第6話 過去

「ショーンは人間の住むこの世界の地図は見たことがあるか?」

「ううん。たぶん、ない」

「そうか。じゃ、そこから話すか」


 カイは斜面に腰かけ、落ちていた小枝を拾った。ショーンを手招き、隣に座らせる。そして地面に何か絵を描きながら語りはじめた。


「ざっくり言うと、俺たち人間の住む世界は東西南北、四つの大きな国がある。大陸にある西国と北国、海にへだてられた島国の東国と南国。それからそれぞれの国の真ん中あたり、大陸の南側に伸びている央国おうこくと呼ばれる小さな半島とで出来ている。いや、知られていないだけで他にも人の住む地はあるのだろうが、俺が知識として知っているのはそれだけだ」


 地面に描いたのは、三つのいびつな楕円。どうやらカイは地面に簡単な地図を描いてくれているらしい。一番大きな折れ曲がった楕円を割るように、斜めにいびつな曲線が描かれる。その境目あたりに、盲腸のように細長い楕円が描き込まれた。

 そして大きな楕円の左の端に、カイが棒の先を向ける。


「俺はその中でも大陸の西側、国としては一番広大な西国の出身でな。といっても西の外れ、東国に一番近い港町の生まれなんだ。そこは東国人との交流も結構ある都市でな」


 そこで、はたと気づいたようにカイは顔を上げてショーンに笑いかけた。


「あーその、この世界はどうやら丸いようなんだ。この国に出回っている地図に合わせて描いたから、西国は左、東国は右側になっている。けど、実際には海を挟んですぐ隣。船でうまく風を捕まえて海を渡れば、一週間くらいで着けるほど近いんだ。そんなわけで、交易の場にもなっていた故郷は東国人も多くてな。幼い頃から東国の人々とは接する機会が多かった。俺自身、東国人の知り合いは割と多かったと思う」


 カイは懐かしそうに笑う。地面に視線を戻し、右側に描いた小さめの楕円を指しながら、彼は言葉を続けた。


「東国は、西国に比べれば国土は三分の一にも満たない小さな島国だが、世界一の大都市はここにある。農耕が盛んでな。手先の器用な者が多いのか、東国で作られた精巧な道具類は美術品かと思うほど美しく、それでいて使い勝手がとても良かった」


 カイは顔を上げ、柔らかい表情で正面の木の枝を見上げる。見慣れたはずの針葉樹の乾いた緑がなぜか妙にまぶしく感じて、カイは目を細めた。


「東国人は、もちろん例外もいるが、大抵は温和で礼儀正しい。何を考えているかわからないところはあったが、いい人たちだった。そうだな、我々西国人が利益を重んじるとすれば、彼らは和……人と人とが仲良く平和に暮らしていくことを重んじている……極論だが、大きくくくるとそんな感じに思えた」

「そういえば、カイは軍人だったって言ってたよね?」


 そんな問いかけに、カイは柔らかい表情のままショーンのほうを向く。


「ああ。西国では男は十八歳になると兵役があってな。よほどのことがない限り、軍人になる。俺も国の中央の兵舎で兵士として訓練を受けた。西国人としちゃ俺は少し小柄な部類だが、ガタイが良くて体力もあったんでな。最初の頃はまだ俺も真面目な兵士見習いだった。キツい訓練も難なくこなし、成績はいいほうだった。同期の仲間から、親友と呼べる友もできたな」

「軍人ってことは、人と戦ったこともあるの?」


 カイは一瞬息を止め、まぶたを閉じた。大きく息を吐き心を落ち着けると、再びショーンを見る。ショーンの表情は読めない。否定でも肯定でもなく、ただただ無表情な瞳がカイをまっすぐに見ている。


「残念だが、ある。兵役に入ってちょうど二年くらいの頃だったか。演習の命令を受けて、俺たちは国の中央から、東国との国境に近い演習場へと向かった。けれど、そこで告げられたのは意外な命令だった」


