第12話
*
「ねえママ、居海さんすごいのよ~!」
母が入室してきてからの、それが由実の第一声だった。
由実からは想像できないテンションの高い声は、すでに彼女が「亜実」に戻っていた証だった。その瞬時の豹変に目を見開いたものの、
「亜実を殺したのは私なんだから」
ぼくの意識は、この言葉の意味を解きほどく作業に大部分が使われていた。
ティーカップをテーブルにセッティングする母を手伝いながら、彼女は、ぼくも絵を描くことが趣味であること、さらには、数々のコンクールで賞をとっていること、美術関連の雑誌やネットに、多数の作品が掲載された過去を持つことなどを、大はしゃぎの演技でまくしたてた。
母を交えた歓談の時間が、ぼくにとっては窮屈なものになる。そう判断したから、彼女は会話のイニシアティブを端からとったのだろう。
それにしても、彼女がぼくの絵に関する実績をそれほどまでに知っていたとは……。
再度の驚きが、心拍を速めた。
「あらま~!」
「素敵~!」
「ほんとにすごいわ~!」
偽りの見えない感激の相槌を打つたび、由実の母はぼくに眩しそうな視線をよこした。
その都度、ぼくの顔はティーカップに落ちた。恥ずかしさもさることながら、普通とはいえない精神状態と知ったクラスメイトの母と、目を合わせることがどうしてもできなかったから。
「じゃあ、今は美術部の部長さんかしら?」
わくわくしたような顔で、母は身を乗りだした。
「いえ……そうじゃないんですけど……」
「あら、入らなかったの? 美術部」
「いえ、入ったことは入ったんですけど……一年のときにやめまして……」
「あらまあ、どうして?」
母は一層乗りだしてきた。
「ええ、なんといいますか……まあ、その、一身上の都合といいますか……」
「一身上?」
「ママ、居海さんにだっていろいろ考えがあってのことでしょ」
答えに窮しきっているところに、ソフトなフォローが入った。
「え? あ、そうね。そうよね~。私ったら、ごめんなさいね~、はじめてお逢いした方だっていうのに」
そしてオホホホホと、手を口に添えて母は笑った。
少女のようにはしゃいだ声を出してみたり、かといえば上品に笑ってみたり……。精神が疲弊している人の、これが症状……なのか?
「そうよね~、だから亜実ちゃんもはじめ、退院したら美術部へって考えてたんだけど、結局、絵は個人作業ですものね~、それでやめたのよね~。それに、二年生からっていうのも仲間に入りづらいだろうし」
笑顔のまま、母は由実(亜実)に語りかけた。彼女は頷くでも否定するでもなく、穏やかな表情で聞いている。
だが、急に母は笑顔を引っ込めると、
「でもね、ずっとひとりっきりで描いてるっていうのも寂しいでしょ? やっぱり自分の絵、批評してもらったり、一緒に有名作品について話し合ったりしたほうが勉強になるし、もっともっと亜実ちゃんの絵、よくなると思うのよ」
いわれた彼女は少し微笑んだだけで、穏やかな表情を崩さない。
「あ、そうだ!」
母は胸元で大きく手を叩いた。
「居海さんに、
「えっ!?」
ぼくと由実の声がそろった。
穏やかさが消し飛んだ由実の顔は、一瞬、本来の彼女に戻ったように見えた。
「亜実ちゃん、ちょうど今描いてる絵があるんだから、手始めにそれ、アドバイスしてもらいなさいよ~」
「そ、そんな、ご迷惑よ!」
「亜実ちゃんのお部屋が恥ずかしかったら、この応接間でもいいし~」
「恥ずかしいとか恥ずかしくないとかの問題じゃなくて―――」
「ほかにも使ってないお部屋、いくつかあるんですよ。ですから、ふたりで絵を描ける空間は、問題なくご用意できるんです」
ぼくに向かって力説する母は、娘の意見など聞いちゃいない。
「ですから、居海さんさえおよろしければ、ぜひそうさせてくださらないかしら?」
また乗りだしてきた。
「あ、はあ……」
「ママ~! 居海さんだって三年生なのよ。なんやかんやで忙しかったりするんだから~!」
娘は母のブラウスの袖を引っ張った。
が、
「それはそうかもしれないけど……でも、どうかしら~?」
母はあきらめない。
「あ、はあ……まあ、べつに……忙しくは……」
「ほんと~!?」
心底感動したような母は、胸元で、今度は両手を組んだ。白く綺麗な手だった。
