第三章 燕岳⑤

しかし、三輪先生の言葉は照子にこれ以上の議論を許さなかった。

照子はうつむき、拳を握りしめた。僕は照子の情熱を知っているだけに、可哀そうな気持ちと安心した気持ちが入り混じった。


下山の準備が始まるなかでさらにガスが強くなり視界が悪くなった。

「みんな!全員そろってますか!」

三輪先生の言葉が響く。

「先生!榎並さんがいません!」

僕はその声を聞いて背筋が凍る。照子がいない。照子はきっと登ったんだ。

何がそこまで照子を動かすのか、僕にはわからなかったが「登らなくてはいけない」そう夏休み最後の日の校舎で僕を見た照子は全身で命を燃やしているように見えた。

僕は止められるのを避けるためにざわつく生徒から距離を置き、誰にも気づかれないところで小走りに走り出した。


合戦小屋から先はいかにも稜線という感じで視界がひらける。この程度のガスならなんとか山頂まで登れるはずだ。登山者もまばらだが何人かとすれ違った。そういえば小学校の頃、何度も爺ちゃんに燕岳に連れて来られたのを思い出した。森林限界に近づき、随分立木も減ってくる。僕はまず燕山荘を目指すことにした。照子の足は僕よりずっと遅い。まだ燕山荘までたどり着かないはずだった。

そこまでのルートで捕まえられるはずだ。合戦小屋から燕山荘までは一時間強のルートだ。ただし、視界が若干悪いため登山道から外れることだけは絶対にさけなければならない。

僕は慎重に、しかし可能な限り急いだ。雨は小雨のままだったが、ガスは同様だった。

雲の隙間から槍ヶ岳の頂上が見えた。槍ヶ岳は三一八〇メートルの山。日本のクライマーの憧れの存在である。まさに槍の形をしたピークはいつ見ても見事だった。

そして、さらに登山道を進むと目指す燕山荘をなんとか視界にとらえることができた。

そこで、僕は気づいた。

「誰かー。誰かいませんかー。」

照子の声だった。

僕は声の方へ歩く。そこで、登山道から少し降りたところのくぼみに足を怪我した照子が辛うじて見えた。少し雨脚が強くなっているのもあって、登山道からは辛うじて見えるギリギリの位置だった。

「照子!」

「雄!」

照子も叫ぶ。

僕は体が燃えるように熱くなるのを感じたが、努めて冷静に照子のいる場所まで下りていった。すべりやすくなっている草や岩に気を付けた。

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