第19話 月明かりの2人

帰宅してから2週間、ずっとずっと心に巣食って離れない事があります。


あれから、お兄様は毎日のように時間さえあれば私の元を訪れては、あれこれとお喋りをしていくのです。

いつも距離感が近かったり時々手を握られたりされ、嬉しさと苦しさで抑えていた自分の気持ちがその度にグラグラとぐらつきました。

いつもいつもとろけるような笑顔で、熱を帯びた空色の瞳で見つめられ、私の心は大きく揺さぶられました。


ウィルダ様と離縁して幸せではなくなっているはずだと思っていたのに、なぜか毎日とても生き生きとしているのです。

やつれていたお兄様は不思議な事にどんどんと元気を取り戻し、こけていた頬も今ではすっかり元通りになってきました。

そんな様子の彼に、ウィルダ様との事を聞くことも出来ず、以前のような冷たい態度も取れず、戸惑うことしかできませんでした。


お兄様とお母様は相変わらずで、顔を合わせれば2人の間から見えない火花のような、冷気のような何かが散っていました。そうした時に、周囲の温度が下がったように感じるのは、きっと気のせいではないはずです。


こんなお兄様から考えられることは、ただ一つ。


今もずっと、無意識に闇魔法を、精神干渉の魔法を、彼に行使しているのではないか──



「今日の夕食の時も、また……」


1人部屋の中で佇むと、自分の手のひらをじっと見つめます。

さっきまで感じていた温もりはもうないものの、ふわりとした笑顔のお兄様を、そしてそんな彼に凍てつくような眼差しを送っていたお母様を思い出すと、心が重く沈んでいきました。

その後に始まったやり取りもまざまざと浮かび上がり、一度ぎゅっと手を握り込みます。


「私のせいで……アル兄様が……家族が、バラバラになってる……もう、知らないフリは出来ない……」


自分の魔法が皆を不幸にしているという事実を思うだけで、心が千切れていきそうになりました。精神干渉の魔法の件を、離縁の原因は全て私のせいである事を打ち明けようと決心すると、昏くなる気持ちを抱え込んだまま、お兄様の部屋へと足を運びます。



…………コンコン……



俯きそうになる顔を必死に上げながら、ゆっくりとドアノブへと手をかけます。


「……アル兄様……今、お時間、いいですか? お話があるのです……」

「ルゥナ! どうしたの? 夕食でも元気なかったけど……そうだ。おいでルゥナ。今日はちょうど満月だ」


心配そうな表情で駆け寄って来たお兄様は、そのまま有無を言わせず私を抱き上げると、風魔法を行使してバルコニーから飛び立ちました。


「あ、アル兄様……!」

「大丈夫。しっかり抱きしめているから。ほら、ルゥナも落ちないようにもっとくっついて」


あまりにも突然のことで何の反応も出来なかった私は、気が付いたらお兄様の腕の中で外の風を感じていました。

秋の夜風を頬に感じながらも頭の中が真っ白で、万が一落ちて迷惑をかけてはいけないとの気持ちだけで、その首に腕を回しぎゅっと抱きしめます。

すると、お兄様の私を抱きしめる腕が、より一層強くなった気がしました。

その温もりを感じ、愛しさで胸がいっぱいになります。


(……もう、私の心臓は、破裂するかも……)




降り立ったそこは、デビュタントの時にお兄様と一緒にダンスをしたあの思い出の場所でした。

あの時と同じで、咲き誇る『天満月草あまみつつきそう』が映し出す月明かりで、辺り一面が光輝いています。


「アル兄様……ここ……」


柔らかい空気の中に、私の呟きが溶け込んでいきました。

あの時のお兄様とのダンスが、色鮮やかに思い出されます。

それは、いつもいつも思い出していた、お兄様との最後の楽しい思い出……


抱きかかえてくれている愛しい人からの温もりを感じ、切なさで胸が苦しくなりました。

こうしてこの場所に連れて来てくれたこの行為ですら、もしかしたら自分の精神干渉の魔法のせいかもしれないのです。


丁寧に私を降ろしたお兄様は、満面の笑みを浮かべていました。

その笑顔を見た瞬間、後ろめたさと苦しさで思わず俯いてしまいます。


「ルゥナ? どうしたの?」


お兄様は私の手を取り、顔を覗き込もうとしました。

昏い気持ちのまま項垂れ、その繋がれた手をぼんやりと見つめます。


「ルゥナ? 何でそんな暗い顔をしているの? ほら、顔を上げて」


お兄様の気遣わしげな優しい声を聞き、ぎゅっと固く目を瞑ります。


(もう……これ以上……無理だよ……)


