第24話


     *


「いっ―――!」

 チクッという痛みが右手の指先に走り、とっさに机の物入れから手を引きだした。

 中指と人差し指の腹に一直線の切り傷―――瞬く間に溢れだす血。

 反射的に立ちあがって、傷口を押さえた。

「どうしたの?」

 重なったぼくの手を覗き込んだ由実は、すかさずスカートのポケットからハンカチを出し、押さえるぼくの左手をどけると、傷口を強く包み込んだ。

 まだまだ蒸し暑さが残る通常授業開始日。昼休みを校庭の隅で由実とすごし、教室へ戻ってきてすぐのことだった。

「なにしたの?」

「わからない……机の中に手入れたら……」

 冷静に尋ねる由実に、動揺を隠せず答えた。

 すると彼女は傷口を握ったまま、逆の手でぼくの机を斜めに倒した。物入れの中から教科書やルーズリーフが床へ落ち、その中に―――、

「えっ!」

 刃がいっぱいに飛びだしたカッターナイフ。しかも五、六本。

「なんだこれ!?」

 思わず昂ったぼくの声に呼応するように、

「そんなことやっても無駄よー!」

 女子の叫び声。

 誰かはわからなかった。が、声のニュアンスから、それがぼくや由実に向けられたものでないことはわかった。

 まだ昼休み終了のチャイムは鳴っていない。だが、ふり返ったぼくの目には、そこにクラスのほぼ全員がそろっているように映った。

「そんなことで悪魔の呪いなんてとめられないわよー!」 

 同じ女子。明らかにとり乱しているその絶叫。ここからだと男子生徒の陰に隠れていて、やはり誰だかわからない。

「そうよ!」

「そうだわ!」

「当然だよ!」

 ところどころから賛同の声があがった。女子だけではなく、男子のも。

「だからクラス変更頼んだのかよ、おめえ!」

「頼んでないわよ、あたし!」

「嘘つくんじゃんねえよ! こないだ見たぞ、担任に拝み倒してるとこ!」

「あたしじゃないわよ! 適当なこといわないでよ! だいたいあんたこそどうなのよ! ほんとは自分だって替わりたいんでしょ! 男のくせに、この臆病ものー!」

 一角で男子と女子の罵り合い。

 それを尻目に、

「保健室いこ」

 由実が囁いた。

 が、

「お、俺はとめたんだよ~、やめようっていったんだよ~! 信じてくれよ~! な、ほんとだよ~!」

 顔をくしゃくしゃに歪めた男子生徒が、いつの間にか跪かんばかりの体勢で目の前にいた。

 ―――誰だっけ?

余歪よわい! てめえ汚ねえぞー!」

「ううん、汚くなんてないんだ! 居海くん、ほんとなんだ! 俺のいってること、ほんとなんだから~!」

 すでに泣きだしている彼が「余歪」という名前だと、飛んできた罵声で思いだした。

「な、だから助けてくれよ~! 俺だけは、ね。頼む! 頼むから~!……あっ、いうよ、こんなことしようっていいだしたやつ! それって―――」

 といいかけたところで、ぼくにすがりついていた余歪は、男子生徒ふたりに口をふさがれ、引っ張っていかれた。そして一つの集団(そこには男子も女子もがいた)の中に彼は飲み込まれ―――中から彼の泣き叫ぶ声に重なり、殴り、蹴られているような鈍い音。

「やめなさいよ、暴力はー!」

 集団外部からの批難。

「うるせー! 裏切りもんはただじゃおかねー!」

「そうよ! クラスの統制を乱す者は、万死に値するわ!」

 反応する声にはどれも、ふざけ楽しんでいる響きはない。

「統制乱してるのはあんたたちのほうじゃないの! そっとしとこうって意見無視してー!」

「なんだとー!」

「じゃああたしがいってやるわよ! カッター入れようなんていったの―――」

 どこからか鞄が投げつけられ、余歪のあとを引き受けようとした女子の顔面に命中。彼女は両手で顔を覆い、倒れ込んだ。

「なにすんだよー!」

 鞄のお礼か、教室後方の棚の上に飾ってあった花瓶が宙を舞った。

 人に命中することはなかったが―――、

「てめえ、ふざけんなーっ!」

「ふざけてんのはどっちよーっ!」

「ぶっ殺してやるーっ!」

「キャーァァァッ!」

「もーやめてよーぉぉぉぉっ!」

 飛び散った水と花、そして壁にあたって割れた陶器の、派手でショッキングな音が、クラス内から完全に理性を消し去った。

 ―――かに思われたが、

“バンッ!”

「静かになさいっ!」

 机を叩く音に続き、よく通る声が教室前方から轟いた。

 パニックに片足を突っ込んでいたクラスは、途端に鎮まり返った。

「みなさんが互いに争ったって、事の解決にはつながらないこと、おわかりになりません?」

 教師のように教壇に両手をついて、眼鏡の奥から鋭い視線を真っ直ぐ伸ばしているのは―――クラス委員長の田倉見誓子。

 漫画に出てくる典型的なお嬢さまのような口ぶり。それが板についていることが、血筋のよい裕福な家庭に生まれ育った子女であるという彼女の噂を肯定している。おまけに、男子たちの気持ちを大いに惹きつけられるルックスを持ち合わせていることも、典型的な漫画のそれと一緒だ。

「居海くん」

 ぼくに向けられた眼鏡のレンズが光った。

「もともとあなたの恨みは、美術部にあったんじゃありません? それがいつしか、自分の所属するクラスの面々に移行した。理由は知りませんが、こちらとしては迷惑千万ですわ」

 射るような視線、淀みなく出てくる氷のような冷たさを持った言葉に、ぼくはなにも返せなかった。ただ同じ冷たさでも、以前の由実のものとはなにか違うな~―――そんな場違いな思いだけが脳裏に浮かんでいた。

「そしてもう我慢の限界―――この騒動は、そんなみなさんの気持ちの表れなのではないでしょうか?」

 みんな、静かに彼女の演説を拝聴している。

「しかしこんな騒ぎは不毛ですわ。罪もない者同士が傷つけ合い、罵り合っても、先ほども申しあげた通り、解決には一向つながらないのですから」

 彼女の話など露ほども興味なさそうに、由実は握ったぼくの指を見つめ、

「大丈夫?」囁く。

 ハンカチはすっかり血に染まり、ズキズキとする傷口の疼きは徐々に増していたが、「うん」ぼくは囁き返した。

「ですのでいかがでしょう」

 ボリュームをあげた委員長の顔は、ぼくからクラスの面々に移された。

「これ以上殺人を行わないのなら許す!」

 そして、

「しかし、性懲りもなくまだ続けるのだとしたら―――指先の切り傷ぐらいでは済まさない。ということにしては!」

 水を打ったような一同の中から、

「まだ死んだわけじゃないわよ!」

 と、女子の抗議。

 しかし、

「死んでるに決まってるじゃないっ!」

 有無をいわさぬ強い口調は、お嬢さま言葉を乱した。だがすぐに冷静さをとり戻すと、

「先日行方不明になった堀田くん、大学へいってからも野球を続けたい、そしてプロを目指したい、そうお考えだったみたいですわ。なにしろうちの学校は、毎年甲子園まであと一歩の強豪校なんですから」

 続けて、

「山田くん、こちらへ」

 その呼びかけに、余歪が飲み込まれた集団の中から、坊主頭の男子が出てきた。

 山田も野球部であることは知っている。が、今この教室という場で、彼の手にむき出しの金属バットが握られているのには、違和感よりも……恐怖感。

 従順なしもべのように、彼は誓子の隣に控えた。

「山田くんも同じ思いを持っているんじゃないこと?」

 高校生らしくない問いかけに、坊主頭はこっくり上下した。

「だから無我夢中で練習に励むわ。まわりなど目に入らないほどの集中力で。そうよね?」

 坊主頭はまた頷く。

 ―――なにがいいたいんだ?

「とすれば、いついかなるとき不慮の事故が起こっても、仕方のないことですわね。まわりが目に入らないほどなんですから」

 頷く。

「どんな事故が想定できるのかしら?」

 教師のような調子の誓子に、

「たとえば、素振りの練習で、誰かの腕にあたっちまったり……」

 棒読みのように答えた山田の声は、心持ち震えているようにも聞こえた。

「よくあることなんですの?」

 えせ教師に、また頷く。

「骨折だけで済めばいいけど……再起不能になっちまうことも」

 やはり棒読みだったが、しっかりとした音量で山田はいった。三白眼気味の目をぼくに向けたまま。

「だ、そうですわ」

 薄い唇を、誓子はニヤッと歪めた。

 完全なる―――脅迫。

 傷害事件の(仮に事故扱いに終わったとしても)加害者になろうなどと、単に誓子の美貌に惹かれたぐらいでは考えはしないだろう。だとすると山田の従順な態度と発言は、彼女の命令を断りきれないなにかが彼の内にあったからなのでは……。

 覗かせ屋―――。

 誓子に関する密かな風聞が頭をよぎる。

 至極真面目なお嬢さま。―――でも、ある取引が成立すれば、テスト時、カンニングをさせてくれるという噂。ニ年時のはじめから、これは密かに広まっていた。

 どんな方法でかはわからない。ただ、間違いなく成功するという。だから結んだその取引を、依頼者は必ず履行しなければならない。

 そしてその取引とは、

『卒業までの主従契約』―――らしい。

 仮に約束を反故にすれば、誓子からのチクリが入り、その依頼者は、よくて停学、悪くて退学。教師というものは、真面目で上っ面のよい生徒を絶対的に信じる性質を持っている。 

