第31話
【15・賭け】
少し左に傾けた由実の顔と、イーゼルに立てかけられたスケッチブックの間を、ぼくの目は往き来する。真っ白だった画用紙には今や、もうひとりの由実が、ほとんど現れていた。
疲労が彼女全身を覆っているのはわかっていた。それでいながらも、しっかり背筋を伸ばし、真っ直ぐ前を見つめ続ける姿は、逆に凛々しささえ感じる。その凛々しさを寸分足りとも洩らさず
今ぼくの前に座る由実は、どんな思いで肖像画のモデルになっているのか……。
恐怖はないのか……。
後悔はないのか……。
今この瞬間にでも、「やっぱりやめた」と、一言いってはくれないか……。
―――そんな雑念に支配されてしまうから。
「少し、休む?」
小さく声をかけた。
彼女はそのままの姿勢で、案の定、小さく首をふった。
一か所に定めたまま動かない彼女の瞳を、覗き込みたい衝動に駆られる。
そこには、いったいなにが映っているのか……。
それがいつもと変わらないアトリエ内の風景でないことだけは、たしかなような気がした。
「もう少しで……」
ぼくの言葉に、今度は小さく、彼女は頷いた。
いったんとめた筆を、ぼくは再び動かした。
*
「そんなことできないよ!」
「それだけはやめたほうが……」
ぼくの返答に、なだめるような義兄さんの言葉が続いた。
「でも、これ以上失踪者を出さないためには、私が消えるほかない」
意を決した由実の口調だった。
「だからって、石井さんのせいってわけじゃないんだから。絵を描いたのは妹さんで―――」
「いえ、同じことです。いくら妹の仕業でも、描いたのは、私のこの躰なんです」
義兄さんの意見を真っ向から否定した由実は、
「この事件をとめるには、亜実が残した情念をこの世から完全に消すしか方法はない。そうするには、彼女が入り込んでいるこの私を消すしかないのよ」
懇願するような眼差しをぼくに投げた。
「でも……」
その視線にたじろぎ、言葉が続かなかった。
「一週間足らずで、亜実は新たな作品を描いてしまう。だったら描けないように、家にある彼女のキャンバスをどこかへやっちゃおうかって考えたけど……やっぱり意味ないと思う。そんなことしたら、あの人の不審を買うし、だいたいすぐに新しいキャンバスを買いにいくわ、亜実。だって……私の躰、支配してるんだから」
「……」
「だから次の絵ができあがる前に、私の肖像画、完成させてほしいの」
「……」
「情けないけど私……自分で自分の命消す勇気、ないから」
「情けないなんて―――」
「居海くんの能力、こういうときのためにあったんだと思う」
思わず出たぼくの声に、彼女は重ねた。
「私を殺すためじゃない―――みんなのためなの。みんなを助けるために、描いてほしいの」
「……」
「肖像画が完成するまで、アトリエ、毎日使わせてもらえないでしょうか」
「え……」
急にふられた義兄さんは、言葉をつまらせた。
「そしてなるべく長い時間、使わせてもらえれば……。ひとりでいる時間少なくしたいし、それに疲労度が増せば、家で筆持ってしまう危険性もさがるだろうし」
居海くんには申し訳ないけど。と、彼女は添えた。
彼女の決断を押し留めるための方法を必死に模索していたぼくに、今さっきの「あの人」という彼女の言葉が、きっかけをもたらした。
「もし石井がこの世から消えてしまったとしたら、残されたお母さんはどうするの!?」
声を張った。
しかし、返ってきた答えは冷静なものだった。
「私が消えれば亜実も消える。ふたりの娘が消えれば、あの人だって現実に向き合えるはずだわ。……かえってそのほうがいいのかもしれない」
「……」
「それに……もともとあの人にとって、私、いないものだから」
―――なにもいえなかった。いえないどころか、いわなければよかったかも……。
後悔が重くのしかかった。
「だから……お願い」
彼女の瞳の色が、懇願から哀願に変わっていた。
誰も動かなかった。息遣いさえあきらめたかのように。
その空白の中、
“ガラン―――ガラン―――ガラン”
ふいに鈴の音。
まるでそれを鳴らしたのが由実であったかのように、窓からのその音は、ぼくの背を押した。
「―――わかった」
声はかすれていた。
「庸くん……」
義兄さんの声が遠くに聞こえたような気がした。
彼女の思いに屈したわけでも、ましてや、やけくそなどということでも決してなかった。
それは―――賭け、だった。
彼女の決断を思い留まらせるには……。
それを考えていた裏側で、一つの救済方法がぼくの中にひらめいていた。
この考えが正しければ、由実の命を助けることができ、かつ、これ以上の失踪者出現を抑えることができるかもしれない。しかし間違っていれば、また人を殺してしまうことになる。しかもそれが、かけがえのない仲間であり―――恋する
賭け。
正しくそれ以外の何物でもない。そしてそうする以外、ぼくが採れる道も、ない。
彼女の頬に戻った微かな笑みが、勝負開始の合図だった。
*
黒の絵の具で、右下にサインを入れた。
この切羽詰まった状況下、一分一秒がおしいのは無論のこと。なので、彼女の肖像画は油彩ではなく、水彩に決めたのだった。
彼女がやってきた火曜日からさっそく開始された制作は、由実であることの確実性を持たせるため、細かいデッサンをほどこし、そして限りなく彼女の肌の色、髪の色、服の色に近づけるように、繊細な色づけも心がけた。それゆえ、納得のいかないことから、幾度か描き直しを余儀なくもされ、完成は、想定していた期日を大幅にオーバーしてしまった翌週の土曜日―――今日にずれ込んだのだった。
疲労の蓄積ははなはだしく、やり遂げたあとの心地よさもなかった。だが、完璧にもうひとりの由実を生みだした自信は、あった。
「……できた」
つぶやくようにいったぼくに、彼女はゆっくりと視線向けた。
「ありがとう……」
彼女の唇が音をともなわず、そう動いたように見えた。
幸い、この肖像画制作期間内に、由実(亜実)が新たな絵を描きあげることはなかった。ただ、亜実が過去に描いたキャンバスが数枚、白く塗り潰されていただけ―――やつれた表情の由実は、そう話した 。
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