第27話 埋まるカケラ
扉を開けて入ってきたお兄様は目を見開いたまま、動きを止めて暫く私たちを凝視しました。
ほんの一瞬辛そうな表情を浮かび上がらせ、その瞳が昏く沈んだのが分かりました。
「あ、アルフレート様! すみません……あ、あの……」
「今戻ったよ」
すぐに綺麗な笑みを浮かべたお兄様が足早に近づいてきたのですが、何処か仄暗さを感じさせる空色のままでした。
「ルゥナ、おいで。……レザン、手間をかけたね」
「いいえっ! 申し訳ありませんでした!」
お兄様はレザン先輩の腕の中から、そっと優しく私を抱きかかえます。
レザン先輩は僅かに顔色を悪くさせながら俯きました。
「ははは、レザン、そんなに怯えないでよ。大丈夫、色々とありがとう。……ラフレは?」
「あ! 寝てしまったので、そこへ……あの、本当にすみませんでした……」
レザン先輩はソファにいるラフレの元へ駆けていくと、寝ている身体を抱き上げてそのまま部屋から出ていきました。
顔色を悪くさせたままのレザン先輩が少し気になって、去りゆく彼の背中をぼうっと見つめてしまいました。
「アル兄様、おかえりなさい」
腕の中から見上げたお兄様は私をチラリと
「ルゥナっ!」
「…っんん…アル……」
ベッドに若干激しく降ろされた私の身体にお兄様は覆い被さると、荒々しく抱きしめながら唇を塞いできました。
「……っ! ルゥ、ナ……っ」
「っんんっ! …はぁ…っん……」
頭を強く掻き抱かれ、何度も何度も押し付けるようなキスをされます。息も継げないような激しいキスで、私の頭は酸素不足に陥ってふわふわになっていきます。
「…っんぁっ……んっ……ぅんっ……」
無理やりこじ開けるようにして舌が入ってきた瞬間、身体がびくりと大きく跳ね上がりました。ふっと唇が離れ身体が軽くなるのを感じて閉じた目を開くと、大好きな空色の瞳と視線が交わります。
見上げたお兄様の顔は、何故か酷く苦しそうなものでした。
「……アル、にいさま?」
「……ごめん、ルゥナ……っくそ」
お兄様は身体を起こして私の隣に座り直すと、前髪をぐしゃりとかきあげてぎゅっと目を瞑りました。
僅かに震えるその睫毛から何かに苦悩しているのが見てとれた私は、心配で堪らなくなります。
「アル兄様、どうしたんですか? 私、何かしてしまいましたか?」
「っ! ごめん、ルゥナのせいじゃない……僕が、ダメなんだ……」
目を伏せて憂鬱そうな表情を見せるお兄様の手を、そっと握りしめました。
その瞬間、微かにその手がぴくりと反応しました。
こんなに苦しそうな彼の姿を初めて見て、自分の胸までぎゅっと苦しくなってきます。
「アル兄様、何がダメなんですか? 私に、話してもらえないのですか?」
ゆっくりと顔を上げたお兄様は、昏く澄んだ瞳で私をひたと見据えました。
雨音のしない静寂の中、私たちの視線が絡み合います。
「…………どうしても、嫉妬してしまう自分がいるんだ……レザンが僕を慕ってくれているのも知っているし、ルゥナを
端整な顔を歪ませて、苦悶の表情を浮かべながら溢すようにそう言うと、お兄様は僅かに目を伏せました。
「アル兄様も、嫉妬、するのですか?」
「……それは! ……するに決まっているでしょ……死ぬほどルゥナの事を愛しているのに……それに、僕がどれだけ嫉妬深いか、ルゥナは知らないから……」
困ったような笑顔を浮かべたお兄様は、私の頬を大きな手で包み込みそっと撫でてくれました。
「……一緒だ……」
静かな部屋に、思わずほろりと溢れ出た心の声が落とされました。
私はずっと嫉妬心を抱いたまま過ごしてきました。こんな醜い心を持つ己自身を、許しがたく思っていた日もあります。
