第5話 温度

 一時間ほどで家まで戻ってきた。結んでいたロープを手早くほどき、山から運んできた猪を引いてカイとショーンは家の脇の渓流けいりゅう浅瀬あさせに入る。水が冷たい。

 わらを使って、猪に付いた泥や枯れ葉、それから血を洗い流す。内臓のなくなった腹の中もしっかりと。運ぶうちに体温のなくなった猪の身体。死後硬直の始まった肉は硬く、少年は猪にすべてを拒まれているような気がした。

 ざっと全体を洗い流した頃、別の作業をしていたカイが少年の元へとやってくる。


「ショーン、そのくらいでいいぞ。あとはそのまま、しばらく川に浸けて肉を冷やす。そのほうが肉が傷みにくいからな」


 カイはロープをきつめに猪の脚に縛りつけ、渓流の少し深い場所に運んで沈めた。ロープのもう一方は、いつの間にやら岸の杭にしっかりと結ばれている。


「ありがとう。冷たかっただろう。猪を引き上げるまで、家に入ってあたたまろう」


 カイが手ぬぐいを差し出した。ショーンはそれを受け取り、かじかんだ手で手早く手足の水を拭う。皮膚が赤くなり、冷えきっているはずの手足がじんじんと熱くなるのを感じた。少年は自分が生きていることを実感する。


「おかえりなさい。二人とも、おつかれさま。あたたかいシチューを作っておいたよ。飲んでしっかりあたたまってね」


 美味しそうな匂いをまとったヘレナが迎えに出てきてくれる。彼女の笑顔を見ただけで、ショーンは胸の奥があたたかくなるのを感じた。



 家に入り、暖炉で暖をとった。炎はまだ少し怖い。けれども暖炉の炎は優しく暖かい。ショーンは冷えて固まった心までも炎の熱がほどいてくれているような気がした。

 少しの間暖まったら外に出て、太陽が裏山に隠れる前に、ロープを引いて渓流から猪を引き上げる。そのまま小さな納屋に運び込み、カイが猪をはりに吊り上げた。内臓のない腹腔を乾きやすいようにと開いて、つっかえ棒を一本入れる。


「こうして二日くらい干すんだ。死後硬直が終わったあとのほうが、肉も柔らかくなって旨味も増すからな。気温が低く、腐りにくい今だからできる方法だ。もう少し暖かくなったら、捕ったその場で血抜きしたあと近くの川に放り込んで冷やし、さっさとさばいて焚き火の煙で軽くいぶす。こうすることで腐敗を防ぎ、最後まで余すところなく美味しくいただくことができる。大切な生命、無駄にはしたくないからな」


 そう言って猪を見るカイの瞳は優しい。カイと猪を交互に見ながら、ショーンは言葉にできない不思議な気持ちを抱いた。


「明日は、ナイフの研ぎ方を教えよう。切れ味の落ちたナイフで解体をすれば、大怪我の元になるからな。さ、ヘレナが待ってる。夕飯を食べてさっさと寝よう」


 カイの大きな手がショーンの肩に触れる。ショーンはこくりとうなずいてカイを見上げた。カイの笑顔には、人を安心させる力があるのだろうか。ショーンは強い安堵感に包まれて、納屋を出た。



 ヘレナ特製の美味しいシチューと、ちょっと酸味のあるずっしりとした食感の黒パン。三人で囲む食卓。夫婦の明るい会話。故郷で過ごした日々とはまた違う、幸せな光景。

 ショーンはこのあたたかい空間に共にいながら、不安も感じていた。ずっと続くと思っていた、幸せだった故郷での暮らしは前触れもなく壊された。またいつこの幸せな光景が壊されるかもしれない。つい、そんなことを考えてしまうのだ。


