第4話 生命
あれから一週間。少年の身体じゅうにあった傷はだいぶ
ショーンは相変わらず、眠るときはひどくうなされ続けている。しかし、目覚めたばかりの頃と違い、カイ達に対する警戒心は解けてきているようだ。少しずつではあるが、ショーンは子供らしい表情や言動も見せるようになった。我が子のように少年に接しているカイとヘレナは、少しばかりほっとしている。
刃物の扱いに慣れるため、カイに教わりながら小さめのナイフで木を削って、
山をある程度長い時間歩けるくらいに体力が戻った頃、カイはようやくショーンを猟に同行させることにした。
「ショーン、今日は山に仕掛けた罠を見にいく。一緒に行こう。まともな道のない山道を歩くが、疲れたら動けなくなる前に早めに言ってくれ」
「うん、わかった」
朝一番、カイは太いロープや大きなナイフなど、猟に必要な道具を準備しながらショーンに声をかけた。ショーンは興味津々にテーブルの上に置かれた道具類を見ている。
「その大きなナイフ、すごいね」
「これか。これは東国のナイフの一種で、
刃の状態を確認したあと、カイは特製の鞘に剣鉈を収め、腰に
「よし、それじゃ出かけよう。足場の悪いところや急な斜面もある。転げ落ちるなよ」
二人は山に入った。獣道や足跡、泥浴びをするヌタ場や出産用の獣のベッド、鹿の食事の跡に大きな熊の爪痕など。カイは歩きながら、目についた獣たちの痕跡をいろいろと教えてくれる。そして、罠を仕掛ける場所のことも。
「俺の仕掛ける罠は、くくり罠だ。獣たちが罠を踏めば、強いロープがその足を絞めて逃げられなくする。中にはロープや自分の足を引きちぎって逃げるやつもいるな。罠にかかっていても、油断はできない」
「足をちぎって?」
「そうだ。彼らも必死だからな。くくり罠だと、暴れてロープがきつく絞まりすぎて、足が
そんな話をしながら、ひとつめの罠に着いた。獲物のかかった形跡はない。
「ここは最近、獣たちが通っていないようだな。ついている足跡も新しくはない。それに、見てみろ。そこに新しい獣道ができている」
カイの指さす方を見てみると、確かに罠から少年の歩幅で二歩分くらい外れたところに、うっすらと道のように割れた茂みがある。
「まあ、こいつは数日このままにしておいて、様子を見よう。次に行くぞ」
山の中には数カ所、同じように罠を仕掛けてあるという。ショーンは必死にカイのあとについて、枯れ葉や枯れ枝の積もった滑りやすい斜面を上り下りしながら、道なき道を歩いていった。
時には罠を隠した枯れ葉が散らされ、罠が
「ここは彼らに見つかったようだな。ほら、ここに踏むのを
猪の動きを真似ながら、カイが教えてくれる。カイの目にはきっと、ショーンがまだ見たことのないような、獣たちの活き活きとした姿が見えているのだろう。ショーンは瞳を輝かせながら、カイを見ていた。
「よし。次で最後だ。こんな感じで、何も捕れない日もある。次も獲物がかかっていなければ、途中で見かけたキクラゲでも採って帰ろう」
気づけば太陽は天頂近くに上っていた。山に入ったのは、日が昇って間もない朝方だった。長い時間歩いていたにも関わらず、ショーンは疲れを感じていなかった。元々自然が好きということもあってか、むしろ、カイとこうして山を歩くのが楽しくてたまらない。
そんな時だった。
断続的に、斜面の下から荒々しい音が聞こえてくる。木の激しく揺らされる音。それと、狭い孔から勢いよく吹き出しているような風の音……いや、これは荒ぶる何かの息吹だ。カイの顔に緊張が走る。
「ショーン、ここで待っていろ。いいと言うまで、来るんじゃないぞ」
「わかった」
緊張した面持ちのショーンを安心させるように一瞬微笑むと、カイは一人で急な斜面を下りはじめた。
急斜面の下にある、
「ショーン、下りてきていいぞ。俺の下りた跡を
安全を確認して、カイは少年を呼んだ。
ショーンは慎重にカイのもとへと下りていく。急な斜面の上から、大きな黒い獣の背中が見えた。強い獣臭。緩い斜面まで下りると、猪は怒りに目を
ショーンは
「立派な牙だ。見事な雄だな」
カイは、紐をつけて肩にかけていた、少し長めの
「君はそこで見ていろ」
静かに言うと、カイは棍棒を振り上げ、向かってきた猪の
絶対的な暴力。一発で気絶し倒れた猪の胴にカイが
