第13話

     【7・始動】


「あたし、猫野神社にはまだ一度もいったことないんです~!」

 とても浮かれた調子の未来は、アトリエの窓から身を乗りだすようにしていった。

 窓外では緑が気持ちよさそうに、午後の陽射しを浴びている。

「でも木ばっかりで、神社見えませんね~! アハハハハ~!」

 なにがおかしいのかさっぱりわからなかったが、

「あはは……」一応つき合った。

 すると未来は、クルッとこっちに向き直り、満面の笑みで、

「結局活動場所なかったら、お願いした手前、あたしの部屋でって考えてたんです」

「あ、そう」

「でも妹と同じ部屋なんで、どうしよっかな~って思ってたんです。あいつ、中三になったらやたら色気づいて、絵の具の匂いが臭いとか部屋が汚れるからやめてとか、うるさいことばっかいって喧嘩が絶えないから……」

「あ、そ~なの~」

「だから実は、どっか外でやるか、先輩の部屋でって、まずはお願いしようと思ってたんです」

「あ、ふ~ん」

「でも結果、こんな環境でやらせてもらえることになって、ラッキー! 案ずるより産むが易しですねっ!」

 そのことわざの意味が、前述の説明に合致しているか定かではなかったが、

「そ~ね~」

 と、とりあえず同意し、

「じゃあ、さっそく」

 気持ちを切り替えるように、ぼくはイーゼルの前の椅子に着いた。

 はじめてここにやってきた彼女の、一方的なおしゃべり、室内見学、窓外確認などに、優に一時間ほどを使い、同好会活動は未だスタートを切れていない。これでは単なる休日の遊び時間になってしまう。

 しかし、そんなこっちの危惧などお構いなしに、

「このアトリエ、誰かほかの女子、きたことあるんですか?」

「会長、彼女いないんですか?」

「会長、年上と年下、どっちが好きですか?」

 と、絵画制作とはまったく関係のない話題の連発を、彼女はとめようとはしなかった。

 それでも義兄さんが淹れてくれたお茶を飲むため、一瞬途切れたおしゃべりの隙を衝いて、

「あの、未来ちゃん」

「はい」

「今日は、絵画同好会の日だよね」

「そうですよ。栄えある初日です」

 ニコッと笑って彼女は答えた。―――よかった、覚えてた。

「じゃあ、時間もったいないから、さっそく制作にかかろうじゃない」

「大丈夫ですよ。あたし、今日一日フルに空いてますから」

 よりニコッとして見せた。―――そういうことではないんですけど……。

「あ、そうだ、時間で思いだした!」

 芝居ではなく本当に思いだしたので、ぼくはポンと両膝を叩いた。

「活動時間なんだけど……」

「はい、ですから今日は何時まででも大丈夫です」

「いや、今日のことじゃなくて……今日もなんだけど、普段の活動時間」

「はい、普段も何時まででも大丈夫です」

 元気のいい答えが聞こえなかったふりをして、

「六時半までとします!」

 宣言した。

「ええ~!?」

「部活の時間だってそう決められてるし、ダラダラやってても仕方ないから。絵画は時間じゃなくて集中力」

 あまりに自分の時間が失われてしまってはたまったものじゃない。だからもっともらしい理由をつけた。

「ええ~」

「さ、そうと決まったら、活動開始! 時間、もったいない、もったいない」

 木炭を持って、ぼくはキャンバスに向かった。

「え~、六時はん~? え~、九時ぐらいまでだいじょ~ぶなのに~」

 横でぶつくさいっていたが、無視して下書きを始めた。

 昨日由実の家から帰ってきたぼくは、夜遅くまでかけ、完成間近だった作品を仕上げた。だから多少寝不足気味ではあったが、真新しいキャンバスを前にすると、気持も引き締まり、眠気も飛んだ。

