第32話
*
週末のにぎわいが盛大なぶん、繁華街を抜けると、白由が丘の街は深い闇に包まれたように感じる。時刻は優に九時をまわっていた。
はじめて由実を家まで送ることにした。
「時間も遅くなっちゃったから……」
そのありきたりな理由で、
「もしかしたら……これが今生の別れになってしまうかもしれないから……」
という本心を押し隠した。
予想に反し、由実は遠慮しなかった。
無言で歩くふたりの間に、しばしば寒風が通り抜けた。夜はもう、薄手のコートを羽織ってもおかしくはない。
これからが心配な期間―――。
前例からいくと、肖像画を描きあげた当日、もしくは翌日に、モデルは―――死ぬ。
この事実を、果たして由実に伝えるべきか悩んだ。
が、彼女の方から余命を問い質してきた。
「いろいろ整理するために」
という気丈な台詞とともに。
隠せばかえって不安を募らせてしまうかも……。
ゆえにぼくは、正直に告げた。
半ばをすぎた一一月の寒風が、ぼくたちの間をすり抜けた。
ブレザーの襟を立てながらの頭には、幾度もくり返したつぶやきが、やはりまた響いた。
“だから、賭けの勝敗がわかるのは……来週の月曜、か”
―――後悔の残滓がなかったとはいいきれない。だが、もう幕はすっかり開けてしまったのだ。
こうするしかなかった。
改めてのその想いをかみ締め、気づかれないよう、チラッと由実を見た。するとそこには―――、
いない! 由実の姿がない!
えっ、えっ、えっ!?
あたりを見まわす。
も、も、もう、消えて死んじゃったの!?
賭けは失敗に終わったの!?
こんな早く結果が出るなんて、聞いてないよっ!
「居海くん」
後ろからの声に、全力でふり返った。
そこには―――、
ああ~……いた~……よかった~。
街灯に照らされた由実。いつも見ている正真正銘の彼女が、いた。
「どうしたの?」
不審げに訊かれ、
「……あ、え、いや……べつに……」
懸命に平静を装った。
「うち、こっち」
十字路に立っていた彼女は、そこで左方向を指した。
「あ、そっか。……そうだったね」
すましていってから、小走りで彼女のもとに戻った。
すると、
「忘れちゃった?」
躊躇することなく、彼女は右手でぼくの左手を握った。
えっ―――!?
「いや……うん」
と答えようとしたところを、唐突なあせりが、
「ひや……ふん」
と、うわずったものに自動変換してしまった。
「―――生まれてはじめてだった。……あんなに長い時間、
闇の道を歩きだした由実は、告白した。彼女の右手は、柔らかく、そしてしっかりとぼくの左手を包んでいる。
「あの絵、よかったらずっと大事にしてほしい」
そして、「嫌かもしれないけど」と続けた台詞には、笑いが滲んでいた。
頷いた。でも、暗闇でわからなかったかもしれないから―――ギュッと左手を握った。
それからずっと、ぼくたちは無言で歩いた。無言ではあったが、手の温もりが、何事かをお互い、物語っているように感じていた。その内容はわからない。でも、至極前向きな会話だと信じたかった。
石井家の門扉。―――由実と触れ合ってから、すぐに着いてしまったような気がする。
ドアの上の玄関灯と、二階の窓の一つに、明かりが灯っていた。
いつまでもこうしていたい……。
しかし、そのぼくの想いを彼女はあっさり放棄し、
「ありがとう、今日は」
ふり向いた。
「……どういたしまし―――」
うつむきながらのぼくの返事は、強制的に途中で切られた。
目の前に、微かに揺れた髪の毛。唇には、生まれてはじめて味わう柔らかな感触。それがしっとりしたものであったのは、ずいぶんあとになって思いだされたのだが……。
えっ……。
斜めになっていた由実の顔がぼくの顔から離れたのは、どれほどの時間が経ってからだろう。
「お別れの挨拶。……べつにいいでしょ、私、居海くんの愛人て立場なんだから」
そういった彼女は、いたずらが見つかった子供のように、しおらしく唇を噛んだ。
「……愛人なんて言葉、やだよ」
無意識に強い口調。
「……ごめん」
はじめて耳にした由実の謝罪。
それに動揺してか、
「愛人なんかじゃなくて……彼女になって」
そう続けようとした口は、
「大丈夫、由実はなんともならない。大丈夫、このまま事件は治まる。ぼくが保証する!」
と、意に反して動いた。そしてそれは、はじめて「石井」ではなく、「由実」と呼んだ瞬間でもあった。
彼女は微笑み、ゆっくりと深く、頷いた。
力いっぱい、ぼくは彼女を抱き締めた―――かったが、そうするにはもう遥かな距離がふたりの間を隔てていて……。
すでに門扉の向うにあるドアに手をかけていた由実は、
「おやすみ」
唇だけでいうと、長い髪を揺らし、玄関へと入っていった。
ぼくの言葉を彼女は、信じただろうか?
ただの気休めだと、落胆してはいないだろうか?
そして今後、生きている由実を改めてぼくは―――この両腕で抱き締めることができるのだろうか?
「結果は月曜!」
未だ残る、生まれてはじめての左手の温もりと唇の感触が、ついつい弱気になる自分を、そう叱咤した。
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