「――はい、才木です」


 電話に出ると、男の声が返ってきた。


『才木さん、夜分にすみません。お母さまのことで、至急お話したいことがありまして』


 ただならぬことが起こったことは、その切迫した声色から伝わってきた。能力とは関係なく嫌な予感がする。

「わかりました、すぐ行きます」と返事をしてから電話を切り、才木は運転席の男に告げた。


「……すみません、陣内さん。ここで降ろしてもらえますか」


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