「どうしたの?」


 ショーンの様子に気づいたヘレナが立ち上がり、ショーンの座る、背もたれのない椅子の後ろへとやってきた。そうして少年を包むように抱く。


「なんでも、ない」


 ショーンはなんともいえないぬくもりを感じながら、無表情に答えた。


「大丈夫。大丈夫だよ。キミの不安が何かはわからないけど、だいたいの不安は現実にはならないものだからね」


 ショーンの背中にポコポコと何かが当たる。


「ほら、お腹の中からってキミを応援してくれてる子がいるぞぉ。『ショーンおにいちゃん、元気になあれ』ってね」


 ショーンははっとして顔を上げた。新しい生命が、ヘレナの中で間違いなく生きている。そう感じただけで、胸が熱くなってくる。


「ヘレナ。ありがとう。おなかの中の子も。きっと、大丈夫……」

「うんうん、きっと大丈夫!」


 ほんの少し表情がゆるんだ少年を見て、カイも安堵あんどの微笑を浮かべた。


「さてと、そろそろ暗くなってきた。さっさと眠って明日に備えよう。罠の見回りは毎日やるんだ。もし明日も元気なら、ショーンに手伝ってもらいたい。いいか?」


 カイの言葉に、ショーンは無言で頷いた。


「ありがとう。じゃ、今夜は早めに休め。今日はいろいろ助かった。ありがとうな」


 ショーンは顔が紅潮こうちょうしているのがわかった。嬉しい。顔の熱が背骨を伝って全身に広がり、身体じゅうがじんわりと熱くなる。


「ふふふ。じゃ、おやすみショーン。また明日、よろしくね」


 ショーンを抱いていた腕を弛め、ヘレナがそっと肩に手を置いて送ってくれた。ショーンはうながされるままにベッドへと向かう。


「ありがとう。二人とも、おやすみなさい」


 少年は二人を振り返り、ぺこりとお辞儀をしてから部屋に入った。二人は笑顔で見送る。少年の表情は、無表情には変わりはないけれど、心なしか先ほどより晴れやかに見えた。



 翌日。朝一番でショーンはカイにナイフの研ぎ方をざっと教わり、一緒に罠の見回りに出かけた。

 昨日と同じ罠を、別のルートで回る。回りながらカイは、罠の仕掛け方や仕掛ける場所の話を昨日より詳しく話してくれた。

 狙う動物の種類によっても、仕掛ける罠が違ってくる。実際の罠を見ながら、これは鹿用、これは猪用などと解説してくれるカイ。途中で見つけた動物たちの痕跡も、彼らの生態や習性を自らの動きを交えて話してくれた。


「もう少し山に慣れてきたら、鳥を狩りに行こうか。弓も使えたほうがいいだろう」

「うん」


 そんな話をしながら、とある罠に近づく。


 ガサリ。


 茂みの葉ずれの音が聞こえた。

 昨日と同じようにカイはショーンを制止して、一人で先に罠に向かって下りていく。カイの合図を受けて、ショーンも罠に向かっていった。


「ここは鹿用の罠なんだが、この通り、狐がかかっている。こういうときは、もちろん捕ってもいいんだが、逃がしてやることもできる。こいつはまだ若い。怪我もしていないようだし、逃がしてやろう。逃がすのを手伝ってくれ」


 カイは棍棒こんぼうを逆さに持ち、鈎状かぎじょうになった先端を狐のほうに向けた。威嚇いかくしてくる狐の頭を強めに押さえつけ、狐の背後にまわる。


「こうして噛まれないように頭を押さえ、背後にまわって罠を外すんだ。ショーン、悪いがバネになっている木の枝を少しこっちに引いてくれ。そうすれば、締めつけていた縄がゆるんで外しやすくなる」

「わかった」


 縄の結ばれた木の枝に斜面の下からぶら下がるような形で、ショーンは枝を引いた。カイは狐の頭を押さえたまま、少し弛んだ縄を片手で器用に外す。そして、優しい声でこうつぶやいた。


「すまんな。痛かったろう。怖かったよな。もう罠なんぞに引っかかるんじゃないぞ」


 カイはショーンが動く前に立ち上がり、押さえつけていた棍棒を上げてドンと地面を強く踏み鳴らした。驚いた狐がさっと森の中に消えていく。


「やっぱりカイは、優しい」

「そうか?」


 どこか照れくさそうに笑ったカイが、枝を放して近寄ってくるショーンを振り向いて言った。


「とる必要のない生命は、できるだけとらずに生かしてやりたいんだ。動物たちだけじゃない。人間同士の争いでも、俺は必要以上に殺したくないと思う不良軍人だった。そんな俺だが、一度だけ怒りに呑まれて修羅しゅらになったことがある」

「しゅ……ら?」

「ああ。修羅だ。東国で伝わっている、殺戮さつりくを好む鬼とでも言おうか」


 カイは空を仰いで悲しそうな目をした。


「この間は君の過去を聞かせてもらったから、今日は俺の過去の話をしようか」


 そう言って、カイはどこか悲しそうな目のまま、穏やかな笑顔をショーンに向けた。

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