第4話 生命

 あれから一週間。少年の身体じゅうにあった傷はだいぶふさがった。まともな食事もとれるようになり、体力も戻ってきた。

 ショーンは相変わらず、眠るときはひどくうなされ続けている。しかし、目覚めたばかりの頃と違い、カイ達に対する警戒心は解けてきているようだ。少しずつではあるが、ショーンは子供らしい表情や言動も見せるようになった。我が子のように少年に接しているカイとヘレナは、少しばかりほっとしている。


 てのひらや指の傷が塞がった頃、少年は少しずつ家事を手伝うようになった。掃除、洗濯、調理に裁縫。

 刃物の扱いに慣れるため、カイに教わりながら小さめのナイフで木を削って、さじわんなどの自分用の食器も作った。腕や脚の傷が治れば、今度は薪割りや薪拾いを手伝い、鉈や斧の扱いも学んでいく。


 山をある程度長い時間歩けるくらいに体力が戻った頃、カイはようやくショーンを猟に同行させることにした。


「ショーン、今日は山に仕掛けた罠を見にいく。一緒に行こう。まともな道のない山道を歩くが、疲れたら動けなくなる前に早めに言ってくれ」

「うん、わかった」


 朝一番、カイは太いロープや大きなナイフなど、猟に必要な道具を準備しながらショーンに声をかけた。ショーンは興味津々にテーブルの上に置かれた道具類を見ている。


「その大きなナイフ、すごいね」

「これか。これは東国のナイフの一種で、剣鉈けんなたという。ほら、だいたいのナイフと違って、こいつは柄の中が空洞になってるだろう。フクロナガサと呼ばれるものに近い、特製のものだそうだ。俺の師匠が東国の出でな。猟師として一人前と認められたとき、師匠が贈ってくれたんだ」


 刃の状態を確認したあと、カイは特製の鞘に剣鉈を収め、腰にく。


「よし、それじゃ出かけよう。足場の悪いところや急な斜面もある。転げ落ちるなよ」


 二人は山に入った。獣道や足跡、泥浴びをするヌタ場や出産用の獣のベッド、鹿の食事の跡に大きな熊の爪痕など。カイは歩きながら、目についた獣たちの痕跡をいろいろと教えてくれる。そして、罠を仕掛ける場所のことも。


「俺の仕掛ける罠は、くくり罠だ。獣たちが罠を踏めば、強いロープがその足を絞めて逃げられなくする。中にはロープや自分の足を引きちぎって逃げるやつもいるな。罠にかかっていても、油断はできない」

「足をちぎって?」

「そうだ。彼らも必死だからな。くくり罠だと、暴れてロープがきつく絞まりすぎて、足が壊死えししてしまうことがある。要は、締めつけられて血の止まった部分が死んで、くさっちまうんだ。そんな足がちぎれて、そのまま逃げられてしまうことがある。しかし、そうやって逃げてもその先、生きられないものもいる。彼らを長く苦しませるのは、俺としては心苦しいんでな。……長い時間血が止まれば、足が壊死してしまう率も上がる。だから、それほど長く間を空けずに罠を見回ることにしている」


 そんな話をしながら、ひとつめの罠に着いた。獲物のかかった形跡はない。


「ここは最近、獣たちが通っていないようだな。ついている足跡も新しくはない。それに、見てみろ。そこに新しい獣道ができている」


 カイの指さす方を見てみると、確かに罠から少年の歩幅で二歩分くらい外れたところに、うっすらと道のように割れた茂みがある。


「まあ、こいつは数日このままにしておいて、様子を見よう。次に行くぞ」


 山の中には数カ所、同じように罠を仕掛けてあるという。ショーンは必死にカイのあとについて、枯れ葉や枯れ枝の積もった滑りやすい斜面を上り下りしながら、道なき道を歩いていった。

 時には罠を隠した枯れ葉が散らされ、罠がき出しになった箇所もある。それを見ると、カイは愉快そうに笑った。


「ここは彼らに見つかったようだな。ほら、ここに踏むのを躊躇ためらって、一度下がったいのししの足跡がある。彼らは賢い。それに鼻もいい。まだ新しい罠だしな。俺の人間臭が残っていたんだろう。被せておいた枯れ葉を散らして、仲間にも罠が見えるようにしていった」


 猪の動きを真似ながら、カイが教えてくれる。カイの目にはきっと、ショーンがまだ見たことのないような、獣たちの活き活きとした姿が見えているのだろう。ショーンは瞳を輝かせながら、カイを見ていた。


「よし。次で最後だ。こんな感じで、何も捕れない日もある。次も獲物がかかっていなければ、途中で見かけたキクラゲでも採って帰ろう」


 気づけば太陽は天頂近くに上っていた。山に入ったのは、日が昇って間もない朝方だった。長い時間歩いていたにも関わらず、ショーンは疲れを感じていなかった。元々自然が好きということもあってか、むしろ、カイとこうして山を歩くのが楽しくてたまらない。

 そんな時だった。


 断続的に、斜面の下から荒々しい音が聞こえてくる。木の激しく揺らされる音。それと、狭い孔から勢いよく吹き出しているような風の音……いや、これは荒ぶる何かの息吹だ。カイの顔に緊張が走る。


「ショーン、ここで待っていろ。いいと言うまで、来るんじゃないぞ」

「わかった」


 緊張した面持ちのショーンを安心させるように一瞬微笑むと、カイは一人で急な斜面を下りはじめた。

 急斜面の下にある、ゆるい傾斜の小さな広場。そこに罠にかかった猪がいた。敵意を剥き出しにして、縄の届く範囲でカイに向かって激しく突進してくる。縄はしっかりと右の後足にかかっていて、抜けたり切れたりすることもなさそうだ。


「ショーン、下りてきていいぞ。俺の下りた跡を辿たどってきてくれ」


 安全を確認して、カイは少年を呼んだ。

 ショーンは慎重にカイのもとへと下りていく。急な斜面の上から、大きな黒い獣の背中が見えた。強い獣臭。緩い斜面まで下りると、猪は怒りに目をいななきながら、今度は少年のほうへと突進してくる。

 ショーンは一瞬 ひるんだ。全身の毛を逆立て、荒れ狂う黒い獣。生きている。圧倒的な生を感じる。生命力のみなぎる猪からは、絶対に死など受け入れないという強い意志が伝わってくる。


「立派な牙だ。見事な雄だな」


 カイは、紐をつけて肩にかけていた、少し長めのかし棍棒こんぼうを下ろした。しっかりと右手で握りしめる。


「君はそこで見ていろ」


 静かに言うと、カイは棍棒を振り上げ、向かってきた猪の眉間みけんめがけて渾身こんしんの力で振り下ろした。

 絶対的な暴力。一発で気絶し倒れた猪の胴にカイがまたがる。するとすぐに、猪は意識を取り戻し、闘志を剥き出しにして暴れはじめた。カイはそんな猪を全力で押さえつけ、首を剣鉈で深くき切る。

 ドボドボと音を立ててあふれ出る赤。せかえるような血のにおい。二、三度ビクッと身体を痙攣けいれんさせたあと、猪は動かなくなった。近くの太い木の枝に急ぎロープをかけ、カイは静かになった大きな猪を手早く吊り上げる。


 ショーンは震えていた。怖い。あの猪は、とてつもなく生きていた。先ほどまであれほど強い存在感を放っていた生命が、今はすっかり消えている。あんなに猛々たけだけしくまぎれもなく生きていたのに、まるで蝋燭ろうそくを消したように、いとも容易たやすく目の前で生命が消えた。


「怖いか?」


 カイが静かに声をかけた。ショーンは無言でうなずく。でも、何が怖いのかはよくわからない。


「人は……いや、人だけではない。生きるものは皆、誰かの生命を奪わなければ生きていけない」


 カイの声は、あくまでも静かに穏やかに響く。


「ショーン。……俺が、怖いか?」


 少し不安げな色を含んだ声。カイの問いに、ショーンは戸惑った。

 確かに、今まで接してきた優しいカイとは違う。容赦のない圧倒的な暴力がそこにはあった。怖くないと言えば嘘になる。

 けれども、何だろう? 自分の故郷を襲った男に対する恐怖とは性質が違う。同じように目の前で生命が失われた。それなのに……どう言えばいいのだろう。根本的に何かが違うのだ。


「……怖い。けど、何だろう。怖いのはカイじゃない。……カイは、楽しんでいない。全力で生命と向き合っていて……カイからは、生命を無駄に奪いたくないって気持ちが伝わってくる。そんな気がする」


 ショーンの言葉を聞いて、カイは少し哀しげに、ふわりと微笑んだ。


「そうだな。生きるためにやむを得ず相手を殺す。けれど、俺は殺しを楽しいとは思っていない。俺は彼らに敬意を表し、殺さねばならないときは、できる限り苦しませず生命を絶つことにしている。……ショーン、歩けるか? 怖いなら無理にとは言わないが、近くに来て、彼を見てやってほしい」


 震えは止まらない。けれど、カイも猪も怖くはない。ショーンはゆっくりと、カイの隣に行った。

 目の前で、頭を下にして吊り上げられた猪。にごったその目には生気がなく、したたり落ちる血も、もうだいぶ少なくなっていた。

 カイはパンッと両手を打ち合わせ、祈るように目を閉じた。そして猪の首をぐるりと切って頭を素早く切り落とし、内臓を傷つけないよう慎重に、腹の中心に剣鉈で切れ目をいれていく。つるりとした見た目の内臓が、その切れ目から見えた。


「触ってみるか?」


 カイが手招く。ショーンは猪の内臓の間に手を突っ込んだ。あたたかい。今生きている自分の体温よりも、あたたかく感じる。


「あたたかい……」

「そうだろう。この熱は、こいつがさっきまで生きていた証だ。動物にも植物にも、生命はある。こいつも、いろんな植物やミミズのような小動物を食べて生きてきた。そして、これから俺たちに食べられて、俺たちの血肉となり生命となる。植物たちは、ほかの生命に食べられるが、死んだ生物たちからできた土を栄養にして育つ。生き物の死骸は、いずれ土にかえるからな」


 ショーンが手を抜いて一歩下がると、カイは猪の腹から内臓を引き出す。肛門付近の肉と皮をぐるりと切り抜き、手早く、けれど慎重に内臓を引っ張って、身体から完全に抜き取った。そして先ほど切り落とした頭のそばにそれを置くと、片膝を突いたまま改めて手を合わせ、祈る。

 ショーンも同じように、立ったままで自然と手を合わせていた。謝罪と感謝。悲しみと喜び。そして畏敬の念。いろんな感情がショーンの中で錯綜さくそうする。


「食べられたものは、食べたものの身体となり、そのものの生命をつなぐ。やがてその生命が尽きれば、また別のものがそれらを食べて生命を繋ぐ。そうやって、生命は巡っていくんだ。こうしてこいつを殺した俺も、いずれはどこかで生命を落とす。何かに食われて土に還って、誰かの生命に取り込まれる」


 カイの言葉が穏やかに響く。


「俺も死ぬときは、山野で果てて自然の糧になりたい。そう思うことがあるんだ。ま、これから子供が産まれてくる身だ。そう簡単に死ぬわけにいかないがな」


 そう言いながら立ち上がったカイの笑顔には、強い決意が見えた。ショーンには、そんなカイの姿がまぶしく見える。


「さてと、それじゃこいつを連れて帰ろう。この大きさなら、村の皆にも分けられる。手伝ってくれるか?」

「うん」


 吊られていた猪を地面に下ろし、肩にかけやすいようにロープで縛る。内臓と頭を切り落としたとはいえ、大物のこの猪は七十キログラムくらいはあるだろう。家まではそれなりに距離があり、上り下りもある。


「ありがとう。重労働だぞ。これで地面を引きずって持って帰るんだ。基本的には俺が運ぶが、ときどきいろんなもんに引っかかるんでな。補助をよろしく頼む」

「わかった。そこの内臓と頭は?」

「あの木に新しい爪痕がある。ここは熊の縄張りだ。冬眠から覚めた熊が食べてくれる。そのまま置いていくぞ。さ、熊とはち合わせないうちに帰ろう」


 こうして、二人は家路に就いた。この猪の生命を絶対に無駄にはしない。そう強く思いながら。

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