第28話 東の砦
「凄く大きい……」
アナトレー家を辞した私とお兄様は、渡し船に乗るための船着場へと到着しました。
目の前に広がる
海へと向かって脇目もふらずに緩やかに流れていくその情景に、見惚れてしまいます。
ずっと続いていた雨のせいか、思った以上に勢いがあるその流れと水かさに目を奪われます。
深い青色の合間に茶色が混じっているのも分かり、海とはまた違ったその迫力に息を呑みました。
「これが、レーン川だよ。今は雨上がりでかなり深い色合いだけど、通常ならもっと透き通った青色をしてるんだ」
「今でも綺麗なのに……その川の様子ぜひ見てみたいです。きっととても美しい姿でしょうね」
「戻りの時には見れると思うよ。ルゥナと一緒に見るのを楽しみにしておこう。──さ、渡し船に乗って渡ろう。レーン川を渡ったら、後3本の川を渡ることになる。そこを超えたら東の砦だ」
お兄様の差し出してくれる手を取ると、渡し船に乗り込みます。
海とは違って、そこまで揺れず緩やかに動く船に感動しながら、周りの景色を楽しんでいきます。
川から流れる清廉な香りに包まれると、不思議と穏やかな気持ちになってきました。
目を閉じて頬にあたる風と匂いを堪能していると、優しく私の頬を包む込む温もりを感じました。
「アルの手、あったかい……」
目を瞑ったまま、その手に自分の頬を擦り寄せます。
「頬にあたる風が、雨上がりの匂いがするね……」
ふわりと鼻先をお兄様の香りがくすぐったかと思ったら、突然唇に柔らかなものが触れました。
パチリと目を開くと、お兄様の空色の瞳がすぐそこにありました。
「ふふ。ルゥナの匂いがする」
「あ、アル兄様……こんな所で、き、キスしたら……」
赤くなる顔と潤む瞳のまま、咎めるような目で隣に座るお兄様を見上げます。
「ははは。ごめん、ごめん。大丈夫、ほら誰も乗っていないんだし。ルゥナがそんな可愛い顔して目を閉じていたら、キスするしかないでしょ」
優しい笑みを浮かべながら私を見つめるお兄様の顔を見ると、私の怒りなんて瞬時にどこかに飛んでいってしまいました。
お兄様の身体に身を寄せると、その手をぎゅっと握りしめます。
「……東の砦は、大丈夫そうでしたか?」
「うん。昨日かなり殲滅させたから大丈夫だと思うけど。……状況は、あまり良くない、かもね……侵入の頻度がかなり増えている……」
憂いを含んだその顔は真剣な眼差しのまま、今から向かうであろう砦の方向を見つめていました。
(……結界調査……上手くいきますように……)
お兄様も思っていることは一緒なのか、繋ぎ合ったその手を互いに固く握りしめました。
♢
「アルフレート様っ!! 昨日はありがとうございました!」
「フューラー統括。状況はどうなっている?」
砦に着くなりフューラー統括はお兄様に向かって駆け寄ると、砦の状況を説明していきます。
重々しい表情をしたお兄様は頷いたり指示をしながらも、歩みを止める事なく砦の内部へと進んでいきました。
周囲にいる騎士隊の人々は、そんなお兄様を遠巻きに眺めながらも忙しなく動いていて、どこか砦全体に緊迫した雰囲気が漂っています。
「うん。それなら、今からなら『調査』に行けるかもしれないな」
フューラー統括から一通りの状況説明をされたお兄様は、顎に手を当てながら何やら思案した後に、ポツリと呟きました。
「ルゥナ、着いたばかりで悪いけど、今からすぐに『調査』に赴こうと思う。体調は大丈夫?」
「あぁ! これはこれは、アルフレート様の奥方様! ご挨拶もせずに大変失礼しました」
「いいえ、フューラー様。こちらこそ、ご挨拶の機会を逸してしまい大変失礼をいたしました。アルフレートの妻のルーナリアです。よろしくお願いします」
慌てて私に向かってお辞儀をするフューラー統括に、私も丁寧にお辞儀をします。
ただお兄様の名前を呼んだ時、ついつい頬が赤く染まってしまいました。