ゆっくりと顔を上げると、空色の瞳が目に飛び込んできました。ですが、次から次へと溢れるもので、視界が滲んでその顔が見えなくなります。


「アル兄様……ごめんなさい……ごめんなさい……」

「っルゥナ!? どうして泣いてるの?」


常に落ち着いているお兄様が必死の形相で、繋いだ手を離すと私の肩や頭や腕をさすってきます。

彼の酷く慌てた様子を見て、ふと幼い頃の記憶が蘇りました。


(……そういえば昔、アル兄様は私が泣くと、いつも必死になっていた……)


お兄様の変わらない優しさに、込み上げてくるものを抑えきれませんでした。


「……わ、私……ウィルダ様やアル兄様に、精神干渉の魔法を、使用したかもしれません…………今も……」


絞り出すように呟いた私の言葉を聞いたお兄様が、ハッとした様子でぴたりと固まります。


「……ルゥナ、それって……?」

「本当に、ごめんなさい……私のせいで、アル兄様とウィルダ様は…………」


ゆっくりと私の身体から手を離したお兄様に顔を見られたくなくて、俯くと足元へと視線を落とします。

そこに蔑みの色を宿した彼がいると想像しただけで、怖くて顔を上げる事が出来ませんでした。

ぼろぼろと溢れ落ちる涙は止まることを知らずに、地面にぽたぽたと落ち続けます。


「……ルゥナ……何でそんな事言うの? ……僕が、ウィルダと離縁しなかった方がよかった?」


頭の上から聞こえるお兄様の声は、さっきまでとは違ってどこか固い響きを含んでいました。

その言葉に、答えることが出来ませんでした。


(…………ううん。アル兄様。……私は、2人が離縁して……………嬉しかったの………)


自分の醜い心をさらけ出されたようで、ぎゅっと心が苦しくなった私の目から涙が止め処なく溢れ出ました。

次から次へとこぼれ落ちるその雫が地面に染み込んでいくのを、静かに見つめ続けます。


「……ルゥナは、ルゥナの精神干渉のせいで、僕達が離縁したと思っているの? ──じゃあ、何でそんな精神干渉をしたの?」


さっきとは変わって、幾分優しさが交わった声でした。

でもその問いは、私の心の核心部分に触れたのです。


(何で、そんな事をしたのか……? だって……だって、私は、アル兄様を愛しているから……アル兄様を、自分のものにしたいから……)


──しっかり閉じていたはずの蓋を、もう抑えきることなんて、出来ない。



「……私は…私は小さい頃からずっとずっと、アル兄様の事が好きなんです。この世の誰よりも……アル兄様しか愛せません……ずっとずっと、一緒にいたいんです……ごめんなさい、分かっているんです……こんなの。こんなの、妹なのに兄を愛してるなんて気持ちが悪いって…分かってるんです。ごめんなさい……でも、この愛だけはどうやっても変える事ができないんです……」


