第8話 お兄様の結婚

「庭のスイートアリッサムがいい感じに咲いていましたので。こちらに飾りますね」

「ありがとうマーラ。とっても可愛い」


この間の天満月草あまみつつきそうを連想させるその白くて小さな花弁を目にし、あの月夜の出来事を思い出して思わず口元をほころばせてしまいました。


「デビュタントも無事に終わりましたし、ルーナリア様もこの秋からはとうとう学園に行かれますね」

「そうなのよね……そろそろ準備も考えておかないと……ちょっと、お母様に相談してくるわね」


屋敷から出た事のない私は早めに心構えもしておかないといけないと思いながら、部屋を出て階段を降りていきます。

すると、珍しくバタバタと慌てた様子でこちらにお母様が向かってくる姿が目に飛び込んできました。


「ルーナリア! 聞いて頂戴! アルフレートったら、結婚するみたいなのよ!」


……



うそ……



結婚………



まるで鈍器で頭を殴られたような衝撃で、その場に凍りつきました。何を言っているのか理解出来ず、ただただお母様の驚いてる顔が頭の中に流れ込んでいるのを、ぼんやりと認識します。


「ルーナリアもビックリよね。なんか話が進んでいたみたいで、もう2ヶ月後には結婚式をするそうよ! 本当、アルフレートったら何で言わないのかしら!」


(……アル兄様が、結婚する……)


ようやくその事実が頭に入ってきた私は、絶望で目の前が真っ暗になりました。お母様が何かを言っている言葉も全て通り抜け、身体中の血が止まり指先まで凍りついたような感覚に支配されます。

自分が今どんな顔をしているのか、それすらも分からずにただただ呆然と立ち尽くす事しか出来ません。


「ルーナリアもきっとアルフレートに腹立つでしょうけど、でも、妹として、ちゃんとお兄様を祝福してあげてね」


お母様が私に向けてにっこり笑いながら言ったその言葉で、意識を取り戻しました。

ちゃんと『妹』として彼を祝福することを。

いつも、あの人の幸せを願うと思っていた自分を思い出して。


(……笑顔で、キチンと、アル兄様に……)


荒れ狂う心を必死に抑えながら、なんとか微笑みを顔に貼り付けます。


「そうですね……」

「全く、まさか以前から縁組の打診があったバサラブ公爵家二女のウィルダ嬢がお相手だなんて……アルフレートったら、断ってくださいって表では言っておきながら、裏では着実に話を進めていたみたいなのよ! ほらみて、本人にはこーんな熱烈な手紙を送ってて……はぁ……本当あの子ったら……」

「そう、ですか……」

「でも、でかしたわね! ウィルダ嬢はとっても綺麗な子なのよ……! ふふふ」


最初はどこか怒りを滲ませていたお母様でしたが、今は声を弾ませながらはしゃいだ様子で先方からの手紙を見せてくれます。


「……そう、なんですね……あ、ちょっと、マーラに、知らせてきますね……」


このままでは『妹』の仮面を被ることが出来ないと思った私は、とにかくこの場を立ち去ろうと自室へと引き返します。お母様に不審がられていないかと気になりましたが、その時の記憶があまりなくて、ちゃんと笑えていたか自信がありません。


なんだかどこかふわふわと別の場所を歩いている感じがしたまま、階段を登っていきます。


「ルーナリア様? どうされましたか?」

「マーラ、お母様が呼んでるわ」

「あらま、どうされたのかしら……では、失礼しますね、ルーナリア様」


静かな部屋の中で、1人ぽつんと佇みます。


(…………アル兄様が、本当に、結婚する……)