「OKしたわけじゃないでしょ、居海さんは!」
由実は反論の調子を強めたが、
「よかった~!」
と、母はやはり聞いちゃいなかった。
「そうそう居海さん、お昼ご飯まだでしょ?」
「え、はい……」
喜び勇んだ母にいきなり話題をシフトされ、思わず正直に答えてしまった。
「だったら一緒に食べていってくださいな~! 私たちもこれからだったんですの~! たいしたものはできませんけど、腕によりをかけさせていただきますわ~!」
これ以上ない嬉しそうな声と笑顔を残し、母はソファーから立ちあがりドアへ向かった。
「でも居海さんの都合聞かないと……ねえ、ママ……」
由実も母のあとを追って立ちあがったが、追いつく前に、無情にも目の前でドアは閉まった。
スモッグをつけた後ろ姿がドア前に静止し、応接間に静寂が戻った。
「家に同級生が訪ねてくることなんてないから、あの人、喜んでる」
ソファーに戻りながらいった由実から、亜実の姿はすっかりなくなっていた。
彼女は元の位置にかけると、
「私に用がある人なんていないし、妹にだって……」
「……」
「無理にいなくてもいいから」
「あ、いや……うん」
しかしそんなことより―――。
あの言葉の意味が知りたくて仕方なかったぼくは、意を決し居住まいを正した。
「あの、さっきの……妹さんを殺したのは私って……あれ、どういう……」
すると彼女は、少し記憶をたどるような表情をしたあと、
「ああ。……べつに、私が妹を手にかけたっていう意味じゃないわ」
抑揚のない口調で答えた。
「……ああ……そう」
「妹は生まれつき躰が弱かった。それはたぶん、一緒に生まれてきた私が、彼女の精力を奪ってしまったから……。だから私が殺したも一緒」
「そんな。考えすぎだよ、それは」
ぼくの意見はどうでもいいというように、彼女は壁にかけられている絵に目を向けた。
「はじめ、絵なんてちっとも興味なかった。でも、亜実が死んでから見よう見まねで始めた」
そして「あの人のためにね」と、視線はそのままに、彼女は顔だけ軽くドアのほうにふった。
「だから亜実のやっていたまねして、完成した日の日付も入れるようにしたの」
飾られている作品の右隅に日付が記されていることは、この部屋に入ってきてそれらを眺めまわしたとき、気づいていた。唯一記されていないのは―――最後の一枚だけだろう。
「普通、こんなことするのかどうか知らない。けど亜実、自分がこの日まで生きたっていう証を残したかったんじゃないかと思う」
その考えにぼくも頷いた。
「それに日付を入れ続けることで、亜実が生きてるって、あの人も信じやすいだろうし」
この考えには、頷いたものか迷った。
「でも描き始めたら、へたでも楽しくなった。描いてるときだけ……自分に戻れたから」
「……」
「亜実を演じるために描いてるのに、自分に戻れるなんて、変な話だけど」
微かな自嘲を、また彼女はこぼした。
「そして、うまくなって亜実を描けば、いずれ絵の中から彼女が出てきて私とかわれるんじゃないかって、よく空想する。そのほうがあの人も喜ぶし……」
「そんなこと!」―――という言葉を飲み込んだ。
彼女の置かれている境遇を知った今、同情的な台詞など、軽々しく吐くことはできなかった。
「どれが石井の描いたもの?」
大げさに作品群を見まわした。
話題を変えたかったのと、「由実はあくまで由実である」―――その現実を、自分なりに伝えたかったがための問いかけだった。
彼女が指した数枚の絵は、ほかのもの(亜実の作品)にまったく引けをとらない、素晴らしいものだった。
「うまくなってなんて、もうすでにすごくうまいじゃない!」
という感想は、
「ちょっと亜実ちゃ~ん、パプリカどこやったかしら~」
ドアの向こうから入り込んできた母の声で阻まれた。
「は~い!」
亜実で答えた彼女は、
「母も落ち着いたから、来週から登校する」
由実に戻って言い残し、部屋を出ていった。
結局、辞退するチャンスを逸した昼食の席で、由実の話題がのぼることはなく、石井家を辞するまでに彼女が戻ってくることも、なかった。
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