涙を流しながら、自分の本当の本当の想いが吐き出されていきます。

それはまるで、懺悔をするかのように──




「ルゥナ」


お兄様から名前を呼ばれ、私の身体がビクリと跳ね上がりました。

途中から俯いたまま両手で顔を覆っていました。その手を外すことも、顔を上げてお兄様を見る事も、怖くて怖くて出来ません。

お兄様が今私の事を侮蔑の眼差しで見ているのではと想像し、恐怖で身体が震え出しました。


「っ!!」


身体に何かが覆い被さってきた衝撃で、全身が固まってしまいました。

どうやらお兄様が私を抱きしめているようだと、暫くして気が付きます。


「……あぁ。ルゥナ……愛してる。僕も、ずっとずっと愛してるんだ。僕のルーナリア」


お兄様の熱い息遣いと共に、耳元へと言葉が流れ込んできました。

彼は抱きしめていた腕を緩めると、顔を覆っていた私の両手を優しく掴んで外し、そっと頬を撫でてきます。

促されるように濡れたままの顔を上げると、大好きな空色の瞳は喜びで満ち溢れ、キラキラと輝いていました。


「……アル、兄様?」


涙を湛えたままお兄様を見つめていると、その瞳の中に落ちていくような錯覚を覚えました。


「ルゥナ、愛してる。ずっとずっと、初めて逢った時から、君だけを愛してるんだ。僕には、ルゥナしかいない」


甘く囁くようにそう言いながら、私の頬を壊物を扱うように包み込むと、ゆっくりと顔を近づけてきます。

お兄様の唇と私の唇が優しく重なりました。


「……んっ……」


子どもの頃の記憶にあるキスとは何だか違った感じがして、その差に僅かばかり戸惑いました。

離れていくお兄様の顔を、どこか夢見心地な気分で眺めます。


「ふふふ。これで条件はクリアした。僕の勝ちだ」

「……条件?」


何故か心底勝ち誇ったような顔をしたお兄様は、私をぎゅっと抱きしめてきました。


(以前夕食の時に、お母様との会話で、アル兄様が呟いてたやつ……?)


まだ頭が上手く整理できていない私はその身体に身を委ねたまま、ぼんやりと彼の温もりを感じます。

お兄様は腕を緩めると、ふわりと微笑みながら私の顔を覗き込みました。


「ルゥナは僕の事を愛しているんでしょ? 僕もルゥナの事を愛している。ほら、これで何の問題もないでしょ? 精神干渉なんて、ルゥナはしていないよ。ウィルダとの離縁も僕に原因がある。──だって僕は、ずっとずっとルゥナと結婚したかったから。ただ君を愛せればそれでいい。僕の息が止まる時まで、ルゥナしか、いらないから」


優しく笑うお兄様の顔を、ジッと見つめます。


(……アル兄様が……アル兄様が、私の事を……愛してるって…………)


その言葉が、やっと自分の中にストンと入ってきました。

ずっと、ずっと愛している人。

この想いを伝えてはいけないと思っていた人。

一緒にいられないと思っていた人。


その狂おしいほど愛おしくて堪らない人が、私を愛してくれている──

ようやく心底理解する事が出来た私は、嬉しくて嬉しくて、魂が震えるぐらい嬉しくて、またぼろぼろと涙が溢れてきました。


「私は……私は、アル兄様の事を愛してもいいのですか? ……ずっと一緒にいて、いいのですか?」

「ルゥナ、僕には君が必要なんだ」


お兄様は真剣な眼差しで私を見つめ、奪うようなキスをしてきました。


「……っんんっ」


お兄様が私の唇の下側を喰んだり、上側を喰んだりしてきます。

先ほどとは違う激しい口付けに、いつ息を吸えばいいのか分からなくって、段々と苦しくなってきます。

どんどん呼吸が出来なくなっていき、酸素を求めるように開いた口もすぐに塞がれてしまい、くらくらとしてきました。


「……っはぁっ!……はぁ…はぁ……」


やっと解放された私は荒い息をつきながら、離れていくお兄様の顔を半ば呆然としながら見上げました。

呼吸できなかったせいか、顔が火照って真っ赤になっているのが自分でも分かります。


「ごめんね、ルゥナ。もう我慢できなくって……あぁ、可愛い……ルゥナ、可愛い……」


うっとりとしながら私を見つめるお兄様の顔から、いつもとは違う何かを感じた私は、思わずぞくりとしてしまいました。


「……アル、にぃさま?」

「ルゥナ、絶対に離さないからね」


彼は見惚れるほどの笑顔でそう言うと、少し苦しいぐらいに私を抱きしめました。

包み込まれる腕の中で目を瞑り、愛しい人の存在を感じとります。

彼の温もり。微かな息遣い。呼吸のたびに震える身体──

その全てが、言いようのないほどの安らぎを与えてくれました。


(……私は……アル兄様を、愛してもいいんだ……)


お兄様に、気持ちを少しでも伝える事ができるように。

そして、私も彼にこの安らぎを少しでもあげる事ができるように、その背中にぎゅっと腕を回します。


さわさわと天満月草あまみつつきそうの揺れる音が、聞こえてきます。

瞼の奥に、月明かりを映し出した優しいその光を感じると、こぼれ落ちた泪がゆっくりと頬を伝っていきました。


(どこにいても月がある限り、ずっとアル兄様と共に……)

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