#1 doper-⑥
尋ねようとしたところで、陣内が車を停止させた。事件現場に到着したようだ。助手席から降り、才木は周囲を観察した。マスコミにインタビューされた近隣住人が全員
車一台分が通るくらいの幅の道に黄色のバリケードテープが張られ、その先には青いビニールシートを
慌ただしく駆け回る捜査関係者。コンクリートに飛散した血痕。規制線の向こうで騒ぎ立てる報道陣。端末に写真を収める野次馬たち。凄惨で緊迫した現場を前にして、才木は思わず息を呑んだ。まさに自分は今、事件の最前線にいる。不安と緊張、それに罪のない人々を巻き添えにした犯人への怒りが入り交じり、気が
「ほら、これ着とけ」
陣内が投げ寄こしたのは、防弾ベストだった。NCDの三文字が記されている。
Narcotics Control Departmentの略だ。
「陣内さんは着ないんですか?」
「俺には必要ないの」
陣内は上着すら羽織っていない。シャツの上にはショルダーホルスターと拳銃、だらしなく緩んだネクタイのみ。バリケードテープの前に立っている制服警官に身分証を提示すると、陣内は規制線を越えて足早に進んだ。上着を脱ぎ、防弾ベストに袖を通しながら、才木も慌ててそれに続く。しばらくすると、チェーン店のコンビニが見えてきた。駐車場には数台の警察車両が
「よう、
陣内が名前を呼んだ相手は、その中心に陣取っているスーツ姿の男。腕章から、彼が警視庁捜査一課の人間だということは一目瞭然だった。
戸倉と呼ばれたその刑事は陣内とは顔見知りのようで、こちらを見るや否や緊迫した表情を少しだけ緩ませた。
「来たか、陣内」
「久しぶりだな。娘さんは元気か?」
「ああ。おかげさまで」
能天気に世間話をしている二人の背後から、才木は声をかけた。
「お知り合いですか?」
そ、と陣内は短く頷く。
「警視庁時代の同期」
この男が警察畑の人間だったとは。才木は驚いた。
「こっちはうちの新人。今日入ったばかりのひよっこ」
陣内に指差され、「才木です」と、才木は頭を下げた。
「お前が教育係なのか? 麻取は余程人手不足なんだな」
「うるさいよ」
一蹴し、陣内は本題に入った。
「――で、どんな状況?」
「刃物による通り魔事件だ。犯人の名前は
戸倉は規制線の外を指差した。
「吉岡は二人の通行人をナイフで刺し殺し、警官を軽々と返り討ちにして拳銃を奪って逃走。追いかけてきた警官に一発発砲した後、そこのコンビニに逃げ込んだ」
「浪人生か」と陣内は呟いた。
「受験のストレスで思い詰めて薬物に手を出す若者は、ここ数年クソほど増えてる。特に浪人生は割合が高い」
状況を簡潔に説明してから、戸倉はコンビニを指差した。「見ての通り、今は店員を人質に取っている」
ガラス張りのコンビニは店内の様子がよく見える。レジカウンターの前に二人の人影。一人は制服姿の小柄な女性。その背後にいるのが、若い男だ。被害者を刺したときの返り血が白いTシャツを染め上げていて、まるで赤い服を着ているかのように見えた。
「目撃者の証言によると、吉岡は終始意味のわからない言葉を叫んでいたそうだ。『盗聴されている』とか、『誘拐される』とか」
「支離滅裂な発言や度を超えた被害妄想は、麻薬中毒者によく見られる反応だ。ヤクのせいで幻覚症状が出てんだろうな」
「ああ。俺たち警察のことを宇宙人だって言ってた」
一触即発の状況だった。犯人は銃を人質の背中に突き付けている。人質が逃げたら撃つ、警察が動いたら撃つ、そう脅しているらしい。拳銃を所持している以上、
「狙撃手は?」と、陣内が尋ねた。
「SITに応援を要請したが、今は別件で立て込んでる。渋谷で起きたテロ事件に駆り出されてんだと」
「またテロ? 今年入って何件目よ」
まったくだ、と戸倉は頷き、「物騒な世の中になったもんだな」腕時計を
「事件の収拾がつき次第、こっちに来ることになっているが」
「待ってるうちに人質が死ぬぞ」
陣内は肩をすくめた。
「射殺の許可は?」
「やむを得ない場合は、とのことだ」
「要は、さっさと殺して終わらせてくれってことだろ? お偉いさんは
そう言って鼻で笑うと、陣内は脇のホルスターから拳銃を抜き取った。店に向かって銃を構えては、「あー、ここからでも頭狙えるなぁ」と、独り言のように告げる。
「一発目でガラスを割る。二発目でこめかみにぶち込む。いいな?」
よくない、と思った。現に、声に出ていた。「よくないですよ」と、才木は口をはさんだ。
「あ?」
「待ってください。犯罪者とはいえ、いきなり撃ち殺していいわけがないでしょう」
あのねえ、と陣内は露骨にため息を吐く。
「時代が変わったの。今の東京の犯罪率はデトロイトより
「それは、習いましたけど……」
十分理解している。この十年で日本の治安は変わった。凶悪犯の制圧も、今やすっかり欧米流だ。犯人の死亡で幕を下ろす事件も少なくない。
「あいつはもう三人殺してる。射殺したところで、誰も騒がない」
そういう問題ではない。才木は反論した。
「それでも、まずは犯人の説得を試みるべきです」
「時間の無駄」
「麻薬が人をおかしくさせるんですよ。いくら人を殺しているからといって、更生の機会も与えず犯人を射殺することは、人道に反します」
「じゃあ、お前がやってみ?」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます