第30話
*
怖れていた通り、翌日から由実は、今まで以上に寡黙になった。加えて、授業中もうつらうつらし、休み時間は机に突っ伏していることも多かった。―――過去には一度も見たことのない、彼女のようす。
「大丈夫?」と声をかけても、小さく頷くだけ。
相当悩んでいるのか……。
ぼくたちを敵視するリーダー的存在の誓子がいなくなっても、攻撃を受ける可能性がなくなったわけではない。ほとんど無防備といっていい彼女のそばを、ぼくはなるべく離れないよう心がけた。―――頼りないナイトではあったけど。
*
同好会は文字通り、未来とふたりきりになった。
母親の体調がすぐれないので、しばらく由実は休む。―――未来にはそう伝えた。
「えぇ~……」
慕っていた姉を失ったかのごとく、彼女はとても寂しがった。その寂しさが結果、筆にも影響を及ぼした模様で、新たな作品の制作速度は目に見えて遅くなった。
おしゃべりの時間もほとんどなくなった。
以前であれば大いに喜ぶべきことであったが、今になるとお気に入りのBGMがなくなったようで、完治しているはずのぼくの手の動きも、鈍くなった。
*
携帯を開くと、画面に『4:30pm』の表示。
翌週の火曜日の同好会。未来の姿はまだアトリエにない。
今まで一度も遅れてきたことのない彼女が……と、首をひねったのは四時をすぎたころ。
授業の終わる時間が同じ日は、由実とともに一緒にここへ向かっていた。しかし今日は三年生の終了時間が早かった。
まさか彼女に限って、曜日を間違えてるわけでもないとは思うけど……。
心配になったので、開いたままの携帯で未来にかけてみる。
が、
《只今電波の届かないところにいるか、電源が入っていないため―――》
例の無機質なメッセージが応ずるのみ。三度かけてあきらめ、メールを送信して携帯を閉じた。
それと同時に、
「庸くん……」
襖の外で義兄さんの声。
あ、やっときたか。―――でも、それにしてはおかしい。同好会メンバーは、今では義兄さんの案内などなしに、そのままあがってくる。
「……はい」
襖が開き、義兄さんが現れた。そして、
―――!?
その隣、半身を義兄さんに隠した制服が、立っていた。
「石井……」
うつむいたままの由実の顔が、微かに上下した。
「さぁ」
壊れ物にでも触れるかのように、義兄さんはそっと彼女の背を押した。そして自分もアトリエ内に入ると、後ろ手で襖を閉めた。
由実に手荷物はなく、ただ肩に、キャンバスバッグだけがかけられている。
隅から丸椅子を持ってきた義兄さんが、
「さ、どうぞ」
いたわるように声をかけ、由実の横に置いた。しかし彼女は、座る気配を微塵も見せない。
「今、お茶持ってくるからね」
と、出ていこうとした義兄さんを、
「どうしよう……」
彼女のつぶやきが引きとめた。
次いで、見るからに疲労の色を濃くした顔の由実は、バッグから、おもむろにキャンバスをとりだした。
小ぶりなサイズ。
それを両手で持ち、由実はぼくに見せる。表情からは、完全に感情というものが抜け落ちている。
雑。―――その一言につきる絵。
雑なデッサン―――。雑な色づけ―――。
抽象画? 一見そう思われても文句はいえないような、しかしそれは風景画だった。
構図の配慮もなにもなく、勢いだけで描いたようなその作品だったが、並木道と、そこを歩く人物を認識することは、辛うじてできた。
ただ作品の右下には「20**・11・6」―――しっかりと昨日の日付。―――この作品が完成した日。
「今日……学校から帰ったら、気づいたの」
蒼白といってもいい顔で、由実は口を開いた。
「さ、かけて」
義兄さんが優しく彼女の肩に手をかけ、座らせた。
「……なにが?」
携帯を握り締めながら問うぼくの声は、緊張で震えていた。加えて、掌から尋常ではない汗が噴きだしているのを、触れているプラスティックが教えた。
「……無意識に描いてた……。私、無意識にこれ描いてたみたい……。
居海くんが先週
……でも……結局私がやったことに……違いない。
……これ、もともと亜実が描いた作品塗り潰して、描いたみたい。だって私のF8、二枚ともちゃんと残ってるから……」