 実際、ニ年時もぼくと同じクラスだった山田は、三年にあがり、別人かと思うような成績をとるようになったらしい。去年は「山田がいるからケツにはならない。安心安心」などとちゃかされ、担任からも、このままじゃ確実に推薦は無理だといわれていた。なのに今年度一学期の中間、期末テストにおいて、学年内では中ほど、クラスでは中盤より上の成績を収めているという噂。まるでリトルリーグのチームが、メジャーで優勝したような快挙だ。

 普通では考えられないこの現象は、自分も大学へいって野球をやりたいと願う彼が、推薦を受けるために、あせって『覗かせ屋』と契約を結んだ結果と考えて、まず間違いないのでは……。

 そして契約を結んでいるのは―――山田だけではないはず。

「腕が使い物にならなければ、みなさん怯えずに済みますものね」

 ニタついた顔で脅迫は続く。

「二年生のときに行動を起こしておけばよかったのですけど、まさかここまで事を続かせるなんて、わたくしも思っておりませんでしたから」

 すましていうと、誓子は片手で眼鏡を押しあげた。

 そして、

「いいこと、これは正当防衛ですのよ」

 眼光同様、鋭く声を張った。―――まだ危害を加えてもいないのに。

「こう二か月ごとに殺されていっては、たまったものじゃありませんから」

 そのとき由実の躰が、

“ビクンッ”

 ふいになにかに触れられたときのような反応を示した。

「いい居海くん。わたくしのいっている意味、おわかりね」

 嫌味ったらしく念を押す誓子に向かって、由実の顔がゆっくりと動いた。

「加持祈祷が上手くいかないからって、強硬手段に出たの? でも稚拙な手段ね。まあ、もともと祈祷だとか悪魔払いだとかいうのも稚拙だけど。大の大人がやることじゃない」

 静かに、かつ、重々しさのある由実の発言。

「……え」

 誓子の鋭い目が一層細められる。

「田倉見さん、無駄に使うお金たくさん持っているみたいだから、今度は本物の神主でも神父でも霊能者でも、連れてきてやってみたら? 無能なあなたより、よっぽど効果があるんじゃない?」

「……今、なんて、おっしゃって?」

 声を震わす誓子の顔は、真っ赤に染まっていた。

「あら、耳が遠いいの? 気の毒ね、せっかくルックスはまあまあなのに」

 誓子とは逆に、淡々と毒を吐く由実の表情は涼やかだ。

「愛人が偉そうなことぬかすんじゃないわよっ!」

 誓子の怒りが沸点を超えた。

「愛人?」

 由実の冷静な質問。

「そうよ! 何人もが目撃してるのよ! あんたとこの男が街中でいちゃついてるところ! 夏休み中!」

 えっ、見られてたの!?

「そして、今も!」

 という誓子の怒声に、

「違うよ! それは―――」

「黙らっしゃいっ!」

 急いで弁解に入ろうとしたが、鬼の形相で一喝されたぼくは、黙ってしまった。

「あんたこそ気の毒な女よ! この男にとり入ってるから大丈夫なんて思ってたら大間違い! 愛人なんてね、飽きられたらポイよ、ポイ!」

 なんてこと!

「どうせ躰でも与えて自分の身守ってるつもりでしょうけど、そんなのは今だけ! あんたみたいな暗くて冴えなくて気持ち悪い女、新しくとり入る女が現れればすぐさま殺されるわ!」

 響き渡る誓子の言葉とその内容は、完全に良家の令嬢が発すべきものではなくなっている。

「だったらだったで構わない」

 無感情で返した由実に、悪態の続きを吐きだそうとしていた誓子の口が固まった。

「早いか遅いかの違いだけで、どうせみんないずれ、死ぬんだし」

「……」

「それにもう私、半分死んでるし」

 クラスの中でこの言葉の意味がわかるのは―――ぼくだけ。

「保健室」

 そう小さくつぶやくと、由実はぼくの腕を引いた。ドアに向かう間に、幾人かの生徒が怯えるように道を開けた。

 これで由実も、ぼくと同じ立場になってしまった。―――クラス中からの敵に。

 由実が片手でドアをスライドさせると、

「あっ」

 ドアの向こう側に立っていた人物とぼくの驚きが重なった。

 ―――宇津先生。

 次の時間は彼女の授業だった。

 が―――、

 彼女は今やってきて、そこに着いた―――のではなく、ずっと前からそこに―――いた。

 棒のように立っていたその姿が、どうしてもそんなふうに勘繰らせた。

 だいたい授業開始のチャイムは、すでに鳴り終っていたはず。

「けが人が出たので、保健室にいきます」

 それだけを告げると、ぼくの腕を持ったままの由実は、先生の脇をすり抜けた。

 今さっきまでの騒動を、先生はずっと窺っていた? 

 ふたりの生徒がやり玉に挙げられているのに、見て見ぬふりを決め込んだ? 

 そのふたりのうちのひとりが、復讐の相手―――ぼくだったから?

 人気のない廊下を由実と進みながら、そんな疑念が頭を駆けめぐっていた。

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