第30話 祈る想い

出撃したお兄様のことが心配で堪らなくて、結局うつらうつらとした状態のまま、窓から差し込む柔らかな光で夜が明けた事を知りました。

まだ帰ってこない愛しい人の事が気になって、ベッドから起き上がると扉の方をジッと見つめてしまいます。

入ってくる陽射しが、はっきりとしてきました。



…ガチャ……



「アル兄様!」


ゆっくりと開く扉の前まで駆け寄ると、驚いた様子で僅かに目を見開いたお兄様が立っていました。


「ルゥナ、もう起きてるの? というか、寝てなかった?」


お兄様の透けるような金の髪色が若干濃くなっており、その毛先から汗の雫がほんの少し浮かんでいます。

優しい眼差しで私を見つめる顔からは疲労が滲み出ていて、隊服は土埃で汚れていました。


「アル兄様が心配で……大丈夫でしたか?」

「うん、大丈夫。ありがとう。でもルゥナはしっかり休んでいないとダメだからね。……とりあえず仮眠を取りに戻ったけど、また出るようになると思う」


部屋に入る彼の隣について歩きながら、心配を隠せない表情のままジッと見上げてしまいます。

髪をかき上げながら隊服の上着を脱いでいく動作も、いつもとは違って漫然とした様子から、かなり疲れているのだとすぐに分かりました。


「汗を流してくるから……一緒に入る?」


にこにこと微笑みを浮かべているその顔は、いつもより青白いものでした。

魔力量も随分減っていると思われるお兄様はかなり無理をしていて、私を心配させまいとあえて軽い口調をしているんだとすぐに気が付きます。


「……朝食をお願いしてくるので、準備しておきますね」


首を振ってやんわり断りながら、自分でも上手く笑えていないと分かる笑顔を向けてしまいました。

揺れる瞳も抑える事が出来ません。


「……ありがとう……フューラー統括にルゥナの食事も一緒に届けてもらうように指示しているから、じゃあ準備よろしくね」


ふわりと微笑み浴室へ入っていったお兄様の姿を最後まで見届けると、朝食の準備をするためにくるりと方向転換しました。




「……ふぅ……あ、ルゥナ、朝食ありがとう」


タオルを腰に巻いたままの状態で浴室から出てきたお兄様の瞳は、少しばかりとろんとしていました。

風魔法を行使していないのか、髪も濡れたままタオルを無造作にかけただけの状態でした。


「アル兄様、ベッドに転がってくださいね。何食べますか? とりあえず、お水どうぞ」


お兄様をそのままベッドに引っ張っると、もう一つのベッドから持ってきた寝具で作った背もたれにゆっくりと腰を下ろしてもらいます。

これなら、ベッドでゆっくり横になりながらもご飯を食べる事が出来ます。

せっせとお兄様の口にパンや卵を運んでいきその顔色を観察しながら、他にやれる事がないかどうか必死に考えます。


「ははは。ルゥナ、病人じゃないから、ここまでしなくて大丈夫だよ。ありがとう。それより、ルゥナも食べて」

「……そうですか。じゃあ……」


ベッドの近くに引き寄せたテーブルの上に並べた朝食の器をお兄様に渡すと、枕元へ腰を下ろしました。

まだ濡れている髪をタオルで丁寧に拭った後、取ってきた魔法具で乾かしていきます。


「……ルゥナ、ありがとう……」

「……私に出来る事は、あまりないから……」


サラサラのお兄様の髪の毛を優しく手で梳きながら、熱風をあてていきます。

私に風魔法が使えたら、すぐに乾かしてあげる事が出来ます。

治癒魔法が使えたら、怪我したお兄様をすぐに助ける事が出来ます。


(でも、私は、どちらも使えない……どころか、『火』ぐらいしか使えない……)


何も役に立つ事が出来ない私は、出撃していくお兄様の無事を祈る事しか出来ません。


「ルゥナは凄い事が出来るでしょ。昨日の結界の話、ちょっと詳しく聞いてもいい? ほら、ルゥナ、口開けて」


お兄様の背後にいる私の口に、パンを入れてくれました。

髪を乾かす合間にご飯を食べさせてもらいながら、記憶にある限りの昨日の結界の様子を話していきます。

時折お兄様は何かを思案するように、僅かに目を伏せて思考の波へと入っていきました。


髪を乾かし終えてお兄様の隣に腰を下ろすと、朝食に出されたオレンジを剥いて彼の口へ運びます。


「アル兄様、どうぞ」

「ん。ありがとう……」


隣にいるお兄様の身体から僅かな体温を感じ、ふわりと笑うその顔を見ると、やっと少しだけ安心する事が出来ました。


「……ルゥナは、昨日もつれる結界を後、所々に絡みあっていた箇所が綺麗にほどけてって言ってたよね?」

「はい……」


自分の記憶を再度探っていきながら、真剣な眼差しで私を見つめるお兄様に頷きました。


「これは僕の推察だけど、おそらくほぼ間違いないと思う。結界の修復には、が必要なんだ。それは常にセットで行わなければならない。特に箇所は、いわば結界の穴みたいなものなんだと思う。昨日から、そこの部分からの魔物の侵入が相次いでいる」