ぼんやりとしたままふと目線を送ると、鏡越しの自分と目が合います。


あれだけ彼の幸せを願い、そして結婚を祝福しようと思っていたのに、何故こんなにも激しく動揺してしまうのか。

それは、結局いつかはと思っていた未来の出来事はあくまで想像であって、キチンと事実として受け止めていなかったからです。

そして、あの時一緒にいようと言ってくれた彼の言葉を、ずっとずっと信じていて、浅ましくもどこか期待をしていた事に気が付きました。


「……馬鹿な女……あの人を幸せにするのは、自分だって勝手に思ってて……所詮、私は『妹』でしか、ないのに……」


青白い顔と昏い目をした透けるような金色の髪をした女に向かって、呪うように吐き出しました。


「あれだけ、『兄』の幸せだけを願うなんて思っておきながら……なんて恥ずかしい女……本当、どうしようもない女……」


今にも泣きそうな顔をしている女に手を伸ばすと、冷たい感触が当たります。

このまま鏡の中の世界へと逃げ出したいような思いに突き動かされてしまいました。

そこにいる黄金色の瞳をじっと見つめながら、己の役目を強く強く言い聞かせるようにそっと指を這わせます。


(私は、アル兄様の『妹』……)


やり遂げねばならない自身を鼓舞するように、鏡に映る自分に何度も何度も何度も……

お兄様を全力で祝福できるように。

役目を全うできるように。


──たとえそれが、この身を引き裂かれるような辛さであったとしても。






「お帰りなさい、アル兄様!」

「……っ! ただいま、ルゥナ」


無邪気だったあの頃のように、笑顔で駆けつけるようにして出迎えました。

一瞬息を呑んだ後満面の笑みを浮かべたお兄様の顔を見て、心臓がぎゅっぅと苦しいくらいに締め付けられます。


(……結婚したら、この笑顔を向けるのは、妻となるウィルダ様……)


そんな事実を突きつけられて、この場で泣き崩れたくなるような気持ちになりました。

でも、ここで聡いお兄様に悟られるわけにはいかないので、己の全身全霊を、魂の全てをかけて、『妹』として自然で心から祝福する笑顔を向けます。


「聞きましたわ。ご結婚おめでとうございます! お母様も黙っているなんて水臭いっておっしゃていましたわ。私にも黙っているなんて、本当アル兄様ったら酷いんですもの。でも、すごくすごく嬉しいです! 私のお姉様になられる方を今度是非とも紹介してくださいませね」


今までにないくらいの喜びを表現しながら、年若い『妹』が『兄』の結婚という話にはしゃいでいる様子に見えるよう、はじける笑顔を浮かべます。


(……デビュタント以降こんな風に話しかけた言葉が、愛しい人の結婚を寿ぐものになるなんて……)


心がどこか切り離されたような錯覚を覚え、自分で自分を上から見下ろしているような感覚になります。


「……結婚…?」


お兄様は何故か呆然とした様子でそう呟きました。


(……きっと、自分の口から言うつもりだったのに、バレてしまった事に罰が悪いんだ……いつも『妹』の私を大切にしてくれているから……)


彼の優しさに応えるためにもと、自分の想いにしっかりと蓋をします。


「私に隠していた事はこの嬉しい報告を聞いて喜びでいっぱいですから……気にしないでくださいね! それよりも、本当におめでとうございます!」

「……喜びでいっぱい……ルゥナは……僕が結婚したら、嬉しいの?」


一瞬だけ言葉に詰まりそうになった己を奮い立たせるように、もっともっと笑顔を浮かべます。

少し青ざめた様子のお兄様を少しだけ不思議に思いながらも、心を抑え込んで役目を演じなばればいけないと強く強く自分に言い聞かせました。


「ええ! もちろん! だって、私はアル兄様の『妹』ですもの! アル兄様の結婚は、本当に嬉しいです」


決してバレないように上手く笑い。

震える指先を見せないように握りしめ。

自分の中から何か大切なものが、ストンと失くなってしまった様な感覚を感じながら。


それでも、大切な大切な人が幸せであるなら。

ただ、それだけを願って、心からの祝福をあなたに──





その日から、バタバタと結婚式に向けての準備が整えられていきました。我が家でお披露目会をして、そのままウィルダ様はこの屋敷に住むそうです。


あの日以来、私の心と身体は切り離されたように、どこか別の場所で自分を眺めているような感覚がずっと続いています。

決して漏れない様に笑顔を貼り付け、お兄様にお会いする度に祝福の言葉をかけ続けました。お兄様はどこか寂しそうな顔をされる事がありましたが、きっと結婚という節目で『妹』が『兄』から卒業する事を偲んでいるのだと思いました。


