第5話 一夜限りの社交界 ①
窓を開け、あの人の瞳と同じ色をした晴れ渡る青空を目を細めながら見上げます。
「……晴れて、良かった……」
「ルーナリア様、さぁさ今日は晴れ舞台ですよ! このマーラが念入りに準備させて頂きますからね」
「ありがとう、マーラ」
満面の笑みを浮かべながら部屋へと入ってきた古参の侍女マーラが、私の背中を優しく押しました。
その動きに導かれるように、浴室へ向かって行きます。
「今日は、なんてたって、16歳になるルーナリア様のデビュタントの日ですからね! これからはマーラの仕事も増えますよ」
「……そうね」
張り切った様子で腕まくりをしているマーラに曖昧な相槌を打つと、気持ちを悟られないように服を脱いでいきます。
浴槽へ身体を沈めると、ふわっとした花の香りが辺りに広がりました。
「いい匂い……」
「えぇ、今日は特別ですからね! さて、支度に取り掛かりますよ!」
温かなお湯が頭から滴り落ちていくのを感じながら目を瞑ると、気付かれないように息を吐きます。
自分の出自の秘密を知ったあの日以降、密かに心に決めている事がありました。
それは、結婚をしない事と社交界には出ない事でした。
それ以前に、お兄様を心の底から愛しているのに、彼以外の誰かと結婚するなんてどうしても出来ない。
そんな想いを日々抱えていたのです。
そして、未婚女性が結婚相手を探す場でもある社交界に頻繁に出席すれば、人々の耳目を集める可能性も高くなります。
同じ色合いの髪を持つお兄様とは何とか『兄妹』と言えるかもしれませんが、当然ダネシュティ家の誰とも容姿が似ていない私が、社交界のような目立つ場所に出ていらぬ憶測を呼んで波紋を広げでもしたら大変な事です。
(私の生まれが万が一でもバレたら、お父様やお母様、そしてアル兄様にも、致命的な傷を負わせてしまう事になってしまう……)
このデビュタントだけが、人生において最初で最後の社交界──
しっかりと刻みつけるように、己の身体を一度抱きしめました。
「……ルーナリア様のお肌は、とても滑らかで美しいですね。もう少しマッサージして、艶を出しておきましょう」
額の汗を拭いながら感心した様子でそう言ったマーラが、置いてある香油の瓶を取って手に垂らしていきます。
「……マーラ、ありがとう……何だか、大変な準備なのね」
「当然じゃないですか! ルーナリア様が一人前の大人の女性になられる日なのですから……今日のエスコートはアルフレート様なんですよね? 良かったですね、ルーナリア様」
「……ええ、そうなの。アル兄様は、優しいから……」
指先からゆっくりと解してくれているマーラに微笑みを向けると、愛しい人の顔を思い浮かべました。
近衛隊の仕事で忙しくあまり屋敷にいないお兄様が、顔を合わせる時に見せる切そうな表情……
じっと私を見つめる彼の眼差しを受ける度に心臓はドキドキと鼓動し、
あんな瞳で毎日見られ続けたら、この感情を抑えることは出来ない──ざわめく鼓動を抑えるように、ゆっくりと瞬きをします。
(……やっぱり、屋敷を出て、自分で稼いで暮らしていく方が……良いのかな……豊富な魔力量を活かせれば、きっと何処か働ける場所はあるだろうし……学園に入学したら、何か機会もあるかも……)
胸に秘めた考えを隠すように、少しだけ目を伏せました。
「ルーナリア様をとびきり美しくして、アルフレート様を驚かせましょうね」
「ふふふ、ありがとう、マーラ。……驚いてくれると、いいなぁ」
ぽつりと毛先から流れ落ちた雫のように、自分の気持ちを素直に溢してしまいました。
お兄様とは今もずっと一定の距離を置いて接しているのですが、今日だけは自分の気持ちを少しだけ解放しようと決めていたのです。
いつも冷たい態度を取る『ルーナリア』ではなくて、お兄様の大好きな『ルゥナ』でいたい。
(だって、アル兄様と踊る事ができるのも、今日だけだから……)
ゆらゆらと揺れる水面に視線を落とすと、自分の足先をぎゅっと縮めました。
「さて、とりあえず浴槽から出られたら、まだまだお支度がありますからね」
「は〜い……大変……マーラも、疲れない? ありがとう」
「とんでもない! 私は、嬉しくてたまりませんよ。昨年からただでさえ少なかったお茶会も開かれなくなって……そもそも屋敷から出られた事のないルーナリア様は、今回のデビュタントで大注目ですよ。アルフレート様のように社交界へのお誘いも沢山受けますよ」
「……そう、かしら……」
お兄様のその話が出た途端、ぎゅっと胸が苦しくなってしまいました。
将来有望で容姿端麗な公爵子息である彼の元へ、数多くの結婚の申込みが来ている事は私でも知っていました。
お母様から舞踏会でいつもいつもとてもモテているお兄様の話を聞く度に、ズキンと痛む胸を抑え込んで笑顔を浮かべているのです。
『妹』の私は、いずれ結婚するお兄様の事をキチンと祝福出来る様にならなければいけないから。
愛しい人を幸せにする事は出来なくても、あの人が幸せであるように毎日願う事だけが、私が出来る精一杯の事だから──
一度固く目を瞑ると、暗くなってしまった己を鼓舞するようにパッと顔を上げ笑顔を浮かべました。
