#1 doper-②


「――え? 転勤?」


 長いようで短かった一か月の研修期間を終え、才木さいき優人ゆうとは新人の麻薬取締官として関東信越厚生局に配属されることが決まっていた。関東信越厚生局といえば、麻薬取締部の事実上の本部だ。庁舎は九段下にあり、地下鉄に乗っていた才木も今しがた九段下駅に到着したところだった。

 ところが、不意に掛かってきた電話で、上司が予想もしないことを言い出した。


『そう。うちに配属させる予定だったんだが、事情が変わってね。君には別の部署に移ってもらうことになった。新宿に転勤だ』

「転勤もなにも」才木は戸惑いの声色で返した。

「僕、今日が初出勤なのですが……」


 一度も出勤しないまま、才木の本部勤務は終了してしまった。


『勤務先の住所はメールで送っておいた。そこに向かってくれ』


 メールには新宿区の住所と会社名が記されていた。瀬川せがわビル二階、㈱鳥飼とりかい商事しょうじ――名前からして一般企業のようだが、インターネットで検索してもそのような会社は見当たらなかった。おまけに、瀬川ビルという建物も地図には載っておらず、いったいどういうことだと才木は途方に暮れた。年号が令和に変わって十年ほどがち、検索すればどんな情報でも手に入れられるこの時代で、まさか職場へたどり着くまでにこれほど悩まされるとは思わなかった。


「……どこに向かえって?」


 地図にないビルに、存在しない会社。きな臭い情報ばかりで心がざわめく。配属初日から嫌な流れだ。朝食に食べたカレーパンが今になって胸やけを起こしはじめた。

 このままではらちが明かない。誰かに道をこうと思い立ち、才木は辺りを見回した。前方の十数メートルほど先には、こちらに向かって歩いてくる大学生くらいの若者。このままいけば才木とすれ違うことになりそうだ。すぐ目の前には高齢の女性がいて、そのはるか先には自転車の姿も見える――通行人を観察していたところ、ふと嫌な予感を覚えた。心臓が跳ね上がり、鼓動が激しくなる。胸騒ぎがする。

 よくあることだった。こんなときはいつも、モノクロの映像が才木の頭に流れ込んでくる。携帯端末をいじりながら歩いている若者が、高齢の女性にぶつかる。その衝撃で女性がよろけ、前方から走ってきた自転車と接触する――そんな幻覚が見えてしまった。まるで未来予知のようなこの現象は、才木の持つ特殊な力である。

 若者は画面に夢中でこちらに気付いていない。才木は歩を速め、高齢の女性に近付いた。映像で見た通りの出来事が起こったのは、その直後だった。前方不注意の若者が、案の定、女性にぶつかった。才木がとっさに彼女の肩を支えたため、前から走ってきた自転車は衝突することなく過ぎ去っていく。


「大丈夫ですか」


 曲がった背中に手を添えて尋ねると、女性は笑顔で頷いた。


「ええ、ありがとう」


 胸騒ぎが収まった。事なきを得たところで、才木は本題に入った。


「すみません、この辺りに瀬川ビルって名前の建物ありますか? 検索しても見つからなくて」

「ああ、瀬川ビルね。そこの道の先にありますよ」


 小枝のように細い指で女性は路地の入り口を指差した。


「所有者が変わって、今はニュー西新宿ビルという名前になってるの」


 道理で地図に載っていないはずだ。才木は頭を下げた。


「ありがとうございます。助かりました」

「いえいえ。それじゃあ、お気をつけて」

「あなたも」


 女性と別れ、才木は言われた通りの道を進んだ。野良猫しか通らないような人気ひとけのない路地を抜けると、ようやく目当ての建物が見えてきた。


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