第18話


     *


 木々の緑葉に落ちる五月雨のは、気分を落ち着かせるとともに、キャンバスに向かう集中力をも高めてくれる―――のは、ぼくと由実だけにあてはまる現象のようで……。

 さっきから窓際で、「あ~あ」と派手にため息をついてみたり、へんてこなストレッチを始めてみたり、表に向かって身を乗りだし、後頭部で雨を受けてみたりと、完全に落ち着きを欠いている未来は、制作に行きづまってしまったのか、はたまた思い通りにいかないのか。

 由実の参加と締め切り期限設定のダブル攻撃で、未来の無駄話や脱線は、前よりかは減った。しかし―――まったくなくなったわけではなかった。残念ながら。

「石井さ~ん」

 窓枠にもたれかかりながら、未来は唇を突きだして呼びかけた。

「なに?」

 筆の動きをとめずに答えた彼女は、未来が独断で決めた『出逢い』というテーマをすんなり受け入れ、今、湖畔の風景をキャンバスに生みだしている。

「ど~して、ぜんぜんしゃべらないでいられるんですか~?」

「え?」

「さっきから一言も口利かないから」

「描いてるときはいつもしゃべらないけど。集中してるから」

 そうです、それが普通です。

「でも、それはひとりでやってるときでしょ。今はまわりにあたしたちがいるじゃないですか~。話したくありませ~ん?」

「べつに」

 そうです。ぼくも話したくありません。

「ふ~ん。……でもなんだか石井さん、集中してるってよりも……キャンバスに向かう姿、なにかにとり憑かれちゃって、一心不乱って感じもする~」

 軽くいなされた恨みか、未来はさらに唇を突きだした。

 なんてこというの!?

 由実の手がとまった。

 あ、気分害しちゃった!?

「とり憑かれてる、か……。そうかもね」

 だがすぐに、筆は動いた。

「そうかもねって、ど~ゆ~ことですか?」

「未来ちゃん!」

 しかし、彼女はぼくの牽制などお構いなしに、

「ほんとになにかにとり憑かれてるんですか?」

 形のいい眉毛を大きくあげ、窓枠から背中を離した。

「……なにかというより、誰か、ね」

 うっとうしがるでもなく、由実は作業をとめずに答えた。

「誰か?……誰かって、誰?」

 由実のキャンバスの後ろに未来はまわった。

「未来ちゃん!」

 も~いいじゃない! これ以上ぼくの気を揉ませないで!

「妹」

 と、はっきり由実はいった。

「いもうと? 妹さんにとり憑かれてるんですか? ど~して? 仲悪いんですか?……じゃあ、それって生き霊ってこと?」

「仲悪くも、生き霊でもない」

「……?」

「もう死んじゃってるから、妹」

「え?」

「あまりにも私の絵がへただから、とり憑いてなんとか見られるようにしてやろうって考えてるのかも」

 キャンバスに向けた視線はそのままに、由実は筆を置いた。

「私が絵を描き始めたの、彼女の身代りだから」

「身代り……って、どういうことですか?」

 キャンバス越しに、未来は首を伸ばした。

「あ、いや、未来ちゃん、これは石井のプライベートなことだから……」

「いいのべつに。隠してるわけじゃないから。ただ、今まで話す人がいなかっただけ。居海くん以外に」

「あ……はあ」

 それから描きかけの風景画を眺めながら、妹の死による母の精神失調の件、それによる現在の自分の生活―――家庭内では自身を消し、妹の亜実として生きているということ―――を、由実は包み隠さず告白した。

「そして、放課後ずっと家にいるより、少しでも母と距離を置いたほうがいいって居海くんがいってくれたから、この同好会、参加したの」

 淡々と語る彼女に、いらつきも、仕方なしという調子も、見受けられなかった。

 信じられない! そんな表情の未来に、「ほんとの話よ」とつけ足し、「ね」と、由実はぼくにふり向いた。彼女のその瞳には心なしか、微笑みが浮かんでいるような気がした。

「う、うん……」

 一間―――。

「すいませんでした……変なこと訊いちゃって」

 しおらしく未来は、頭を垂れた。

「いいのよ。べつに気にしちゃいない」

 おもむろに由実は、視線を窓に移した。

「それに……やっぱり誰かに訊いてもらうと、気持ちが楽になるから」

 窓外の五月雨はやんでいた。でも陽の射す気配はない。

「みなさん、いいかな~。お茶が入りましたよ~」

 襖の外から義兄さんの明るい声がした。

 雨足と同じく、ぼくたちも休息に入った。


     *


 ―――以来、未来の態度が急変した。

 正直でさっぱりとした人柄に感銘を受けたのか、母のために自分を犠牲にし(それがいいことなのか、ぼくには判断できないが)力強く生きている姿勢に感心したのか、どちらにしろ、急激に由実に好感を持ち始めたのはたしかだった。

 休憩時間には毎度、由実を相手におしゃべりと爆笑が炸裂し、制作中も、どちらかというと彼女に助言を求めるほうが多くなった。

 迷惑がっているんじゃ……? 

 と、ぼくはちらちら由実の顔を覗くのだが、彼女の表情に嫌がっているようすは垣間見えず、普段通り無駄のない受け答えで相手をしてやっていた。―――助かります!

 活動後も、ふたりは一緒に帰っていくようになっていた。後ろ姿は仲のいい姉妹みたいだった。ただ、由実はほとんど聞き役にまわっている感じだったが。

 なににせよ、仲よくしてもらえて、よかった~。


 梅雨が明け、猫野神社の境内に蝉の声を聞き始めたころ、同好会はじめての作品『出逢い』は完成した。

 夏休み前までという締め切り期限は、ギリギリみんな、守ることができた 。

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