 カイはそれまでとは打って変わり、少し険しい表情を見せた。

 ショーンは何も言わず、ただ静かにカイを見つめ続ける。


「集まった俺たち兵士に向けて発せられた命令。それは、『国境を越えて、東国人に迫害されている同胞を救い出せ』だった」


 カイは拳を握りしめた。手に持った枝が乾いた音を立てて折れる。


「俺の知る東国人たちの気質からして、異邦人だとしても、わけもなく迫害されることはまずないと思った。彼らは和を重んじる。あるとすれば逆に、東国に行った同胞が異文化に馴染めず、東国の暮らしに不満を持つといったものだろう。それならば同胞が彼らの国で自国と同じ振る舞いをしてしまい、不興ふきょうをこうむることもあるかもしれない」


 口調からも苦悩といきどおりが伝わってくる。苦虫を噛みつぶしたような顔をするカイにどう声をかけていいのかがわからず、ショーンはただじっと次の言葉を待っていた。


「彼らからすれば我々西国人は異邦人だ。何らかの理由で東国に行った以上、彼らの文化を理解し尊重しようとすれば、東国人たちも我々の文化や風習を理解し受け入れようとしてくれる。俺の知る東国人たちには皆、そういうところがあった」


 カイはハッとして一旦言葉を切った。たかぶる感情をおさえるように、大きく息を吸い、ゆっくりと吐き出す。


「それだけに信じられなかったが……命令は命令だ。不服だったが、まだあの頃は俺も真面目な兵士だった。命令には従うしかない。俺と親友は、たまたま少し東国の言葉を話せるからと、東国に渡ったら前線部隊に合流するよう命じられた」

「そこでカイは……東国の人たちと戦ったの?」


 ショーンは少しためらいながらたずねた。聞きたいような、聞きたくないような。そんな少年の気持ちを察したのか、カイは一瞬笑顔を見せてくれた。少し悲しげな笑顔を。


「俺は東国人たちと戦う気はなかった。彼らは基本的に話し合いのできる人々だ。無駄に血を流す必要がどこにある。そう思っていたのに……」


 真顔に戻ったカイが、瞼を閉じてうつむきがちに口を開いた。


「俺たちが東国に着いたとき、最初に上陸した部隊によって、すでに戦闘は始まっていた」


 カイは両手で頭を抱える。思い出したくもない光景が次から次へと蘇ってきた。忘れようとしていた感情も一緒に。これをどう言葉にすればいいのか。


「信じられない光景だった。あの温和な東国人が、怒りで我を忘れていた」


 悩みながらも、口は止まらない。カイは見えてきた過去の記憶をそのまま語りはじめた。


「次々と倒れていく友軍の軍人たち。傷つき血まみれになっても、剣を振るい続ける東国の男たち。戦場は瓦礫と死体の転がる悲惨な光景だった」


 もうだいぶ昔のことなのに、あの戦場での日々は鮮やかに蘇ってくる。抑えきれると思っていた感情も、制御できる自信がなくなってきた。カイは口元で手を組み、顎を乗せる。


「それから数日、昼夜を問わず戦闘が続いた。兵士の休憩所になっていた大きな天幕の中では、負傷者のみならず傷を負っていないものも悪夢にうなされ、うめき、叫ぶ。まさに地獄だった」


 地獄。そう、地獄。本当に存在するのならば、きっとこういう光景なのだろう。そう感じたのは事実だ。


「東国の軍勢は、兵士だけではない。老若男女、ときには同胞であるはずの西国人までもが混ざっていた。助けにきたはずの俺たち西国軍に向かって弓を引き、剣を向ける。剣を交わしながら彼らは言った。『目をませ!』と」


 カイは大きく息を吸い、一気に吐き出した。膝の上で両手を軽く開き、握りしめる。


「俺はわからなくなっていた。自分が今、何のために戦っているのか。確かに疑問は抱いていたが、これは同胞を救うための正しい戦いだ。正しいことのために剣を振るっている。そう信じていたのに……正しいとは何なのか、正義はどこにあるのか」


 未だに、わからない。何が正しくて何が誤りだったのか。カイは再び膝の上で手を組み、目を閉じて息を整える。ショーンは何も言わず、カイの腕にそっと触れた。

 まだ本題に触れていない。少し落ち着いた頃、カイは再び口を開いた。


「ある日の黄昏たそがれ時、俺のいる部隊は占領したばかりの集落の見回りを命じられた。『戦っていいのは兵士だけ、それ以外の者には危害を加えてはならない』そんな命令はとっくに忘れ去られていたようだ。その集落は、家の残骸や兵士ではない村人たちの死体がそこここに転がって、弔うものもないようだった」


 記憶とは残酷なものだ。血と、瓦礫と、焦げた匂いが鼻の奥に蘇る。生き物の焼ける匂いと腐敗臭も。吐き気を覚えながらも、カイは言葉を続けた。


「俺が見回っていると、一人の少女が目にとまった。まだ生きて、動いている。きっとそこはその子の家だったのだろう。少女は自分の脚の上に乗った瓦礫の山を必死にかき分けようとしていた」


 そのとき、動いているものは他になかったような気がする。カイは枯れた下草を見ながら、記憶を辿った。


「怪我をしていた。放っておけば死んでしまう。今なら助けられるかもしれない。そう思った俺はその子に声をかけた。もちろん東国の言葉で。最初は警戒されたが、脚の上に乗った瓦礫をどかすのを手伝い、怪我を簡単に手当てして。そのうちに、少女は少しだけ俺に心を開いてくれた。消え入りそうな『ありがとう』の声が嬉しくて、同時に申し訳ない気持ちになってな……」


 次々と溢れだしてくる記憶。ありありと蘇る感情。冷静に話さねばと思うのに、カイの心はもうあのときに戻ってしまったようだ。


「彼女は脚を手当てしたあとも、まだ瓦礫をかき分けようとしていた。何かを探しているようだった。俺は理由も聞かず、手伝った。微かな鈴の音が聞こえた気がして、崩れた屋根板を少し持ち上げると、勢いよく何かが飛び出してきた」


 ショーンが驚いたようにカイの腕を掴む。ショーンにも何かが見えたのかもしれない。そんなことを感じ、カイはショーンを見ながらふっと微笑んだ。


「とても美しい白猫だった。よほどお互いに大事な仲だったのだろう。立ち上がれない少女の腕に飛び込み、甘える猫。無傷の猫を見て、少女は泣きながら猫の名を呼び、心底喜んでいた。その笑顔を見て、俺も胸がいっぱいになった。だが、次の瞬間」


 カイの表情が一気に険しくなる。彼はショーンから目をらし、正面を向いて静かに告げた。


「少女の細い腕もろとも、猫の身体を矢が貫いた。心臓を射貫かれたようだ。声を上げる間もなく、少女の腕の中で白猫は血を吐き、息絶えた。少女の表情が凍りつく。俺は猫を射たヤツを見つけようと、矢の飛んできた方向を向いた」


 カイの腕が微かに震えはじめたのを感じ、ショーンはそろりと手を放した。なんとなく、今は触れてはいけない……そんな気がして。それでも、ショーンはカイから目を逸らそうとはしなかった。


「友軍の男が、楽しげに笑っていた。俺は頭に血が上り、そいつに向かって駆け出そうとしたんだが……次の瞬間、別の方向から風を切る音が聞こえた。振り返ると、今度は矢が少女の胸を貫いていた。あのときのあの子の目……何故? と俺にたずねているような絶望しきった目を、俺は今でも忘れられない」


 カイは握りしめた拳を自分の太腿ふとももに叩きつけた。見ているショーンにも、やりきれない怒りが伝わってくる。


「俺の判断が間違っていた。慌てて抱き止めた俺に何かを言おうとしたけれど、言葉を発する前に彼女は事切れた」


 ショーンの瞳が揺らいだ。カイは奥歯をかみしめ、空を見上げる。激情をなんとか抑えこみ、叫びたい気持ちをねじ伏せて、カイは顔を正面に戻して口を開いた。


「男たちの笑い声が聞こえた瞬間、俺の中で何かがはじけた。これは正義ではない。こんな戦いは間違っている! どす黒い熱が背中を駆け上り、頭が真っ白になって――気づいたら俺は剣を抜き、血溜ちだまりと肉の塊の中に立っていた。何体もの新しい死体が、近くの地面にゴロゴロと転がっていた。猫と少女を射たヤツらを斬り、騒ぎを聞きつけ近づいてくる友軍の兵士たちを斬り……友軍、東国人、向かってくる者も止めようとする者も、逃げる者すら関係なく、俺はすべてを斬り殺したようだ。それを把握した次の瞬間、鈍い風切り音とともに左肩に激痛が走り、俺はその場で意識を失った」


 ショーンは目を見開いた。自分の手の甲に何かが落ちてくる。その透明な雫を見て、彼は自分が泣いているのだと気づいた。心が痛い。カイの心はきっともっと……そう思ったとき、カイの腕がショーンの肩を抱いた。ショーンは抗うことなくカイに身を任せる。


「次に気づいたとき、俺は布団に横たえられていた」


 カイの声は落ち着いていた。あたたかい、安心感を覚える響き。


「起き上がろうとしたら、全身に激痛が走って……そのとき初めて、自分が生きていること、それからそこらじゅう傷だらけなことに気づいた。そこに現れたのが、見知らぬ東国人の老人と、東国人ではない若い女性だった」


 見上げると、カイはショーンに微笑みを向けてくれていた。


「老人は俺を見るなり膝を突き、深々と頭を下げて言った。『孫娘を助けてくれてありがとう』と。俺は助けられなかった、礼はこうして助けられた俺が言うべきだと言ったのだが、老人は頭を上げようとしなかった。『孫のために修羅になるほど、あの子を思ってくれてありがとう』と」


 ショーンの髪を撫でながら、カイは続ける。


「『修羅』は殺戮さつりくを好む悪鬼とも言われるが、彼ら東国人にとっては戦の神でもある。もともとは天に住まうよき神だったが、愛するものを奪われて怒り狂い、殺戮の鬼にちてしまったのだと。近くの茂みに隠れて、老人と女性は俺と少女のことを一部始終見ていたそうだ。そして修羅の伝説そのものだと思ったと言っていた。そうそう、そのとき老人と一緒にいたのが、俺のかみさんのヘレナだ」


 カイがちょっと照れくさそうに笑った。


「彼女が、正気に戻った俺を止めようと、近くに落ちていた石を拾って力一杯投げてくれたんだと。狙い通りに石を左肩の傷に当て、意識を失った俺を二人で人の来ない山奥の小屋に運び込んで、できる限りの手当てをしてくれたんだ。二人のおかげで、俺は生き延びられた」


 カイは正面の木の枝を見上げる。相変わらず、見慣れた緑が妙に眩しく感じられた。生命の輝きを感じているのかもしれない……そう思いながら。


「こうして生き延びた俺だが、もう自軍には戻れない。どうしようかと考えていたら、しばらく一緒に暮らして、野外でも生きられるすべを身につけろと老人が言ってくれた。そして、いずれは彼女を故郷の北国に送り届けてやってくれと。で、俺は老人……いや、師匠に東国の猟や生活の知恵、思想……いろんなことを教わった。やがて傷もえ、一通りのことができるようになった頃、またあの村で激しい戦闘があった。東国人たちがあの土地を取り戻したんだ。俺はヘレナを連れて北国に向かうことになった。で、別れ際に師匠から貰ったのがこの剣鉈けんなたなんだ。道中いろいろあったが、こいつに助けられて俺たちはこの地に辿り着けたと言ってもいい。俺にとって、師匠から貰ったこの剣鉈は生命そのものなんだ」


 そこまで言って、カイはハッと我に返ったように息を吸い、豪快に笑った。


「あーすまんすまん。最後は話が外れちまったな。修羅の話は以上だ。『怒りに呑まれれば修羅になる。激しい嵐の中でこそ冷静であれ』これは師匠の教えだ。この言葉は覚えておいてくれ」

「うん。あの……カイ」


 ショーンのまだ少し赤い目がカイを見上げる。ようやく落ち着いたらしい。カイは笑顔でショーンを見つめた。


「いろいろ、わかった。助けてくれて、話してくれて……ありがとう」


 ショーンが潤んだ瞳で微笑む。カイは驚いて目を見開いた。そして思いっきり照れくさそうに笑う。


「よせやい。照れるじゃねえか。……こんな重い話、聞いてくれてありがとな。さてと、それじゃさっさと次の罠を見にいくぞ。午前中に確認しないとな」


 照れ隠しなのか、いつもより荒めの口調で言うと、顔を真っ赤に染めたカイが立ち上がった。ショーンもそれに続く。見上げたカイの背中が、ショーンには今まで以上に広く頼りがいのある背中に見えた。

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