DOPE【ドープ】 麻薬取締部特捜課

木崎ちあき/ビーズログ文庫

#1 doper-①


#prologue



 虫の知らせ――などというものは、一切なかった。

 その日、陣内じんない鉄平てっぺいが自宅に帰宅したのは、深夜一時を過ぎた頃合いだった。警視庁勤務の同期に「一杯付き合え」と誘われ、庁舎からほど近い場所にある居酒屋で安酒を酌み交わしているうちに、いつのまにか日付が変わっていた。

 暢気のんきなものだった。適度に回ったアルコールが心地よく、久々の友人との語らいに高揚し、陣内は心も体も浮ついていた。友人と別れてタクシーに乗り込んでからも、初老の運転手と機嫌よく雑談を交わすほどだった。

 一軒家の自宅に到着し、にわか雨に打たれながらタクシーを降りた。妻はさすがにもう寝ているだろう。起こしてしまっては申し訳ない。身重の体に負担をかけないよう、陣内は爆弾処理班の隊員のような慎重な手つきで鍵を回し、足音を忍ばせて部屋の中に入った。

 雨音だけが響き渡るリビングは一切のあかりがなく、闇に満ちていた。電気をつけようときびすを返したところ、なにやら冷たい液体のようなものが陣内の足の裏をらした。

 血だ。

 蛍光灯のスイッチを入れた陣内は、それが血液であることに気付いた。北欧調の白い絨毯じゅうたんが真っ赤に染まっている。その血だまりの中央には、陣内の妻がいた。

 酔いが一気にめた。陣内はすぐさま妻に触れ、倒れている体を揺すった。声にならない叫びとともに、何度も妻の名を呼んだ。――返事はない。陣内は震える掌で携帯端末を取り出し、「1」を二度押した。

 二人分の命を宿した彼女の肉体は、うに冷たくなっていた。全身十数か所にも及ぶ刺し傷を残して。それがなにを意味するのか、陣内には嫌というほどわかっている。職務上、何度も経験してきたことだ。

 それでも、認めたくなかった。赤く染まった指先で、陣内は最後の番号を押した。


「0」ではなく、「9」を――――





「――陣内さん!」


 名前を呼ばれ、陣内は目を覚ました。

 はっと顔を上げて辺りを見回す。真っ先に目に飛び込んできたのは、スリープモードに入ったパソコンのディスプレイ。見慣れた光景だった。ここは自宅のリビングではない。職場だ。

 また昔の夢を見ていたようだ。同僚のキーボードをたたく音に眠気を誘われ、うつらうつらとしているうちに、いつの間にやら机に頭を預けていた。職務中に居眠りとは褒められたものではないが、陣内にはよくあることだった。寝違えた首をしかめっ面でんでいると、前のデスクから若い声が飛んできた。


「大丈夫っすか、陣内さん」


 後輩の男が陣内の顔色をうかがう。名前は柴原拓海しばはらたくみ。五年目の麻薬取締官だ。


「ずっとビクビク痙攣けいれんしてましたけど、夢でも見てたんすか?」

「……ああ、嫌な夢見た」欠伸あくびみ殺しながら陣内はうなずいた。


「魚になって海の中泳いでたら、いきなり漁師に釣り上げられたのよ。そんで、まな板の上に載せられてさぁ」

「いや何すか、その夢」

「やー、助かったわ。お前が声かけてくれなかったら、俺、あのままさばかれてた」


 陣内はわざとらしく安堵あんどの息を吐いた。

 夢見が悪く、寝た気がしなかった。「ちょっと仮眠してくるわ」と席を立つ陣内に、柴原はあきれたような声色で笑う。


「そんなんじゃ、新人に示しがつかないっすよ」

「……新人?」

「今日、新人が入ってくるって、葛城かつらぎ課長が言ってたじゃないすか」


 新人ねえ、と陣内はつぶいた。だからといって自分の行動を改めるつもりはない。陣内は愛用のアイマスクを手に取ると、デスクに背を向け、無精ひげをさすりながら仮眠室へと向かった。


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