 抗議が無意味だと悟ったのか、彼女はすぐにおとなしくなって、ぼくの横にセッティングされていた自分の椅子へと座った。そしてキャンバスバッグから真っ白なキャンバスを出すと、ぼくが貸したイーゼルへと立てかけた。

「あ、スクエアで描くの」

「え? なんですか?」

「スクエアなんだ」

「すくえあ?」

 彼女はきょとんとした顔。

「え……そのキャンバス……の形」

「これ、スクエアっていうんですか?」

「うん。正方形だからスクエアっていう型なんだけど……知らなかった?」

「はい。画材屋さんで、いろいろなのあるな~とは思ってたんですけど。名前なんて今までぜんぜん気にしてなかったから~」

「あ、そう。……まあ、そんな重要なことでもないけど」

「会長のは?」

 首を伸ばしてきた。

「これはフィギュアっていう形。ちょっと長方形で、一番よく使われてる型だね」

「へ~」

 興味津々な反応に、これぐらいは『教える』というスタンスをとってもまあいいかと思い、 

「フィギュアっていうのは『人物』っていう意味で、人物を描くのに適してるっていわれるけど、べつに絶対的にそう決まってるわけじゃなくて、なに描いても構わない。ほかにはペイサージュっていう型とマリンっていう型があるんだね。『風景』っていう意味と『海景』っていう意味。形は、ペイサージュがフィギュアよりも細長くて、マリンはさらに細長いんだ。これらも同じく、Pに風景画を描かなくちゃいけないとか、Mに海の絵を描かなきゃいけないってわけでもない」

「ぴー……えむ……?」

「あ、頭文字。ペイサージュのP、マリンのM」

「ああ、そっか」

「キャンバスの裏の木枠に頭文字刻印されてるから、それ見れば、すぐそのキャンバスの型はわかるね。まあだいたい、そんなの確認しなくてもわかるけど」

 すると彼女は自分のキャンバスを裏返した。

「あ、ほんとだ、『S』と『10』って書いてある」

「スクエアの10号ってことだね」

「へ~、すっご~い!」

 感動したような声をあげたが―――なにがすごいんだろ? 

 次いで「会長のは」と、ぼくのキャンバスの裏にまわり込んできた。

「Fの8だから……フィギュアの8号」

「うん。昨日まで描いてたのが少し大きめだったから、今度はこれぐらいにしようと思って」

「そ~なんですか~。あたしも会長と同じ、フィギュアにすればよかったかな~」

「べつになんでもいいんだよ、キャンバスの形なんて自分の好みで」

「そうですよね~。どの形になに描いてもいいんですもんね~」

 コロッと変わった。

「じゃあ、なに描きましょう?」

「へ?……いや、だから、好きなものを……」

「テーマ決めてもらったほうが、あたし、描きやすいんです」

「テーマ?……なんでもいいんじゃ……」

「え~」

 ふてくされた。

 ―――なんだかめんどくさいな~。

「じゃあ今まで描いてきた作品、ぜんぶ誰かにテーマ決めてもらったの~?」

 などという嫌味をいえる性格ではないぼくは、仕方なく、

「だったら……『新緑』というテーマで―――」

 と、いいかけたら、 

「『出逢い』でいきましょう!」

 と、即打ち消された。 

「会長とこうやって出逢えて、一緒に活動できることを祝して!」

 大きな目をキラキラ輝かす彼女を見たら、

「だったらはじめから自分で決めてよ」

 とは、やはりいえなかった。

 ぼくの頷きを確認すると、彼女は意気揚々と下書きを始めた。ただ怖れていた通り、2Bの鉛筆はちょくちょくとまり、かわりに彼女の口がちょくちょく動いた。

 今後、こんな調子でお互い、いや、自分は集中して絵画制作を行えるのか……?