周囲に人がいる時は始終喜びに溢れる姿を全力で演じましたが、私の心は今やズタズタに引き裂かれ、血も出ないぐらいボロボロです。泣き腫らした顔を誰にも見られる訳にはいかないため、涙を零すことも許されない私は、ふと1人になると、このままどこかへ消えてしまいたくなるような衝動に駆られる事があります。




結婚相手のウィルダ様がご挨拶に来られる今日なんて、本当は迎えたくありませんでした。あれから社交界に出席していないので、ウィルダ様との面識もなくどんな人なのか知りません。


マーラに支度を整えてもらい退室してもらうと、鏡の前に立ち毎朝の恒例になってしまった自分への暗示を繰り返し行います。


「アル兄様の、『私は妹』……」




初めてお会いするウィルダ様は、蜂蜜色の艶やかな髪をしたとても綺麗な方でした。

お兄様と並び立つその姿に胸が張り裂けそうなほど苦しくなりますが、2人は本当に美しくてとてもお似合いでした。


「………初めましてルーナリア様。ウィルダ・バサラブです。……どうぞ、仲良くして下さいね」


私を見て一瞬目を見開いたウィルダ様へ、親しみを込めた笑顔を向けます。

暴れそうになる心を何度も抑え込むと、出来るだけ無邪気で可愛い『妹』を演じます。


「初めましてウィルダ様! お会いできるのをとても楽しみにしておりましたの! 私のことはぜひルーナリアと呼んでくださいませ。私も、ウィルダお姉様とお呼びしてもよろしいですか?」

「え、ええ。もちろんですわ。ルーナリア様はとても可愛らしい方ですのね。私、安心しました。ぜひ仲良くしてくださいね」

「はい! 早速、お茶をご一緒にいかがですか? ウィルダ姉様。ご案内しますね、こっちです」

「まぁ。ありがとうございます。ルーナリア様とアルフレート様は同じ髪の色で、本当よく似ておられるお美しい兄妹ですのね」


温和そうな笑みを浮かべながら、どこか感心したようにそう言い放たれたウィルダ様の言葉が、私の心臓にグサリと突き刺さりました。


(……似ている。そう、誰がどう見ても、私とアル兄様は『兄妹』だから……)


彼女の手を取り歩きながら、溢れ出そうになる涙を何とか堪えるように一度上を向くと、にっこりと笑みを浮かべます。


「ありがとうございます、ウィルダ姉様。──アル兄様と幸せになってくださいね」


自分の口から出た言葉なのに、他人が話をしているようでした。


(……嘘、そんなの嘘……本当は、私が……彼を幸せにしたかった……)


『愛する婚約者』であるウィルダ様を目の当たりにして、狂いそうな程の嫉妬心が掻き立てられました。ですがあの人が幸せなら、とそんな醜い心をグッと押し込むと2人を寿ぐ言葉を述べていきます。


どこか呆然とした様子で私を見つめるお兄様の視線を感じ、にこりと笑顔を送りました。

決して私の想いを悟られぬように、自分の感情を切り離していきます。


3人で一緒にお茶をしながらも、自分が何を飲んでいるのか、何を話しているのか、全くその身に入って来ず、どこかふわふわとしたまま時だけが経ちます。

お兄様とウィルダ様が仲良くお話しされている姿を、何か別物のようにボンヤリと見つめます。

ウィルダ様のとても嬉しそうな顔を見て、この人も彼の事を愛しているのだと、スッと心に落ちてきました。


(何てお似合いの、2人なのだろう……)


お母様お気に入りの、藍色の花柄があしらわれたカップを手に取りお茶を口に含みます。陶器から伝わるひんやりとした感触と温もりを感じ、少しだけ心が落ち着きました。


(アル兄様が幸せなら、それでいい……でも、結婚したら、こんな姿を毎日見て暮らす………私は、耐えられるの……?)


お兄様の瞳の様に青く透き通った青空をぼんやりと眺めると、その空の中には消え入りそうな程うっすらとした白い月が浮かんでいました。


一緒にいるのに、一緒にいない──

まるで今の気持ちを表している様な昼間の月を目にし、また一口お茶を飲む事でその切なさに溢れ出そうになる涙を誤魔化しました。

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