ドボドボと音を立てて
ショーンは震えていた。怖い。あの猪は、とてつもなく生きていた。先ほどまであれほど強い存在感を放っていた生命が、今はすっかり消えている。あんなに
「怖いか?」
カイが静かに声をかけた。ショーンは無言で
「人は……いや、人だけではない。生きるものは皆、誰かの生命を奪わなければ生きていけない」
カイの声は、あくまでも静かに穏やかに響く。
「ショーン。……俺が、怖いか?」
少し不安げな色を含んだ声。カイの問いに、ショーンは戸惑った。
確かに、今まで接してきた優しいカイとは違う。容赦のない圧倒的な暴力がそこにはあった。怖くないと言えば嘘になる。
けれども、何だろう? 自分の故郷を襲った男に対する恐怖とは性質が違う。同じように目の前で生命が失われた。それなのに……どう言えばいいのだろう。根本的に何かが違うのだ。
「……怖い。けど、何だろう。怖いのはカイじゃない。……カイは、楽しんでいない。全力で生命と向き合っていて……カイからは、生命を無駄に奪いたくないって気持ちが伝わってくる。そんな気がする」
ショーンの言葉を聞いて、カイは少し哀しげに、ふわりと微笑んだ。
「そうだな。生きるためにやむを得ず相手を殺す。けれど、俺は殺しを楽しいとは思っていない。俺は彼らに敬意を表し、殺さねばならないときは、できる限り苦しませず生命を絶つことにしている。……ショーン、歩けるか? 怖いなら無理にとは言わないが、近くに来て、彼を見てやってほしい」
震えは止まらない。けれど、カイも猪も怖くはない。ショーンはゆっくりと、カイの隣に行った。
目の前で、頭を下にして吊り上げられた猪。
カイはパンッと両手を打ち合わせ、祈るように目を閉じた。そして猪の首をぐるりと切って頭を素早く切り落とし、内臓を傷つけないよう慎重に、腹の中心に剣鉈で切れ目をいれていく。つるりとした見た目の内臓が、その切れ目から見えた。
「触ってみるか?」
カイが手招く。ショーンは猪の内臓の間に手を突っ込んだ。あたたかい。今生きている自分の体温よりも、あたたかく感じる。
「あたたかい……」
「そうだろう。この熱は、こいつがさっきまで生きていた証だ。動物にも植物にも、生命はある。こいつも、いろんな植物やミミズのような小動物を食べて生きてきた。そして、これから俺たちに食べられて、俺たちの血肉となり生命となる。植物たちは、ほかの生命に食べられるが、死んだ生物たちからできた土を栄養にして育つ。生き物の死骸は、いずれ土に
ショーンが手を抜いて一歩下がると、カイは猪の腹から内臓を引き出す。肛門付近の肉と皮をぐるりと切り抜き、手早く、けれど慎重に内臓を引っ張って、身体から完全に抜き取った。そして先ほど切り落とした頭の
ショーンも同じように、立ったままで自然と手を合わせていた。謝罪と感謝。悲しみと喜び。そして畏敬の念。いろんな感情がショーンの中で
「食べられたものは、食べたものの身体となり、そのものの生命を
カイの言葉が穏やかに響く。
「俺も死ぬときは、山野で果てて自然の糧になりたい。そう思うことがあるんだ。ま、これから子供が産まれてくる身だ。そう簡単に死ぬわけにいかないがな」
そう言いながら立ち上がったカイの笑顔には、強い決意が見えた。ショーンには、そんなカイの姿が
「さてと、それじゃこいつを連れて帰ろう。この大きさなら、村の皆にも分けられる。手伝ってくれるか?」
「うん」
吊られていた猪を地面に下ろし、肩にかけやすいようにロープで縛る。内臓と頭を切り落としたとはいえ、大物のこの猪は七十キログラムくらいはあるだろう。家まではそれなりに距離があり、上り下りもある。
「ありがとう。重労働だぞ。これで地面を引きずって持って帰るんだ。基本的には俺が運ぶが、ときどきいろんなもんに引っかかるんでな。補助をよろしく頼む」
「わかった。そこの内臓と頭は?」
「あの木に新しい爪痕がある。ここは熊の縄張りだ。冬眠から覚めた熊が食べてくれる。そのまま置いていくぞ。さ、熊とはち合わせないうちに帰ろう」
こうして、二人は家路に就いた。この猪の生命を絶対に無駄にはしない。そう強く思いながら。
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