昨日の結界の様子を思い出し、織物を思い浮かべました。

確かにしまった箇所はスルスルと通り抜けていく事が出来そうです。


「な、なら、私が昨日しまったから……」


自分がしてしまった事の重要さに気が付いて、一気に血の気が引いていきます。


「大丈夫。ルゥナのおかげでここまで辿り着いたんだし。昨日の箇所はそこまで大きくないでしょ? なら逆にその箇所に魔物が集中するわけだから、そこに騎士隊を配備しておけば良い。後はルシアンがすぐに来るだろうから、それまでの数日間集中すれば、結界は修復できる」


お兄様は青ざめる私を包み込むと、頭を撫でてくれました。


「……でも、アル兄様が……」

「ははは。大丈夫だよ。今話して確信も持てたし、これならローテーション組めば数日間なら平気で持たせられる。──それより、ルゥナの体調は? 昨日、闇属性の魔法を行使したんでしょ? 結界へした時は、本当に大丈夫だったの?」


抱きしめていた身体を離して私の肩を強めに掴んだお兄様の眼差しは、怖いぐらいに真剣でした。


「大丈夫です。何もありませんでしたし」

「……そう……良かった……」


目を伏せたお兄様はふっと力を抜くと、大きく息を吐きます。


「じゃあ、後はルシアン様が来るまで、アル兄様は度々出撃されるという事ですか?」

「そうだね。今東の砦には二個大隊が駐留しているけど、一個大隊は今年配属された新人が多いからね……大丈夫だよ、そんなに心配しないで。じゃあ、3時間後に起こしてくれる?」

「……分かりました……」


どうしても揺れる瞳を抑えることが出来ない私の顔を見て、お兄様がおでこにキスをしてくれました。

ベッドに背もたれとして置いていた寝具を除けて横になった彼の目は、限界に近いのかとてもとろんとしています。


「……ルゥナ、こっちにきて……」

「うん……」


ふわりと笑うお兄様の広げた腕の中に潜り込むと、優しく私の全身を包み込んでくれました。

すぐに寝息を立てた彼の身体に顔を埋めながら、ぎゅっと抱きしめます。

愛しい人の温もりと香りを胸いっぱいに感じると、安堵から身体の力が抜けていき、とろとろとした眠気に襲われてしまいました。


(アル兄様……愛してる……)





ハッと目が覚め隣をうかがうと、彼はもういませんでした。

布団をしっかりと掛かけてくれていて、朝食の後も片付けてありました。

自分が本当に情けなくて、滲む涙を抑える事が出来ません。



コンコンーー


「あ、はい!」


溢れ落ちそうになった涙を拭うと、扉まで駆けていきました。


「ごめんなさい、お待たせしました」


扉を開けると、女性の騎士隊の方が立っていました。


「アルフレート様からのご指示で、昼食をお持ちしました。後は、本を何冊かお持ちしまして。ルーナリア様は部屋から出ないようにとのご伝言でした」

「ありがとうございます」


運んでくれる昼食や本をぼんやりと見ながら、女性の騎士隊の方に再度お礼を言って扉を閉めました。

1人になった部屋の窓から、結界があるだろう方向を見つめます。


「アル兄様……」


お兄様の細やかな気遣いから、どれだけ私の事を想ってくれているのかとてもよく分かります。

ですが、私はあの人のためにできる事が全然ありません。

ただ部屋で待っている事しか出来ない自分が、悔しくて悲しくて、堪らない──そんな気持ちのまま、固く目を瞑りました。



ふと気が付いたら、手元を照らしている陽の光が穏やかな橙色に色付いていました。

お兄様が準備してくれた本を読みながら過ごしていた時間でしたが、結局頁は止まったままでした。

窓の外には、ぽつりぽつりと火魔法具ルーチェで灯された明かりが光っています。


(せめて、私が体調を整えて、起こす事ぐらいはしないと……)


運ばれてきた夕食をきちんと食べて、1人で入浴を終えると、闇夜を映し出す窓を開けます。

魔法具の光があちこちで上がる中、新月なのか空には何も浮かんでいませんでした。


愛しいあの人が無事戻ってきてくれる事を願いながら、今は遠くにあるはずの月に向かって祈りを捧げます──

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