第29話 怯える心

私の涙が引くまで、彼はずっとずっと頭を撫でてくれていました。


「……ルゥナ、落ち着いた? 一度砦に戻ろうと思うけど、大丈夫?」

「……うん……ごめんなさい……もう、大丈夫です……」


濡れた頬を拭いながら彼から身を離すと、気恥ずかしさで熱をもった顔のまま見上げます。私の顔色を暫くうかがっていたお兄様は、柔らかく微笑むとそっと頬に手を当てました。


「じゃあ、行こうか」

「……うん」


差し伸べてくれた手を取ると、置いてきた鹿毛の馬の所まで手を繋ぎながら向かいます。

まだあちこちへと行き交っている騎士隊の人にチラチラと見られたのですが、どうしてもその手を離すことが出来ませんでした。


(……そもそも、さっきは抱きついちゃったし……手を繋ぐぐらい、どうって事ない、よね……)


赤く染まった頬を自覚したまま、彼の手を強く握りしめました。




砦に戻るや否や、お兄様はルシアン様へ風便を飛ばしました。


「これで、後はルシアンが来るのを待つだけだ。──ルゥナ、もう大丈夫? 今から食堂で夕食が出されるけど、食べれそう?」

「大丈夫です、アルにぃ…アル。砦の夕食なんて、楽しみで仕方がありません」


にっこり微笑みながら気遣わしげな眼差しをしたお兄様を見上げると、その顔に少しだけ安堵の色が浮かびました。

心配ばかりかけてしまってこれではいけないと思い、食堂までの案内をねだるようにぎゅっと握り締めたその手を引っ張ります。


東部へは度々派遣されていただけあって、砦の内部にも熟知しているようなお兄様の足取りに迷いはありませんでした。

ここには騎士隊の人たちだけでなく、砦を支えるために働いている貴族でない人も多くいます。

ですが、魔法局の紫紺のローブを羽織っている人間は私ぐらいでとても目立っているのか、すれ違いざまにハッとした顔をされます。


一緒に歩いているお兄様も漆黒の隊服からすぐに晦冥(かいめい)の騎士だと分かるため、そんな私たちが並んで歩くと注目を集めるのは当たり前だと大いに納得しました。


「はぁ……やっぱり皆、ルゥナの事見てる……騎士隊って男が多いし……あぁ、嫌だ……」

「……アルの事も見てますよね?」

「……うん、まぁ僕はきっと、だろうから……」


苦笑いをすると、少しばかり遠い目をしたお兄様を見て、思わず首を傾げてしまいました。




夕食のスープを一口飲んだ途端、ぴたりとその手が止まります。


「アル兄様、これは……?」

「あぁ、砦ではよく出るんだよ。疲労回復効果もあるし、魔力量の回復の補助にもなるんだ」

「ふわぁ〜。そんなスープなんですね〜」


豚肉と野菜が沢山入ったスープは、少しだけピリリとした刺激があって、口の中がじんわりと熱を帯びてきました。

食べれないほどではないのですが、途中でくるみパンを食べたり水を飲んだりして辛さから逃れながら、はふはふと食していきます。


「ルゥナ、大丈夫? そう言えば、あまり辛いものって家では出された事ないよね。あ、あまり水飲んだら益々辛くなるから、途中は控えた方がいいよ」

「あ、ありがとうございます…アル……」


必死になってスープを食べていくのですが、辛くて瞳は潤み頬は火照っていきます。

この辛さが疲労回復に繋がるのだと感動の思いで食べていくのですが、どうしても時間がかかってしまいます。

隣にいるお兄様はもう食べ終わっているようで、涼しい顔をしながら水で喉を潤していました。

慣れている様子でしたが、若干ぷっくりと紅く色付く唇と僅かに潤んだ瞳が、何とも言えない色気を醸し出していました。


「はぁ……砦の騎士隊の方は、大変ですね……」


どうしても我慢できなかったため、くるみパンを一口ちぎって口に入れます。

ふと周囲の様子を見ると、何だかすごく注目されているようで、多くの人の視線を感じて固まってしまいました。


「ルゥナ、やっぱり無理そ……っ! ダメダメ、これは不味い……!」


パンを咀嚼している私の顔を見たお兄様が、息を呑むと慌ててフードを頭に被せました。


「アル兄様……? これ、目立ちませんか?」


視線を遮ることが出来て若干安心しながら、隣に座るお兄様を見上げました。


「今更だよルゥナが目立つのは……それが、こんな色気たっぷりのルゥナを、他の男に見せるわけにはいかない……」

「……色気?」


若干冷ややかな目で辺りを見渡すお兄様に、ついつい首を傾げてしまいました。

軽く目を伏せてふっと息を吐いた彼の方がとてつもない色気があり、思わず魅入ってしまいます。


「そんなトロンとした瞳に火照った顔して、おまけに可愛い唇が紅くぷっくりと色付いるルゥナは、今すぐキスしたくなるぐらいだよ」


私の顔を覗き込みながら、とろけるような笑顔を向けてきます。