「いやはや……このような美しい方が奥方様だとは……さすがアルフレート様ですな。いやぁ、素晴らしいお二人で……」
「ありがとうフューラー統括。では、昨日も言ったように、今から妻と『魔物調査』に赴くから、一個中隊を念の為後方で待機させといて」
お兄様は私たちをまだマジマジと交互に見比べているフューラー統括に、にっこりと微笑みながら指示を出しました。
「はっ! すぐに準備いたします!」
アナトレー家で用意してもらったサンドイッチを手早く食べると、準備された鹿毛の馬にお兄様と一緒に乗って砦を出発します。
「はぁ、家のたまごサンドが食べたくなった……」
「ふふふ。アルは、家のたまごサンドが大好きですもんね。でも、分かります。今日のサンドイッチも美味しいんですが、そろそろ家のご飯が食べたくなってきましたね」
くすくすと笑みを溢しながら、随分と懐かしくなってきた我が家を思い浮かべました。
「ルゥナは、学園以外はこんな風に出た事ないもんね。そう思うと、凄い大冒険だ」
「えぇ、本当、凄い大冒険なんですよね。ふふふ」
お兄様が私の緊張を解そうとしてくれているのに気が付いているものの、どこか緊迫した雰囲気を拭い去る事が出来ません。
(東部の結界は…………私に、何が出来るのだろうか……)
背中から感じるお兄様の温もりだけが心の拠り所で、その腕に包まれる様に後ろへもたれ掛かりました。
「ここからは馬を降りよう。万が一の場合、ルゥナはすぐに砦に向かって走ること。いいね? 後方には一個中隊が待機しているから、そこと合流するんだよ」
「分かりました、アル……アルも、絶対に無理しないでね」
お兄様は絶対に私の為なら無茶をする──
それが怖くて堪らなくて、揺れる瞳を抑えきれないまま酷く真剣な眼差しをした彼を見つめました。
「大丈夫。僕が強い事はルゥナも知ってるでしょ」
「……うん……」
ふわりと微笑みながら私の頭を撫でてくれる彼に向かって、まるで幼い子どものように頷いてしまいました。
(……でも、いくらアル兄様が、強いっていっても……)
愛しい人を守る事も出来ず、ただただ守られてばかりいる自分が、歯痒くて堪りませんでした。
僅かに震える指先を隠すようにグッと手を握りしめると、結界へと向かって歩みを進めていきます。
自分の中の恐怖心を抑え込みながら歩いていましたが、結界の前まで魔物との遭遇もなく無事辿り着く事が出来ました。
目の前には、光り輝く結界が広がっています。
その姿を、ジッと見つめてみました。
(……これは……)
南部で見たものと同じで、東部の結界も7色の色で織りなす織物のような造りをしていました。
ですがよくよく観察してみると、南部の結界とは大きく違う点に気が付きます。
「……ルゥナ? 大丈夫?」
指先ひとつ動かす事なく結界に目を凝らす私を見て、お兄様が心配そうな視線を送ってきました。
「アル兄様……ここ東部の結界は、なんて言うか……
「
南部の結界は、7色の色が複雑にだけれども
ですが、今この目の前に広がる東部の結界は、例えるなら編み物の糸がそこかしこに絡み合って
その為、所々結界に穴が開いている様な状態になっているように思えました。
必死になりながら、お兄様に今自分が見えている様子を説明していきます。
「なるほど……これが、『結界の破綻』なのか……?」
お兄様は光り輝く結界の様子を眺めながら、何やら深く考え込んでいます。
(絡まった糸は、一旦
ふと編み物を思い出した私は、そんな事を思い付きました。
その瞬間、自分の中で何かが大きく閃きます。
「あっ!」
「っルゥナ! どうしたの?」
考えが浮かんでしまってついつい大声を上げた私に、お兄様がかなり焦った様子で素早く周囲を確認しながら隣にぴたりと寄り添いました。
「アル兄様……もしかしたら、出来るかもしれません……」
「……分かった……ルゥナのその閃き、試してみて……でも、絶対に無理はしないで」
「はい、大丈夫です」
お兄様に向かって少しだけ昂った気持ちで頷くと、そっと結界に手を伸ばしてみます。