ウィルダ様との結婚の時だって、悲しみだけではなく身を焦がすような嫉妬心で、狂いそうになる自分の心を必死に抑えていたのです。
こんな自分なんてと、ずっとずっと思っていた。そうした想いを、お兄様も抱いてくれている──
(私だけじゃ、なかったんだ……)
それは、何よりも私の救いとなって、許されたようで涙がこぼれ落ちそうになります。
私の言葉を聞いて一瞬驚いた顔をしたお兄様でしたが、すぐに悲痛な面持ちになるとその手を落としました。
彼からの温もりが離れていったのを寂しく感じながら見つめると、泣くのを堪えるかの様にぎゅっと眉を寄せました。
「……でも、僕にはそんな事言う資格は無いのかもしれない………ずっと、ずっと、ルゥナに言わなかった事がある。傷付けるのが分かっていたから……でも、この間から何となく気が付いていたんだ。…………ウィルダと結婚してしまった事、今でも、死ぬほど後悔している……僕が心から愛しているのは、今も昔もルゥナだけだから……僕の誤った選択でルゥナを苦しめてしまって、本当に、ごめんね」
そう言ったお兄様の空色に今は昏さが混じっている事が切なく感じられ、胸がぎゅっとなりました。
その時、気になった事を何でも話すのが夫婦だ──そう、リーフデさんに言われた言葉を思い出しました。
一度静かに目を閉じると、小さく息を吐きます。
「……聞いても、いいですか? 何でウィルダ様と、結婚したのですか?」
パチリと目を開くと、お兄様の僅かに揺れる瞳をじっと見つめます。
彼は言おうか言わまいか悩んでいるのか、何回か目を伏せて考えているようでした。
「……あの時は、自暴自棄にもなっていたのも、ある……ルゥナが僕の事を愛してくれる事はないんだって……なら、せめて兄としての繋がりだけは、と思って……ルゥナの、喜ぶ笑顔が見たい、一心だった………………なのに、結局ルゥナを傷付ける事をしてしまって……本当に、ごめん……」
揺れる空色の瞳と、揺れる黄金色の瞳の視線が重なり合いました。
(結婚を決めたのも、私の事を想ってくれていたから……。そして、理由を言ったら、私が自分を責めてしまうと考えていたから……)
お兄様は心の底から後悔しています。そして、そんな苦しい思いをずっとずっと心の奥に抱えていたのです。
そんな辛い話を、心の内を話してくれたのは、私の想いを汲んでくれたから。
結局、最初の結婚についてずっと言わなかったのも、私を傷付けないためだった──
抑えきれない気持ちのままポロポロと涙を溢しながら、お兄様に微笑みました。
「謝らないで下さい。アル兄様が悪いんじゃないから……でも、ふふふ。あの時は本当に辛かったんですよ」
涙を流しながらくすくすと笑う私に、お兄様はハッと息を呑むと大きく目を見開きました。
「アル兄様も、辛かったんですね……ふふふ。それって結局、私たち一緒ですよね。なんだか、おかしい。ふふふ……アル、いつもいつも、私を想ってくれてありがとう。今度からもっともっと、何でも話しする事にしましょう。──私たち、夫婦ですから」
シーツに落とされたままの愛しい人の手を握りしめると、満面の笑みを浮かべました。
涙で滲む瞳のせいでその顔をはっきりと見ることは出来ないけれども、彼を愛しく想う気持ちが少しでも伝わるようにと願いを込めて。
「ルゥナっ! 愛してる……ルーナリア……うん、僕たち夫婦なんだから、もっと沢山話をしよう。気になった事があったらそれが嫌な事でも、何でも言い合えるように、もっともっと……」
強く強く私を抱きしめるその身体を、私も強く強く抱きしめました。
その後、まだ食事をしていないお兄様と準備してもらった軽食を食べながら、そして一緒にお風呂に入りながら、沢山話をしました。