そこで由実は一度唾を飲み込むと、
「私が真実に気づいたから、亜実、本格的に私を操りだした……」
手に持つキャンバスをブルブル震わせ話す彼女に、どこか常軌を逸した精神状態を見た。だからなだめようにも、その異様な迫力に、ぼくの口は開くすべを失っていた。
そのかわり、
「石井さん。きみのせいじゃないよ。きみが悪いんじゃないんだよ。だから、思いつめちゃだめだ。……ね。だから、気持ち楽にして。ね」
優しくも力強い義兄さんの助言に、一間置いて微かに由実は頷いた。その表情には、落ち着きも垣間見えた。でもキャンバスは未だ、微かに揺れている。
その揺れるキャンバスを彼女は裏返し、木枠をぼくに見せた。印字は『F8』。
ぼくたちのクラスの八番。たしかそれは―――。
「……駒尾さんの番号」
由実はいった。
そうだ。たしかそうだった。しかし―――彼女はもう消えている。
「じゃあ……二年生か一年生の八番が、標的に……」
怖々尋ねた。それしかないことはわかっていたが……。
静かに頷いた彼女は、
「でも、二年のF組に、八番はいない」
「え、どうして……」
驚いてぼくは訊いた。
由実の横に立ち、心配げに彼女を見守る義兄さんも、不可解そうな顔を見せた。
無意識に描きあげたキャンバスに気づいてすぐ、由実は学校へ電話をして宇津先生に連絡をとったという。そして現在の二年F組八番、並びに一年F組八番の生徒の安全を確保してほしいと訴えた。
唐突にそんなことをいわれた向うは、当然いぶかしんだ。しかし、失踪事件に関係があるという熱を込めた言葉に、すぐに当該生徒とコンタクトをとるべく行動を起こしてくれたらしい。由実がそんな冗談をいう子ではないことを、先生は重々承知していたからだろう。
しかし、間もなく返ってきた先生の返事は―――、
「去年唯一、一年生で消された桜野さん―――彼女が今、二年F組の八番だったのよ」
「……どういうこと?」
「行方不明ではあるけど、死亡が確認されたわけじゃない。だから学校には、まだ在籍の形になってるって」
「……」
「姿形はないけど、彼女はまだ、しっかり二年生の一員なのよ」
「たしかに、安否不明のまま除籍じゃ、気の毒だものね……」
義兄さんが声を落としていった。
「ということは、標的は今の一年F組の……」
頷くかわりに、彼女はF8の表面に視線を落とした。キャンバスの微かな揺れは、その瞳にも伝播していた。
「私……大切な仲間まで……消しちゃった……」
語尾が聞きとれないほどの、弱々しい声。
「大切な仲間……」
「次に先生、一年F組にあたってくれた。でも担任の先生つかまえられなくて……。
で、ほかの先生に訊いたら、受け持っている子の親から、朝学校に連絡があったらしくって……娘がいないって」
「……」
「担任の先生、教頭先生と学年主任と一緒に、午前中から出払っているらしいって聞いたから、どうやらまたって……」
「……」
「その親御さんからの電話とった先生に、その生徒の出席番号問い質してみたんだけど、さすがにそれはわからなくて……ただ……覚野っていう女子生徒だって……」
―――!?
ふいに、校舎屋上の景色が脳裏に甦った。―――はじめて未来と逢った、あのときの。
《―――失礼しました。あたし一年F組八番。覚野未来と申します》
雲一つなく、真っ青に晴れ渡った空のもと、ぺこりと頭をさげた彼女は、そういったのではなかったか……。
「私……未来ちゃん……消しちゃった……」
微かに揺れ続けていた瞳が、みるみる水分をたたえた。
まだそうと決まったわけじゃ―――という思いは、浮かんですぐ消えた。
そうに決まっている。そうでなかったら、連絡もなく、今この場に未来がいないことの説明が……ぼくにはどうしてもつけられない。
“ガラ~ン、ガラ~ン……”
猫野神社の鈴の音が窓から飛び込んできた。
それが合図だったかのように、由実は顔をあげた。
「居海くん―――私を描いて」
揺れをなくした瞳は、射るようにぼくの
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