もう一度
人は皆、女神ルキナのところに行き着く。それは誰であろうと変わらない。
わたくしもまた、生を全うしたらそこへ行き着く。次の生へ向かう門の前に立ち、そこで初めて女神ルキナの存在をこの目で確かめることになる。
なるほど、と納得して笑ってしまった。確かに彼が言っていた通り「白い」。その美しい髪も肌も身に纏っているものもすべて白かった。確かに神々しくはあるけれど、「全体的に白い」と言っていた言葉も間違いではなかった。
「お会いできて光栄だわ、女神ルキナ」
「私のことを知っているのですね」
「ええ、貴女に詳しい知人がいたの」
「そうなのですね」
女神は緩やかに微笑む。慈悲深いその笑顔に、わたくしは精一杯生きたのだと実感することができた。
「アリシャ・センティード。もといアリシャ・フィーリア。貴女はとても気高い女性だったのですね。多くの人がそんな貴女に憧れを懐き、そして目標としてきた」
「わたくしは自分がやるべきことをやったまでだわ」
「ええ……それは時には、己の気持ちを胸の奥へ押し込めてしまうほど」
女神はすべての人間を見てきたのかしら。改めて女神にそう言われてしまうと今まで我慢していたものが溢れ出してしまいそうで、ついグッと奥歯を噛み締めた。
「私はそんな貴女に、どうしても褒美を差し上げたいのです」
これも聞いたことがある。多くの人に慕われたからという理由で褒美をもらったのだと。果たしてそれだけの理由で褒美などあげていいのだろうかと疑問に思ったこともあったけれど。
わたくしに受け取る資格があるようには思えず、どう返答しようか迷っていた時だった。微笑みを浮かべていた女神の眉がほんの少しだけ下がった。
「実は前に来た人物が『褒美の一つや二つくれてやれ』と言って先に行ってしまったのです。彼もまた多くの人に慕われていました。彼が望んだ褒美が貴女への褒美なので、私は貴女に褒美をあげなければならないのです」
苦笑をしながら告げる女神に、とうとう堪えていたものがぽろぽろと崩れてしまった。
屈強な身体をしていたくせに。頑丈な身体をしていたくせに。わたくしより先に行ってしまうなんて。彼はわたくしに振り回されたと言っていたけれど、本当はその逆。何から何までわたくしは彼に振り回されてきた。
貴方のたった一言で喜ぶわたくしがいたのよ。貴方の姿を目で追ってしまうわたくしがいたのよ。
それに気付いていたのかいなかったのか、結局最後の最後まで教えてはくれなかった。
「っ……それならば、お言葉に甘えて褒美を頂いてもいいかしら?」
「もちろんです。貴女は何を望みますか? 美貌でも構いません、名誉でも構いません。貴女が心から望むものを教えてください」
それはもう、ずっと前から決めていた。彼に女神の話を聞いた時から、ずっと。
「わたくしは、『普通』を望むわ」
美しい容姿も誉れ高い名誉もいらない。わたくしはただただ、それが欲しかった。
「地位も何もない、ただの村娘になるの」
「そうすると今まで貴女が感受していたものすべて失うことになります。美味しい食事、上品で綺麗な服、世話をしてくれる人々。貴女が『普通』だと思っていたものが普通ではなくなる。それでも、それを望みますか?」
「ええ。普通の村娘になって、普通の彼に出会うわ」
それ以上に贅沢なものがあるだろうか。地位のために責任を背負うことなく、お互い普通にただの女、ただの男として出会う。確かに苦労することもあるに違いない。でももう、自分の気持ちを押し込む必要もないはず。
「……わかりました。では貴女には『モブ』としての立場を差し上げますね」
「も、もぶ……?」
「フフッ、以前そう望んだ者がいたのです。しかしその魂はどこまでも強く、人々を守ろうとしてしまう。『モブ』になろうとしてもそれはなかなか難しい話でしたね」
女神が示すその人物に、どこまでも心当たりがある。女神の言うとおり、当人が普通を望んだところでその魂はその人を強くしてしまうのだろう。
無意識に笑みが浮かぶ。彼にとっての『普通』は謳歌できたのかしら。自分が主と認めた人に忠誠を誓い、剣を捧げることができたのかしら。それが、彼が所帯を持つことがなかったという答えだと思ってもいいのかしら。
「貴女の次の人生により多くの幸があらんことを」
女神ルキナに見送られ、門の下を潜る。ああしまった、わたくしとしたことが忘れてしまっていた。もう一つだけ、次の生でも彼に会えることを願っていればよかった。
でも例え傍にいなくても、必ず会えると信じて血眼になってでも探してやるとわたくしは笑みを浮かべた。
「一つや二つ、でしたね。一つ目の褒美は差し上げました。二つ目も必ず褒美を差し上げます。貴方の望みですから」
***
「痛……」
田舎から出てきた身としては、この街はもう迷路だった。路面では電車が走り、とにかく田舎と比べて人が多い。見知らぬ土地を探索してみようと歩いていたけれど、せめて目印を確認していればよかったと思ってももう遅い。
取りあえず住所は覚えているから、誰かに道を尋ねるしかない。わかってはいるけれど、一体どんな人に聞けばいいのか。街が大きい分色んな人間がいる。聞いて丁寧に答えてくれたとして、その人が危険人物ではないという保証はない。
「どうした?」
一人の子どもが道の端で蹲っていても声をかけてくれる大人はいなかった。どうしようと座り込んで悩んでいる時、上からそんな声が聞こえて顔を上げる。
そこには一人の少年が立っていて、蹲っているわたしと視線を合わせるように身を屈めてくる。
この子は大丈夫。直感的にそう思ったわたしは田舎から出てきたこと、街を探索していたら迷ってしまったことを口にした。
「なんだ、迷子か。親は?」
「家にいるわ」
「子ども一人で歩くなよ、危ないな。住所はわかるか?」
「ええ」
「なら問題ないな」
そう言って彼はポケットからハンカチを取り出したかと思うと、わたしの右足に器用に巻き始めた。足を怪我してしまっていたことに気付いていたんだ、と手当てをしてくれる彼にお礼を告げる。
「連れてってやるよ。ほら」
「え?」
連れて行ってくれるという言葉は大変ありがたいのだけれど、身を屈めてこちらに背を向けてくる彼に嫌な予感がして思わず固まった。
「その足じゃ歩けないだろ。背負ってやるよ」
「……え」
「なんだ、おんぶじゃなくて抱っこのほうがいいのか。ほら」
「い、いいえ! お、おんぶ、おんぶでいい……!」
「そうか」
何をしれっと恥ずかしいことを。何が残念かというと、彼がわたしがそんなことされたら恥ずかしい思いをするということに気付いていないことだ。優しいのだけれど、もうちょっとこう、こっちの気持ちも考えてもらいたいところだ。
でも歩けないのは本当のことで、彼の善意に甘えて背負ってもらうことにした。わたしがまだ小さな子どもっていうのもあるのだろうけれど、彼は軽々しくわたしの身体を背負う。
わたしから住所を聞いた彼はしっかりとした足取りで街の中を歩く。途中、視界に入る程度だったけれど街のあちこちを説明してくれた。どうやらわたしは辺りをキョロキョロとしていたせいでかなりの距離を歩いていたらしい。そして、もう少し奥のほうに入っていたらそこは治安があまりよくないから危なかったとも釘を差された。
にしても、と視線を街から彼の頭に戻す。このぐらいの年頃の子って、こんなたくましい身体をしているのかしら。田舎で歳の近い子がいたけれど、その子はわたしとあまり変わらなかった。
「なんだ?」
わたしの視線に気付いたのか、彼が少し視線をこちらに向けてそう問いかけてきた。
「い、いいえ。その……身体がしっかりしてるなって……」
「ああ、まぁ、俺の家は精肉店で俺もたまに親父の手伝いしてるからかな。あと趣味で鍛えてる」
「趣味で鍛えてるの? なんのために?」
「体力ないよりあったほうがいいだろ」
「そうなんだ……あっ!」
彼との会話でふと思い出した。けれどわたしが急に大声を出したものだから彼の耳に響いたらしい、少し足が止まった彼に謝りつつ逸る気持ちが抑えきれない。
「ね、ねぇ! その精肉店って噴水広場にあるマーケットのところにあるお店?」
「そうだな」
「その噴水を挟んで向かいにあるお店、そこがわたしのお父さんのお店になるのよ! ガラス細工店なんだけど」
「ああ、そういや新しい店ができるっつってたな。住所聞いた時にもしかしてと思ったけど。そしたらご近所さんになるんだな」
彼の言葉にじわじわと胸が熱くなる。きっと彼はわたしがどうしてそこまで喜んでいるのか気付くことなんてない。だからわたしは一人でこの喜びを噛みしめる。
人混みの間をするすると抜けて歩いていた彼のおかげで、わからなかった道がどんどん知っている道へと変わっていく。噴水広場のマーケットに辿り着いたのはわたしの予想よりも随分と早かった。
彼のお父さんが営んでいる精肉店の前を歩いて、噴水の周りをぐるりと半周する。そうするとわたしの家が目の前にあって、彼は怪我に響かないように静かにわたしを背中から下ろしてくれた。
「今度は一人で遠くに行くなよ」
「うん。ありがとう、連れてきてくれて」
わたしの髪のクシャクシャにした彼の手は年齢のわりにはしっかりとしていて、大きかった。早々に自分の家に戻ろうとする彼の背中に、思わず大声を出して呼び止めてしまう。
振り返る姿に思わず涙腺が緩みそうになる。わたくしが呼べばいつだって、そうやって立ち止まって待っていてくれた。
それは今も昔も、変わらないのね。
「わたし、アリシャっていうの。貴方の名前は?」
「俺の名前は――」
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