第34話


     *


「大丈夫だっていうのに、ママついてきちゃったんです。もう子供じゃないのに、恥ずかしい」

 義兄さんが運んでくれたハーブティーを一口飲むと、未来は頬を膨らませた。

「いや、心配なさるのは当然だよ。自分の娘がずっといなかったんだから」

 なだめるようにいったあと、義兄さんはぼくに向いた。

「お母さん、ご一緒にいらしたんだよ。いつもお世話になってるからって、お土産までいただいちゃってね」

 テーブルの上には、蓋の開いた“お煎餅詰め合わせ”の箱が置かれている。 

「お店のほうにいていただいてよかったんだけど―――」

「やですよ、うっと~し~」

 未来は“海苔巻きあられ”を一つつまんだ。

「って未来ちゃんがいうから、帰りは僕が責任持ってお家へ送り届けますからっていって」

「だいじょ~ぶです。あたし、子供じゃないんだから」

 頬を膨らませながら、彼女はあられを食べた。が、子どものように欠片をポロポロこぼした。

「それにお母さん、学校への連絡を失念していたことに、ここへきてから気づかれたらしくてね。とり急ぎ電話入れられたあと、そのまま学校へ向かわれたみたい」

 義兄さんが笑顔で説明してくれた。

 ということは、今ごろ学校は、はじめての帰還者に大喜びしていることだろう。


     *


 日曜日の夜、突然この世界へ戻ってきたという未来は、当然ながら、親に無理矢理即、病院に連れていかれ、月曜日一日、検査入院をした。結果、特に問題があるところはなかったようで、退院した足でここへやってきたという。

「ただ夢の中にいたような感じだったんです」

 あっけらかんとした話し方だった。

「場所はどこだかわからないんですけど、並木道ずっと歩いてるんです。一緒に歩いてる人たちも誰だかわからないんですけど、同年代の子たちって感じはわかりました。べつに疲れもしなかったし、怖いとか不安とかいう気持ちも全然なくて……どっちかっていうと、楽しかったような……」

 時間が経過した感覚などまったくなかったといった彼女は、いつの間にか自分の部屋のベッドで目を覚ましたのだった。

「そして一階に降りてったら、ママと妹がギャーギャー騒いで、怒りだして……」

 彼女はまたあられをつまむと、

「寝すぎて怒ってんのかな~って思った途端に、今度はふたり、泣きだして。なにがなんだか意味わかんな~いって感じで」

 食べた。

 そしてモグモグしながら、

「今までどこいってたの~!? ってパパが訊くから、どこもなにも、寝てただけよって答えたら、ママと妹が『二週間いなかった~!』って、また泣きながら怒りだして」

 半分になっていた彼女のカップに、義兄さんがポットからお茶をそそいだ。

「あたし、騙されてるんじゃないかって思って、携帯見たんです。そしたら日曜日になってて、あら~って思ったんです。だって、月曜日に学校から帰ってきて、宿題する前にちょっと寝よ~と思ったのは覚えてたんです。でも起きたら日曜日って……変ですよね~」

 ぼくは無言で頷いた。

「二週間寝続けるなんてことないだろ~し、いくらなんでも、その間に起こされるだろ~し。お腹もすくだろ~し」

 頷いた。 

「それに一番変だって思ったのは、届いてた会長からのメールに、ちっとも気づかなかったこと。メールの着信はバイブレーションのみにしてるんですけど、あたし絶対気づくんです。寝てても気づくんです。だからやっぱり変だと思って……。すいませんでした、返信せずに」

「あ、いや、いいんだ。無事だったんなら」

「はい」

 ニコッと笑って“ざらめ煎餅”に手を伸ばした。

 ぼくも笑顔を返した。しかしこわばっていたその表情が、未来の帰還を手放しで喜べなかったことの証だった。

 未来はやはり、由実の描いたF8号の並木道の中にいた。すると、戻ってきて、今こうしてぼくの前に存在するということは―――由実の決断が功を奏したことを物語る。

 では、ぼくの決断の結果は―――。

 やはりぼくは、賭けに負けたのか……。

 自然と視線が落ちる。

 いやしかし、まだ決まったわけじゃない! 由実の死は、まだ確認されていないじゃないか!―――心の中で声を張りあげた。

「でもだったらあたし、どこいってたんだろ~? せっかくの同好会もほったらかして……」

 未来の声で我に返った。

「そうだね~。……不思議だね~」

 義兄さんが応じた。

「あ、由実さんもう、同好会復帰しました?」

「え?」

「いえ、もしそうだったら、心配かけちゃったかな~と思って」

 眉を曇らせた未来を見て、彼女の心根のよさを痛感した。そんな彼女には、真実を伝えるべきか?―――英断をくだし、自分の身を呈した由実のことを……。

 悩んだ視線は、自ずと義兄さんに動いた。

 微かに、だが確実に、彼の顔は上下した。

「ど~したんですか?」

 という未来に、由実が事件の真実に気づいた時点から今までのことを、包み隠さず話した。

 小さく口を開けたまま、微動だにせず聞き入っていた未来の手は、もう、あられをつまむことも、ティーカップを持ちあげることも、なかった。


     *


 失踪した生徒たちが、徐々に学校に戻ってきた。うちのクラスではそのたびに、喝采がわいた。宇津先生の表情や言葉にも、本来の闊達さが甦ってきていた。

 戻ってきた生徒たちに変わったところはなく、ほぼ未来と同じような感想(存在したシチュエーションはもちろん違ったが)をもたらしていることが、噂話で耳に入ってきた。失踪中の記憶がまったくない者も、中にはいたようだが。

 同時に、クラス内のぼくに向けられる視線は、次第に緩んでいった。というよりも、ぼくを気にする者が少なくなっていった。

 ただ、由実だけが―――戻ってきてはいなかった。

 しかしその事実が気にかけられている気配は、喜びにわくクラス内で、まったく感じられなかった。


     *


 絵画同好会は、ぼくと未来、ふたりだけで続けられた。

 由実の行方がわからないことを知った未来は、しばらく塞ぎ込んだあと、

「同好会、今まで通りやりますよね! ね! ずっと!」

 顔をあげ、力強くいった。

「由実さんが死んじゃったって、まだ決まったわけじゃないです! だいたいあたしいったじゃないですか、会長の能力、信じてませんからって! だから絶対戻ってきます、由実さん! そんなとき、同好会なくなってたら、寂しがるじゃありませんか!」

 目を真っ赤にしながらも、決して涙を見せまいとする彼女は、ぼくより何十倍、何百倍、強い人間だった。下級生で、しかも女子なのに。

「そうだよ。すべて未来ちゃんのいう通り! やめる必要なんてないよ!」

 義兄さんの笑顔も加担した。

「―――うん!」

 未来に負けず、大きな声でぼくは頷いた。


 そして一一月も終わりに近づいたある日、東京中高協会美術展の、審査結果が送られてきた。

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