「マーラ、続きもよろしくね」
「お任せください、ルーナリア様」
白を基調としたデビュタントの衣装を
私の動きにあわせて、腰から下のレースの部分がふわふわと春に咲く雪のように舞いました。
ドレスを見るだけでも心が躍り、はしゃぐ心を抑えきれずに口元が緩んでしまいます。
「さぁさ、ルーナリア様。あとはお髪を整えましょうね」
「はぁい」
椅子に腰を下ろすと、マーラが目を細めながら丁寧に髪全体に櫛を通していく姿が映し出されていました。
何度も何度もゆっくりと梳いていくその器用な手つきに、見入ります。
「ルーナリア様のお髪はとても綺麗でとても気持ちいいですね。ずっと触っておきたいぐらいです」
その言葉を耳にした瞬間、胸がきゅっと締め付けられました。
(昔、アル兄様にも同じことを言われた……もう、頭を撫でられたのも、すっかり遠い昔の出来事……)
沈む表情にならないように、苦しさに気がつかないフリをしてマーラの巧みに動く手先を見つめ続けました。
「それにこのお色……本当素敵ですよね」
「そうかしら? 私はあまり好きではないのだけれど……」
自分の気持ちの蓋を外したせいか、そんな本音がついつい口から漏れていました。
少しだけハッとしながら鏡越しに見たマーラが、微笑ましそうに柔らかな笑顔を浮かべていたのを目にし、ほっと息を吐きます。
複雑に編み込んでいった髪が手際良く纏め上げられ、お化粧が施されていくのに大人しく身を委ねます。
「仕上げに、紅を引いて……あまり、キツイ色は似合わないですからこれで……はい、出来上がりましたよ、ルーナリア様」
「……なんか、これが私? 自分じゃない誰かが立っているみたい……」
鏡の前にいる、透けるような金色の髪と白いドレスを着た、大人の一歩手前の少女。
マーラのお化粧の技術にひたすらに感心しながらマジマジと見入ると、鏡の中の少女も黄金色の瞳でじっとこちらを見つめていました。
「まぁまぁ、そこに立っていらっしゃるのは正真正銘、ルーナリア様ですよ。さあ、これで支度も終わりました。今日はしっかりと楽しんで来てくださいね」
「ありがとうマーラ! マーラの腕がとてもいいから、私今日はお姫様にでもなったみたいよ」
「あらあら、嬉しいお言葉ですこと。ですが、私の腕ではなくてルーナリア様が本当に美しいからですよ」
「ふふふ、ありがとう」
お世辞だと分かってはいるものの、ますます上がっていく気分を抑えることが出来なくて、ついつい椅子から弾むように立ち上がってしまいました。
ーーコンコン……
「……ルゥナ。支度出来た?」
遠慮がちにノックをしたお兄様が、そっと扉を開けてこちらの様子を覗いてきます。
マーラが大きく頷いたのを確認して部屋に入って来た彼を見て、心臓がとくんと大きく跳ね上がりました。
愛しい人が迎えに来てくれた喜びで、胸を震わせてしまいます。
「アル兄様! どうですか?」
高まる気持ちも素直に受け止めて、無邪気にお兄様の元へ駆け寄った私は、そのままの勢いでくるりと回りました。白のドレスがふわりと膨らむその動きに気持ちも舞い上がり、笑みが溢れ出ます。
(今日だけは、自分の感情に素直でいたいから……)
笑顔のお兄様は私に眼差しを向けたまま、少しだけぼうっとしている様子でした。
「……ふふふ。ルーナリア様がお美し過ぎて、アルフレート様はお言葉を忘れたようですね」
にこにことしているマーラの不思議な言葉を聞いて、目を瞬くと少しだけ首を傾げてしまいます。
(もっと美しい方が大勢いる舞踏会に行っているアル兄様が、私なんかを美しいと思うわけないのに……? あ、きっと、『妹』の私が、一人前になったんだって感慨深く思っているんだ……)
どこか残念に思ってしまう心を諌めながらも、解放すると決めていた己の心に素直に従います。
たとえお世辞であっても、愛する人に『綺麗だ』と一言でいいから言われたい──そんな想いを胸に、厚かましいと分かっていても、もう一度尋ねることにします。
「アル兄様、どうですか?」
スカートの端をちょこんと摘みながら、にっこり笑って目の前にいる愛しい人を見上げました。すると、お兄様の空色の瞳がゆらゆらと揺れ、スッと頬に赤みが差していきます。
「……いや、ルゥナが、本当天使みたいで……綺麗だよ、ルゥナ」
お世辞だと分かっていても欲しかった言葉を言ってもらえて、思わず涙をこぼしてしまいそうになりました。
溢れ出る喜びを抑える事なく、満面の笑みを彼に返します。
「嬉しい。ありがとうございます、アル兄様。アル兄様も、とってもとっても素敵です。今日は一日エスコートをお願いしますね」
「……うん。ルゥナ……じゃあ、行こうか」
そう言いながら私に向かって手を差し伸べてくれたお兄様の顔は、何故かさっきよりも赤く色付いていました。
今日という日を、これからの人生で一番いい日であったと思えるように。そんな思い出の一日となるように思いっきり楽しもう。そうすれば、いずれお兄様が結婚しても、耐えられる──そう願いながら、差し出されたその手を握りしめました。
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