ウィルダ様には申し訳ないと思いつつも、彼女との夫婦生活について詳しく聞いてしまったのですが、彼の想いをもっと知る事が出来て、この間から気になっていた事が全部消えてしまったのが分かりました。
10歳の時に、私を抱きしめようとしたお兄様の身体を冷たい言葉と共に押しのけてしまった事を、やっと謝ることが出来ました。笑顔で気にしていないよと言ってくれて、彼の身体を抱きしめながら涙を溢しました。
その晩は、答え合わせをしていくように、夜更け近くまでずっと話をしていました。
それは、互いの心のカケラをぴったりと埋めていくような、とても満たされた時間でした──
♢
翌朝、すっかり雨は上がったようで、透き通るような青空が広がっていました。窓を開けると、雨上がりの清廉な匂いが部屋に入ってきます。
私とお兄様は旅装の支度を終えると、アナトレー家の玄関まで向かいました。これから渡し船を朝一番で出してもらい、そのまま東の砦へと行くのです。
まだ朝が早いのに、アナトレー公だけではなくてレザン先輩とラフレも見送りにきてくれていました。
アナトレー公は執事に何やら指示をしながら、玄関の外へと出ていきます。
「ルーナリアさま……」
「ラフレ、元気でね」
私を見上げるラフレの
ラフレは何かを決意したような顔をすると、隣でレザン先輩と話をしているお兄様の元へ行きました。
「アルフレートさま! ルーナリアさまをお兄さまにください! 代わりに、私が大きくなったらアルフレートさまのお嫁さんになってあげますから!」
「ら、ラフレっ! なんて事を……も、申し訳ありません、アルフレート様……!」
漆黒の隊服の軽く引っ張ってじっと見上げながら言い放ったラフレの言葉を聞き、レザン先輩の顔は可哀想なくらい真っ青になりました。
お兄様はラフレと目線が合うように屈み込むと、真剣な眼差しを向けました。
「すまないけど、それは出来ないんだラフレ。僕はルゥナの事を心から愛しているから、ルゥナじゃないとダメなんだ。ルゥナ以外と、結婚する気はないんだよ」
ふわりと微笑んだお兄様は、返事を聞くと顔を伏せてしょんぼりと肩を落とすラフレの頭を優しく撫でました。
彼の言ってくれた言葉が、私の胸に大きく響いて心を震わせます。
「アルフレート様……本当にすみません……」
「ふふふ。レザン、早く結婚してラフレを安心させてあげないとな」
まだ顔色が悪いまま項垂れるレザン先輩に、お兄様は優しく微笑みかけました。
その言葉を聞くや否や、ラフレはパッと顔を上げてレザン先輩を見上げます。
「お兄さま! 私、ルーナリアさまみたいな人がいいっ! 結婚して! 早く!」
「ラ、ラフレ……そんなにハードル上げないでくれよ……それに、早くって……」
まるで新しいおもちゃをおねだりするようにキラキラと目を輝かせたラフレは、レザン先輩の服を何度も何度も引っ張りながら縋り付きました。
レザン先輩は目を泳がせしどろもどろになりながらも、そんな妹の頭を慈しむように撫でています。
「ははは、頑張れレザン。レザンはいい男だから、すぐに見つかるさ。いいお兄ちゃんだしな」
お兄様が心底楽しそうに笑いながら、レザン先輩の肩をポンポンと叩きました。
その笑顔を見ると私もなんだか楽しい気持ちになってきて、一緒になってくすくすと笑ってしまいました。
自分が思う事を素直に何でも話しをしたからこそ、お兄様の想いを、そして愛しいあの人の私の知らない部分を知る事が出来ました。
例え言いにくい事でも何でも話せば、もっともっとお互いの気持ちを知る事が出来て、もっともっと愛を深める事が出来る──
そんな想いと共に、差し伸べてくれた彼の手をぎゅっと握りしめました。
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