僅かばかり熱を孕んだその瞳に間近で見つめられ、今すぐキスをされるのではと思った身体がきゅっと硬直してしまいました。


「だ、ダメです、ここでは……」


スープとは違った火照りで、顔が赤く染まっていくのが分かりました。


「ははは。残念だけど、さすがにルゥナが嫌がるだろうからそんな事しないよ。それに、他の男に見せたくないし。さ、食事を終えて部屋に行こう」


私から顔を離すと、お兄様はにこやかな笑みを浮かべながら食器を綺麗に片していきます。

騒めく周囲の声から、あんなに顔を近づけた私たちはキスをしたのだと勘違いをされたのではないかと疑ってしまいました。

気恥ずかしさを隠すように急いで残りの食事を終えると、そのまま手を繋いで食堂を足早に立ち去りました。



騎士隊員の人に部屋の鍵を渡されたお兄様は、迷いなく砦の奥へと足を進めていきます。

途中階段を登っていき少しだけ複雑に入り組んだ廊下を奥へと歩いていくと、周囲から人気が無くなっていきます。


「砦の部屋は基本的に2人一部屋だけど、ローテーションで1人部屋が順番で回ってくるシフト制なんだ。指揮官クラスの1人部屋はかなり広いんだけど、今は近衛隊員が2人来ているから、空いてないらしくて。だから、今日は2人部屋にしてもらったよ」

「……やっぱり、偉い人は違うんですね……アル兄様も、東の砦に来られてた時は、指揮官クラスの1人部屋を使っていたんですか?」

「うん。近衛隊は有事の際には砦の全権を指揮できるから、実際は統括よりも権力持っているしね。僕は副隊長だから王族の警護の任だけじゃなくて、王城で機能している各局への監査的な役割も担ってるよ」


その言葉を聞いて、思わず足を止めてしまいます。


(そ、そ、それって、とんでもない権力と発言権なんじゃ……? もしかして、マリウスさんを騎士隊に配属変え出来たのも……!?)


色々な情報が頭の中を駆け巡っていきます。


「ルゥナ? 大丈夫?」

「あ! 大丈夫です! 何だか、色々と驚いてしまって……私、全然知らなかった………アル兄様が、モテるはずですね……」


少し項垂れてしまった私の頭を、お兄様が慰めるようによしよししてくれました。


「さ、もうそこが部屋だよ」


促されて顔を上げると、突き当たりに白磁色の扉が見えました。

鍵を開けて中へと入ると、旅で立ち寄った中流の宿といった感じで、想像以上の質の高さに目を輝かせます。


「わ〜。簡素で基本的に寝るだけって聞いてましたが、結構広いですね〜」


部屋の両端にはそれぞれベッドが一つずつ置いてあって、窓際には机がちゃんと2つありました。奥には浴室があるようで、簡素ながらもとても住み心地は良さそうでした。


「2つあるけど、寝るときは一緒のベッドで寝ようね」

「ちょっと小さいですけど、大丈夫でしょうか?」

「大丈夫大丈夫、いっつもルゥナを抱きしめて寝ているから、落ちる時は一緒だよ」

「ふふふふ、そうですね。一緒に落ちましょうね、アル」


くすくすと笑い合うと、何だかぽかぽかと温かい気持ちになってきました。


「ルゥナ、おいで」

「……アル……」


お兄様が広げてくれた腕の中へ、その身を滑り込ませます。

彼に包み込まれるだけで心が満たされていき、愛しさが溢れました。


「アル……大好き……」

「ルゥナ……愛してる……」


暫くの間、お互いの温もりを分かち合うかのように抱きしめ合います。

ゆっくりと離れていく身体を意識していると、私の頬をそっと包み込む彼の手に導かれるように唇が重なり合いました。


「ん……アル……」


お兄様の柔らかな唇が、私の唇を何度も喰んでいきます。私もその動きに応えるように、何度も唇を喰んでいきます。

その唇の中からチロリと出てきた舌が、優しく私の口内へ侵入してきました。


「はぁ……んんっ……」


私もお兄様の舌へと絡ませるように、自身の舌を動かした時です──



ーードンドンッ!!!



「アルフレート様っ! 緊急です! 大量の魔物が侵入してきました!」

「ルゥナ。絶対にこの部屋から出てはダメだ」


空色の瞳を凍てつかせたお兄様は、突然の事に呆然と固まってしまった私の目を覗き込みました。


「あ、アル……」

「行ってくるよ、ルゥナ」


私の身体を一度ぎゅっと強く抱きしめると、離れ間際に軽くキスをしてくれました。


急いで部屋から出ていくお兄様の後ろ姿を、言葉を失ったままただただ見つ続けます。


(アル兄様……)


まだ唇に感じることが出来るあの人の微かな熱と、愛しい人の僅かな残り香をかき抱いて、溢れそうになる涙を堪え1人ベッドに潜り込みました……

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