 そんな怖れを抱きながら、彼女のおしゃべりに相槌を打ち続けた。


     *


「なんだか悪かったね~」

 以前に比べると、断然進みが遅くなっているぼくの絵を、義兄さんは見つめていた。

「え?」

「僕の提案が庸くんの絵の邪魔になってしまったみたいで」

 絵画同好会がスタートして一週間が経とうとしていた金曜日、未来が帰ったあとだった。

「そんなことないよ」

 深刻そうな義兄さんの横顔に向かって、声を強めた。 

 たしかに未来の―――よくいえば陽気さ、悪くいえば無神経さ―――が、絵画制作をはかどらせていないことは事実だった。しかしそれは、決して義兄さんのせいではない。

「僕から同好会、中止にしてくれるよう頼もうか?」

「ううん、大丈夫だよ。そのうちぼくも、今までのペースになってくると思うから」―――ほんとうか?

「だったらいいんだけど……。そうだよね、始まったばかりでやめてもらうなんて、あまりにも彼女に悪いし、可愛そうだし……」

 まあ……ね。

「それに彼女、庸くんと一緒にいるのが嬉しくて仕方なさそうだし……」

「……そうかな~」

「うん。僕にはそう感じたな~、お茶持ってくるたびに」

「……そうかな~」

 ティーカップに残っているハーブティーを、ぼくは一口飲んだ。

「そろそろアイスにしたほうがいいかな?」

 笑顔をつくって義兄さんが訊いてきたので、

「うん、そうだね」

 と同意しようとした途端、

「あっ、そうだ!」

 珍しく出た彼の大声にびっくりして、むせた。

「ほら、庸くんのクラスメイトの彼女……なんていったけ……」

「……だれ?」

「ほら、席が隣同士だっていう」

「……石井?」

「そうそう石井さん! 彼女誘ってみるっていうのはどうかな、同好会に!」

「えっ……?」

「だって石井さんも絵をやってるんでしょ? それにお母さんだって一緒に描いてほしいっていってるんでしょ?」

「うん……」

 ノートのコピーを届けるために由実の家を訪問したこと、そしてそこで知った彼女の家庭事情―――口外するなとは彼女はいわなかった。また口外しようとも思わなかった。だが、義兄さんだけには話していた。

 それは、ぼくが一番信頼する彼に話すことにより、異常な状況に身を置くことになってしまった彼女を助ける手段が、もしかしたら見つかるかもしれない―――そんな淡い期待があったから。

 そういった感情が芽生えたのは、唯一、彼女がぼくのことを怖れず、敬遠しない同級生であり、かつ、二年生にあがって以降、はじめてあんなに長く会話を交わしたクラスメイトだった―――という嬉しさからだと思う。

 でも最大の理由は、自らの秘密を話してくれた彼女に対し、深い親近感を勝手に抱いてしまったから、なのかもしれない。

「石井さん、未来ちゃんにとっては先輩にあたるわけだし、しかも絵の技術もあるんだったら、いい緊張感もたらしてくれるんじゃない? 同好会に」

「うん、まあ……」

「性格だって、未来ちゃんと一緒になって騒ぐようなタイプじゃないんでしょ?」

「うん、それは絶対ない」

「じゃあいいんじゃない!?」

 一緒に描いてほしい。―――その彼女の母親の願いは、あくまで自分の目の届く我が家で、ではないのか? 彼女の中では未だ亡くなってはいないお気に入りの娘の生きる姿を、できる限り目に焼きつけていたい、そんな思いからなのだろうから。

 それに、由実の態度からしても(ほとんどの時間が亜実ではあったが)、母の要望に応えそうな雰囲気は感じられなかった。

 しかしだからといって、100パーセント不可能と決まったわけでもない。万が一ということもある。仮に万が一が叶えば、義兄さんのいう通り、同好会はいい緊張感に包まれ、ぼくの絵画制作も以前のように……。

 自身を鼓舞するように深く頷くと、ぼくはハーブティーを飲み干した。

 やはりそろそろ、アイスがいいと思った。

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