緊張した面持ちで剣を右手に持ったお兄様は隣に立つと、興奮気味の私の顔をジッと見つめてきました。
……とぷん……
結界のゆらゆら揺れる光の中へと、手を差し入れました。
暖かくて、柔らかくて、ふわふわしているような、水面の中にいるような不思議な感触を手に感じながら、意識を集中します。
(私は、全属性に
複雑に絡み合った、基本属性の光の一つ一つに
「……っルゥナ……」
チラリと見上げたお兄様は、僅かに顔を青くさせどこか呆然とした様子でした。
「……ふぅ……」
差し入れていた手を引っ込めると、自分が
ですが手を戻した私を確認した途端、お兄様が左手で私の身体を抱き寄せるとその腕にぐっと力を込めました。
「っルゥナ……!」
「アル兄様? 大丈夫ですよ? 私はなんともありませんから」
見上げたお兄様の瞳は僅かに揺れ、剣先が小刻みに震えていました。
私の瞳を暫く見つめていた彼でしたが、一瞬ぎゅっと目を瞑ると軽く息を吐きました。
「……ごめんね、ルゥナ。何でもないから、大丈夫。──それより、結界はどうなったの?」
にっこりと微笑むお兄様の様子が気になったものの、促されるまま結界の方に視線を戻します。
すると、さっきまで所々に絡みあっていた箇所が綺麗に
(これならきっと、ルシアン様に
私の説明を必死に聞いていたお兄様が、ピクリと身体を反応させます。
「ルゥナ」
私の名前を呼ぶ声が聞こえた瞬間、身体の周囲に防壁魔法が展開されました。
ーーーヒュゥゥゥゥッッ!
音がした上空を見上げると、火魔法が打ち上げられています。
「
お兄様は雰囲気を一変させると、周囲に冷気を漂わせながら、結界の向こう側を凍てつく眼差しでひたと見据えました。
「わ、わかりました……」
少し足がもたついてしまう自分を本当に情けなく思いながら、後ろに向かって踏み出します。
ッドン ッドン
結界の向こうから響いてくる足音に、私の心臓が激しく鼓動し身体中が小刻みに震えてしまいます。
お兄様は微動だにせずに、ジッと前方を見つめ続けています。
ーーッッガァァァグァァッッ!
前から聞こえてくるその声に、思わずビクッと身体が跳ね上がってしまいました。
見ると、結界の外側から続々と魔物が侵入し始め、お兄様を囲うようにしていきます。
(アル兄様……)
滲んでいく瞳を、ガタガタと恐れ慄きそうになる全身を抑えながら、ゆっくりと後ずさっていきます。
そうしながらも私の視線は、どんどん遠ざかっていく愛しい人の姿を捉え続けています。
無事だけをただひたすらに祈るように、両手を固く握りしめました。
「アルフレート様!」
後方から騎士隊の人々の声が耳に入ってきて、安堵からその場で座り込みそうになる自分を何とか奮い立たせます。
次々と怒号が湧き上がる中、漆黒のお兄様の周囲がゆらりと揺らめきました。
ーーーッピキィィィィィィィンッッッ!!!
頬にひやりとした冷気を感じたと思ったら、お兄様の周囲の
あちこちでどよめく歓声が響き渡る中、私の方を振り返ったお兄様がふわりと微笑みました。
「アル兄様……!」
込み上げてくる想いで瞳に涙を湛えたまま、震える両手をぎゅっと握りしめて、今は隣にいない愛する人の姿を何とか視界に映します。
結界の外側に再び視線を向けたお兄様は、合流した中隊長と思われる人に何か指示をしているようでした。
「ルゥナ。大丈夫だった?」
スッと頬にあたる風と共に現れたお兄様を見て、瞬きをした私の目からぽろりと一粒の雫がこぼれ落ちました。
「……大丈夫です、アル。ありがとう……」
私の頬に流れ落ちた涙をそっと拭ってくれるお兄様の手を感じ、人目があるのを憚ることなく彼を強く抱きしめました。
優しく私の頭を撫でてくれるその温もりで、今度こそ抑えることなく彼の胸の中で身体を震えさせながら泣いてしまいました……
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます