2.噂の女子生徒

 両親の勧めではあったが学び舎……ではなく、学園は通うとわりと楽しいところであった。まぁ、多少制服とやらが窮屈で仕方がないが。学園に通う前、寮に移った時に充てがわれた部屋に置かれていたものを着たのだが、多少腕やら胸やらがパツパツだ。これはあとで直してもらうとしよう。

 知らなかったものを知るというのは、確かに大変ではあるが楽しくもある。なるほど、母がああまで興奮していたのが今ならばわかる。

 儂が通っているこの校舎はすべての者が庶民出身だ。ここに通うことになった理由は大体儂と一緒。中にはより上を目指すために貪欲的に学ぶものもいるが、それはとてもいいことだとウンウンと頷く。その向上心は決して悪いものではない。

 学園に通うようになってから同じクラスの生徒とも仲良くなり、友人もできた。なるほどこれが『普通』かと日頃女神に感謝し感動しているところだ。前はこんなに穏やかに過ごす時間がそもそもなかったのだ。仲間との会話とて戦略的なものばかり。何が好物なのか、好きな子がいるのか、そんな会話などする余裕がなかった。昨日会話をした仲間が翌日物言わぬものに成り果てていることも少なくはない。

 穏やかだ。心安らげる日々を過ごせるなんてなんて幸福なことか。それをより実感できるように女神も記憶を残したのではないだろうかと最近では思っている。昔の仲間にも知ってもらいたかったと思いつつも教材を手に持ち、教室を移動している時だった。

 この学園は庶民だけではなく貴族も通うということで、とにかく広い。校舎は別々だが共有スペースもあるものだから、たまに貴族を目にする時もある。まぁ、庶民はそう簡単に貴族に声をかけることが可能ではないのだが。だから儂は貴族がいた時は「ああ貴族か」と思う程度だ。

 そういうこともあって、中庭を突っ切って行こうとしたところで貴族の姿を見ても特に驚きはしなかったのだが。

「きゃあ?!」

 驚いたのは別のことだ。突然悲鳴が聞こえたものだからつい身体は身構え悲鳴の上がったほうへと視線を向ける。するとそこには一人の貴族と……その貴族から数メートル離れたところに一人の女子の姿。何もないところで派手に転んだのか、あの女子は。とこの場にいた者全員がそう思っただろう。

「いったぁ~い……!」

 などと言っているが、恐らくそう痛くないはずだ。距離はあるが視力がいいものだから女子に怪我がないのは見て取れた。

 何をそんなに痛がっているのだろう、と怪訝な表情を浮かべたその時。今度はどこからか一人の男子が走ってくる。服装からして貴族だ。この学園は貴族と庶民では制服の作りが違うため区別がついて助かる。

「大丈夫か?!」

「うっ……うぅっ、ひどいですっ……急にわたしを突き飛ばすなんて、わたしが何したって言うんですかぁっ?」

 いや、何をしたって一人で派手に転んだだけだろう。

 誰もがそう思ったに違いない。にしてもなんなんだあの女子は。一人で派手に転んだ挙げ句に、まさかの転んだ原因がまるで自分の数メートル先に立っていた貴族のせいだと言わんばかりの口調だ。

 そもそも距離があるのだから転ばせることなど不可能なこと。駆け寄ってきた貴族の男子もそれがわかっているはず――

「なんだと?! お前は一体何度彼女に嫌がらせをすれば気が済むんだ!」

 なんてことはなかった。阿呆なのか、あの男は。怪我もしていない、わざとらしく泣いているだけ、しかも人のせいにする。明らかにダウト。だというのに片方の言い分も聞かずに一方の言葉に耳を傾け怒鳴りつけるのか。しかも相手は無駄にベソをかいている女子と同じ女性だというのに。

「……なんのことですの」

「またその言い方か! いい加減にしろ! 流石に俺たちもこのまま黙ってはいないぞ?!」

「や、やめてください! わ、わたしが悪いからぁ……」

「ああ可哀想に……保健室に行こう。痛かっただろう」

 いや流石にこれは、あんまりだろう。急いで現場に駆け寄りこの場を一人派手に転んだ女子生徒を連れていこうとする男子生徒に声をかけようと試みる。

「すまないが、先程のは」

「無関係の人間は黙ってろッ!」

 何という言い草。無関係とは。先程の一部始終を見ていたのだから寧ろ関係者と言ってもいいだろうに。こちらの言い分に一切耳を傾けることがなかった男子生徒はそのまま二人でこの場を去っていく。

 確かに昔もああして周囲の言葉に耳を傾けず突っ走る若者はいたが。だがそういう若者は生き急ぐ。それを嗜める役を担っていたことも多かったが、それにしてもだ。あまりにも一方的で流石にこちらもいい気はしない。

 言いがかりをつけられた女子生徒に大丈夫かと聞こうと後ろを振り返ってみたものの、その女子生徒は周囲に一礼するだけでスタスタと歩いていってしまった。あの様子からしてこれが初めてではあるまい。だというのに騒ぎもせず、凛とした佇まいを周囲に見せただけだった。

「とんでもないものを見てしまった」

 教室に戻りいの一番にそう言葉にする。儂の言葉に友人たちが目を丸くし、ぞろぞろと儂の席に集まる。「なんかあった?」との言葉に先程見たものをそのまま口にした。

「ああ、それって例の女子生徒でしょ?」

「知っているのか?」

「有名な話だよ。俺も見たことある」

「私も」

「結構一般クラスで見た奴は多いんじゃないかな」

 あれが初めてではないとは思っていたが、まさかこうも多くの目撃証言があるとは。

 友人たちが見たというものは自ら水を被りそれを彼の女子生徒のせいにしたり、自ら鞄を汚しておきながらわざと汚されたとか、または彼女が近くに通りかかるのを見越して先程のようにわざと転けるとか。自分からやっておきながらそのすべてを例の女子生徒のせいにしているとのこと。

「常習犯ではないか。だというのになぜ周囲は何も言わない?」

「その女子生徒を擁護してんのが王子を中心とした人間なんだよ」

「私たち庶民が貴族に対して何か言えるわけないよ……あの女はそれを知っていて一般クラスの生徒がいる前だけでやってんの」

 随分と悪知恵が働く女子だ。どうりでなんの躊躇いもなかったわけだ。例え偽証してもそれを実証できる者が上に物を言える立場ではない、それをわかっていたからこそのあの大胆さか。

「しかし、貴族で気付いている者も流石にいるだろう? なぜ王子やその周辺の人間に忠告をしない」

「そのほうが令嬢にとってラッキーだからだよ」

「王子の婚約者っていうだけで周りはすっごい妬んでいるはずだから。だから邪魔者が消えたら自分が婚約者になれるかもって考えている人が多いんじゃない?」

 女子の友人たちが続け様にそう説明してくれたが、二人の言葉に儂は初めてあの女子生徒が王子の婚約者であることを知ったのだが。

「……彼の女子生徒を今まで何度か見たことはあったが」

 そう、あれほど美しく毅然としている佇まいは周囲の目を惹きつける。よって王子の婚約者だということは知ってはいなくても、彼女の存在自体は知っていた。その姿を思い返しながら口を開く。

「彼女は決してあのような扱いを受けていい女性ではないだろう。彼女は別け隔てなく優しく礼儀も正しい、まさに淑女の模範となる女性ではないか」

「わかる。すっごいわかる」

「俺たち庶民に対しても優しいもんな」

「私転んだ時に手を貸してくれたのも彼女だったもん」

 儂たちの会話が聞こえていたのか、クラスにいた生徒たちも次々に「俺も」や「優しい人だよ」などなど声が上がる。どうやら一般クラスの生徒のほうが一方的に吐き捨てた男子生徒とは違い、目が曇っていないようだ。

「俺は思うのだが」

 顎に手を当て思案する。このままではもしかしたら彼女は例のやらかし女子生徒に貶められてしまう可能性がある。

「俺たちだけでも、彼女の身の潔白を証明しなければならないのではないだろうか。向こうはもしかしたら偽りの証拠も作ってしまうかもしれないしな」

「そんなことになったら……」

「もしかして王子も婚約者である彼女を追い出す可能性もあるってこと……?」

「ああ。よって、こちらもそれなりに対策をせねばならないと思うのだが」

 彼女にとっては大きなお世話かもしれないが。しかしなんの罪も犯していない者が虚偽によって一方的に責められるのはいい気がしない。儂……俺は確かに普通を生きたいと願ったが、だが過ちを見て見ぬ振りをするわけにもいかない。己の望みを選んだところできっと後悔も付き纏うだろう。

 それに学生とはいえ、王子という身分でどちらか一方の言い分しか耳に入れないとはあってはならないこと。今のうちに慧眼を鍛えておいてもらわなければ将来が不安だ。

「俺たちのやれることをやろう」

 俺の言葉に気が付けば同じクラスの者全員が首を縦に振っていた。

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