第36話 幸せな時間 sideアルフレート
馬車の窓から外へ向けると、ちらちらと舞い落ちる白い雪が視界に入ってきた。
この間までいた北の砦とは違うその可愛らしい大きさを目にし、戻ってきたと強く実感する。
「……やっと、帰れる……」
思わず漏れ出た言葉と共に、大きなため息が溢れた。
はやる気持ちを抑えるように、組んだ脚に乗せている手を少しだけ固く握った。
昨年の月蝕事件の後から魔物の侵入が増えてはいたけど、秋が終わる頃からその増加が著しくなり、騎士隊だけでは追いつかなくなってきていた。
新兵が増え質があまり高いとは言えない今の騎士隊では、戦力的にも危うい部分がかなりある。
そのため近衛隊からも交代で何人か派遣することになったのだが、王族の警護を手薄にするのも危険な為、どうしても割ける人数に限りがあった。
戦力的な事を考慮し、既婚者や子持ちの者を配慮した結果、未婚の副隊長の僕が砦を拠点した魔物
「はぁ……にしても、この次はすぐに東の結界領域か……僕も後1年もしない内に結婚する予定なんだが……どうするんだ、全く……」
握りしめていた手を少しだけぼんやりと見つめながら、静かな馬車の中で愚痴るように呟いた。
ルゥナが暮らすこの世界を守るためにも、結界領域の守護を疎かにするわけにはいかないと任務に全力で努めているのだが、さすがにこうも続くと気が滅入ってしまうのも当然だと思う。
カチャリと音を立てた腰に帯びている剣へと視線を向けると、憂鬱な記憶に僅かに目を伏せる。
ルゥナと逢えない時間が増えているストレスを発散させるために、冷酷無慈悲に次々とあいつらを凍らせていった。
出張が増えている元凶は間違いなく魔物にある訳だからと、いつもひたすらに殲滅し、騎士隊の生存率を上げるために、魔物に殺されないようにと、厳しく訓練を課していった。
結果、いつの間にか騎士隊員たちから『氷壁の冷徹様』と呼ばれるようになっていた。
訂正しようと何度か口を開こうとしたのだが、その度に悲鳴を上げられたり逃げ去っていかれたりしたので、ここ最近では諦めた。
「そもそも、名前より長い二つ名で呼ばれて喜ぶ、頭のおかしい人間なんていないと思うんだが……」
遠くを見つめると、再び大きなため息を溢してしまった。
♢
「ただいま」
「アル兄様!! ご無事でしたか!?」
メートルから今日の帰宅を聞いていたと思われるルゥナが、僕の顔を見るなり駆け寄ってきた。
広げた腕の中に無邪気に飛び込んできてくれる、その華奢な身体をぎゅっと抱きしめると、帰ってきたのだと深く深く実感する事が出来た。
少しだけ身を離したルゥナは、僕の顔を覗き込むように見上げた。
「……お怪我は、していないですか?」
「大丈夫だよ、ありがとう。ルゥナ、逢いたかった……」
「私もです、アル兄様……」
結界領域の魔物討伐に行く事をとても心配をしているのは、揺れる黄金色の瞳を見ればすぐに分かる。
そして、いつもいつも僕の体調を気遣ってくれている事も知っている。
そんなルゥナの気持ちを感じると、支えられていると心の底から思うことが出来た。
柔らかな身体を再び腕の中へと包み込み温もりを感じると、なんとも言えない安心感に満たされていく。
同時に少しだけ持て余してしまった辛い思いを、抑え込むようにぐっと堪えた。
愛する人がいて、心が繋がったなら、身体も繋がりたいと思うのは当然の事だと思うのだが、あの母上に逆らうわけにはいかないため、僕が我慢するしかない。
顔を合わせるとたまに釘を刺してくる母上を怒らせれば、それこそ結婚を延期にでもされかねないし、凍りついた屋敷に住めなくなってしまう恐れもあるからだ。
結婚した途端速攻で抱き潰してしまっても、きっと笑って許してくれる優しいルゥナに甘えてしまおうと思いながら、ふわふわとした金色の髪に頬を擦り寄せた。
「……母上にはまた怒られそうだけど……」
「? アル兄様?」
「ん。何でもないよ。──そういえば、母上は? 父上がいないのはまぁ、分かるけど」
いつもなら大概ここでどちらかがやってきて、若干やれやれと言う顔をされるのだが、今日はその姿が見えなかった。
迎えの時はルゥナの側に必ずいるはずのマーラの姿を、探すように周囲を見渡す。
「今日はお二人ともお呼ばれしていまして、夕方にはお出かけになりました」
「っ! じゃあルゥナ、今日は1人で夕食を食べたの!? というかマーラは?」
「マーラは先日、姪っ子の出産のお手伝いに行って暫く屋敷を離れているんです。あ、私はもう夕食を終えたんですが、アル兄様はお済みになってますか?」
