第29話

     【14・一二人目】


 住宅街のすっかり陽の落ちた暗さは、そのまま自分の心情だった。

 石井家からアトリエへ向かう足は、脳を通さず自動的に動いていた。

 増した肌寒さが頭を冷やしていたとはいえ、今さっきの彼女の言を疑う気持ちは、やはりわいてきてはいなかった。

 だが一方で、どうかそうであってほしくない、という強い願いがあったのも正直な思いで……。

 交錯する脳裏が、囁く―――。

 では由実の語った理由が真相だとして、以後彼女がキャンバスに向かうことがなくなれば、この事件は本当に収まるのか……。

 ただ、彼女の同好会不参加が永遠になるかもしれない―――ということだけは、どうしても避けたかった。

 それは今まで築きあげてきた彼女との間柄の崩壊にもつながりかねない。

 いやそれよりも―――彼女から絵画を奪わせたくなかった。

 彼女はああいったが、キャンバスに向かい、筆をとっているときだけ自分に戻れるというのは、実際彼女の本意ではないか……。

 大好きな、そして現在の生きがいといってもいいほどのことを、自身のせいでもないのにとりあげられる……。それを自分に置き換え想像してみれば―――当然我慢できることではない。 

 だがしかし、彼女はそれに耐えうる精神力を持っている。なにしろ今でも家庭では、自分を消すという苦しみをこらえ、妹を演じ続けているのだから。そしてこれからも、それは続くのだろう……。いや、続けざるを得ないのだろう。―――母のために……。妹にいわれなき苦悩を与えられながらも……。

 ―――であれば、『F』以外で描いたら……。

 ふと思考に推進力を持たせ、そんなアイディアを浮かばせたのは、由実に対するやるせない思いからだったのか。

 ―――フィギア以外のキャンバスであれば、もう学園から行方不明者や死者は出ないのではないか……。

 光明を見た気がし、思わず足がとまった。

 が、追って頬を打った一筋の寒風が、この着想を無残にも打ち消した。

 由実に妹の意思がとり憑いている限り、どんなサイズに描こうとも、今度は別な理由づけがなされ、結局無意味に終わるのでは……。

 それに『F』以外に描いて、仮に身のまわりから凶事が起こらなくなったとしても、知らないどこかで発生している可能性は否定できないのでは……。

 なにしろ、一度もしくじらず事をなし得ているほどの、妹の残心の強さなのだから。

 自分たちに被害が及ばなければ……。

 自分たちが知らなければ……。

 そんな卑劣な考えはお互い到底持ち得るものではなかったし、そもそも、こんな思いつき自体、由実の頭脳であればすでに浮かんでいたはずだ。それゆえの同好会不参加宣言なのであろう……。

 ほかに方策は……。

 ありそうもないことはわかっていながら、今一度、一から彼女とのやりとりを反芻し、解決の糸口を見つけようと試みた。

 しかし、もとより冴えない頭脳が奇跡など起こせるはずもなく……。

 肩を落とす身は、人影や明りが徐々に増す繁華街に近づいていたが、心中はやはり、暗闇を彷徨うままだった。


     *


 アトリエに戻ると、お茶を運んできてくれた義兄さんに由実とのやりとりを、ありのまま話した。 

「……寂しくなるけど、仕方ないね」

 しばらくエプロンに目を落としたあと、彼はつらそうにいった。

「でもまだやっぱり、庸くんのいうように、100パーセント決まったわけでもない。ようすを見ようって判断は最善だったと思うよ」

 慰めるように、そうつけ足しもした。

 ぼくは頷いて、すでにホットに切り替わっているハーブティーを一口飲んだ。

 口中に広がるハーブの香りは、今日に限っては落ち着きをもたらしてくれるものではなく、かわりにただ、「仕方ない」を、改めて受け入れさせるだけの効果しかなかった。  

 しばしアトリエには、窓から入ってくる微かな虫のしかなくなった 。

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