にこにことしながら僕を見上げているルゥナの言葉を聞き、自分の顔が僅かに引き
我が家は公爵家としてはあり得ないほど使用人の数が少ないが、それはルゥナが幼少期の頃に起きた事件も関係していた。
1歳半頃の事だから本人は全く覚えていないだろうが、雇ったばかりの若い侍女に連れ去られそうになったのだ。
泣き声を聞いて気が付いた僕は、まだ子どもだったため手加減が出来ずに危うく凍死させるほど、怒り狂ってしまった。
マーラがすぐに両親を呼んでくれたためなんとか殺さなくても済んだが、何で誘拐したのかは結局分からず仕舞いだった。
何故なら、事情聴取を行うため王城への移送途中に自死したからだ。
結局、金目当ての犯行だろうとこの一件は片付けられたのだが、それ以降なるべく僕たち家族と古参侍女のマーラを筆頭とした限られた侍女ぐらいしか接触しないようにした。
あの当時の状況を思い出してしまい、ほんの少し血の気が引いてしまう。
「アル兄様? やっぱりお疲れですか?」
瞬時に僕の顔色に気が付き憂いを帯びたルゥナに、心配をかけまいと微笑みを向けた。
「ん。いや、大丈夫。まだ夕食は食べてはいないけど……」
「でしたら私、アル兄様が食べ終わるまで一緒にいますね。今準備をお願いしますから」
「ルーナリア様、私が伝えに行きますので」
「ありがとう、メートル」
静かに去っていったメートルの後ろ姿を2人で見送ると、手を繋いで晩餐室へと足を向けた。
屋敷の使用人たちには、僕とルゥナが本当の兄妹ではない事と、いずれ結婚する事を周知してあった。
ルゥナがやってきた時には雇っていた、マーラを初めとする一部の古参の使用人たち以外は驚いていたが、必要最低限の人数しかいないので、情報統制は徹底出来る。
テーブルに料理を並べていくのを、ルゥナも手際よく手伝っていた。
整え終わると、この場には僕たち2人きりとなった。
「今日の夕食はサーモンのムニエルと、鶏肉と野菜のシチューでした。シチューは大きめの野菜が柔らかくなるまで煮込んでいて、スプーンがスルッと入ってほくほくしてとても美味しかったです」
にこにこと報告してくれるルゥナが可愛いくてしょうがなくて、ついつい見つめてしまった。
食事の手が止まっていた事に気が付き、おススメのシチューに手を伸ばし一口食べる。
「ん。このシチュー本当美味しいね。バターの濃厚さがまたいいね」
「アル兄様の好きな味だなぁって思っていました。私もすごく好きで、美味しかったです」
「ルゥナが美味しいと思うものは、大抵美味しいもんね。ふふふ」
「そうですね。ふふふ、味覚、一緒ですね」
微笑みながら飲み物を注いでくれる彼女に、愛おしさを抑えきれない眼差しを向ける。
ルゥナは1人で食事をとったはずなのに、僕はこうして楽しい食事をする事が出来ている。
いつも以上に美味しく感じる今日の夕食を味わいながら、大切な人と一緒にとる食事に勝るご飯はないと思った。
「このサーモンもすごく美味しいね。脂ものってるし、でもあっさりしてるし」
「そうなんです! 中がふわふわしてて、すごく美味しかったです」
「ルゥナ、これ一口食べる?」
サーモンのムニエルをひと口分フォークに刺すと、隣に座るルゥナの口元へ持っていく。
「……じゃあ、ひと口だけ………んん……美味しい〜」
小さい口が、パクリとサーモンを食べる姿が可愛くて、その柔らかい唇にこのままキスをしたい衝動に駆られてしまった。
そんな気持ちを抑えつつ、目を輝かせながら食べているその姿をじっと見つめていると、頬が緩んでくるのが分かった。
「ふふ。ルゥナ、可愛い」
「……そんなに見られると、恥ずかしいです…アル……」
頬を染めて照れたルゥナがますます可愛くてしょうがなかったけど、このままでは夕食を終えることが出来なくなるので、僕も彼女の続きを食べていく事にした。
話をしながらも、甲斐甲斐しく給仕紛いの事をしてくれるルゥナを目に映すと、込み上げてくる想いでいっぱいになる。
こうした一つ一つからルゥナの愛を感じ、彼女が僕の事を本当に大切に想ってくれているんだと、暖かい気持ちで心が満たされていく。
ルゥナもまた、僕とのこうした時間をとても嬉しく思ってくれている事は、鮮やかに彩られたその表情を見ていたらすぐに分かる。
これからずっとこんな大事で幸福な日々が続いていくのだと思うと、胸を大きく震わせてしまった。
ずっとずっと、ルゥナと一緒にいられることは、何にも変え難い喜びだから──
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