第11話


     *


 応接間に通されたぼくは、室内の光景に目を瞠った。

 壁一面、さらにサイドボードや本棚の上いっぱいに、さまざまなサイズの油彩やデッサンが並べられている。加えて床にも、キャンバスの載ったイーゼルが、重なるように数脚立っていた。しかもざっと見ただけでもわかるほど、それらはすべて、感心に値する見事な出来栄えだった。

「これ……」

 作品群を眺めたまま、自然と出た言葉に、

「ほとんど妹のもの。私のもあるけど、そんな多くない」

 背後から答えが返ってきた。

 由実の母はお茶の支度のためか、ぼくをここに招き入れてからすぐに姿を消した。従ってこの部屋には、ぼくと由実の妹―――亜実だけが残った。

 んっ? もうひとり妹がいるの……? 

 じゃあ、三姉妹ということ……?

 だがそれよりも、今さっきの彼女からは想像できない、ガラッと変わったそのそっけない返答と、張りをなくしただるそうな声音―――それに非常な違和感を覚えてふり返った。

 そこにはスモッグ姿の彼女がたしかに立ってはいる。しかし、アップにした髪の下に広がる晴れやかな表情、躰から滲みでる溌剌さ―――“陽”の要素はまったく見あたらなくなっていた。

「身代りだから描いてるの」

 ……なに?

「だからこのスモッグも妹のもの」

 だるそうな声は変わらない。

 ……なにをいってるんだ、彼女。

「座れば」

 優に三人はかけられそうな革張りのソファーを、彼女は光のない目で指した。

「あ、はあ……」

 いう通りにすると、彼女も向かいのソファーに座った。

「どうせ二年のとき一緒だったからとか、席が隣同士だからっていう理由で、担任にいわれてきたんでしょ? とりあえずありがとう」

「えっ……どうしてそんなこと、わかるんです?」

「勘よ」

「勘!? 勘で二年のとき一緒とか、席が隣同士とか……わかったんですか!?」

「え?……」

 ビックリ! で埋めつくされていたであろうぼくの表情を見て、彼女も少し驚いたように尋ねてきた。

「私が本当に妹だと思ってるの?」

「えっ!?」―――違うの!?

「そお……じゃあ、私の演技力も捨てたもんじゃないってことね」

 フッと自嘲するように、ごく微かに彼女は笑った。

「おかげで改めて自信がついたわ。重ね重ねありがとう」

「あ、いや……じゃあ、きみは、もしかして、石井……」

「もしかしなくても、石井由実」

「あ、はあ……そお……なの」

 目の前の彼女からは、「無感情」という形容がぴったりなオーラが滲んでいた。まさしくそれは、普段、隣の席から感じるものと同じ。

 でもどうして、こんなことやってるの?―――訊いてみたい気持ちは大きかったが、口は開けなかった。なぜか尋ねてはいけないことのように思えて……。

 黙り込んでしまったふたりの間を、壁掛け時計の音だけが満たしていた。

「べつにからかってるわけじゃないから」

 沈黙を破ったのは由実のほうだった。

「だいたい、居海くんが今日くるなんて知らなかったし」

「あ、はあ……じゃあ……どうして?」―――訊けた。

「だから、身代り」

「身代り……?」

「妹の。……亜実、二年生にあがる前の春休みに、死んだのよ」

 えっ……!?

「彼女も四子玉に入る予定だったんだけど、入学寸前で入院しちゃって」

 由実の口調は淡々としている。

 ぼくは返す言葉が見つからない。

「あれ」

 彼女が顔を横に向けた。ぼくもその視線の先を追った。

 そこにはイーゼルに立てかけられている、一二号サイズほどの絵。

「亜実の最後の一枚」

 やはり感情の窺えない声だった。

 桜の木々と、その中を歩く花見客を描いた作品―――それは残念ながら、描きかけであることがはっきりわかった。舞うピンクの花弁の躍動感が、未完成の惜しさを一層思わせる。

「明るくて素直な子だった、私と違って。おまけに絵もうまくて」

 またぼくには、返す言葉がない。

「あの人のお気入りだった。だから未だ、亜実が死んだこと信じてないの」

「……あの人?」

「母よ」

「あ、はあ……」

「だから亜実になってるの、あの人の前では」

「……似てたの? 妹さんと」

 ぼくの声はかすれていた。

「一卵性だったから。見わけがつく人なんていなかった。ただ、これだけが違った」

 右手の人差指で、由実は右のこめかみに触れた。米粒大のほくろがそこにはあった。

「このほくろがあるのが亜実で、ないのが私。あの人の前ではずっとつけてる、っていうか油性ペンで塗ってる。唯一の亜実である証だから。家族も親戚もみんな、このほくろで識別してたわ」

「あ……そうなんだ……」

「でも、いちいちすっかり落とすの大変だから、学校でもつけてたけど」

「あ……そうなんだ……」

 二年間同じクラスにいて、ちっとも気がつかなかった。長い髪を、いつも彼女はおろしていたからかもしれない。

「何度も現実を話したわ。亜実は死んだんだって。でも、頷くだけであの人、一向に受け入れない。いい加減怒ると、泣いて床に伏せった」

「……」

「だからしばらく、今のような生活続けようと思って……仕方ないから。いずれ、治ると思って……」

「……」

「亜実の命日から一年が優にすぎて、改めて現実を諭そうとした。だって、このままじゃどう考えたってまずいじゃない。……でも、少しも回復してなかった。あの人はずっとあのときのままだった。……また寝込んだわ。今度は怒らなかったのに」

「……」

「母ひとり娘ひとりの家だし、親戚は近くにいないし……。第一、こんな母の姿、親戚に見せたくなんてないから……。だから学校休んで付き添ってたの。

 ……でもまた私が亜実に戻ったら、ご覧の通り、すっかりよくなったわ」

「……」

「あの人にとって、由実という姉の存在は限りなく希薄なの。ほとんど名前だけの家族。だからあの人の頭の中では、私が学校へいってようがいまいが、なにをしてようがしてまいが、どうでもいい。それゆえ、欠席してたからって、ノート持ってきてくれても、なんの不思議も感じないし、心配もしないのよ」

 膝をそろえ、姿勢よく座った躰を少しも動かすことなく、由実はしゃべった。語り口だけではなく、全身も「無感情」を表していた。

 しかしなぜ、由実はこんなプライベートな秘密をぼくなんかに語る―――?

 ことのなりゆきから、そうせざるを得なくなったといえば、いえる。でもあれだけの演技力があるのだから、ぼくが帰るまで、ずっと妹の亜実になっていることも可能だったはずだ。なのに、騙しおおすことをやめ、ぼくに真実を話したわけ―――。

 それは、家庭内において、自分ではない役を一年以上務めていることからくるストレス、それを誰かに話して発散したい、聞いてもらって散らしたい、そうしなければ精神は遠からず崩壊……。そんな怖れが積っていたからではないか。

 その誰かとして、校内では彼女同様孤立しているぼくは、打ってつけの人間だったのかも……。秘密を他言しようとしても、そんな相手はまずいないのだから。

 だとすれば、彼女のその気持ちはよくわかる。ぼくだってずっと抱えていた自己の秘密を、自力で支えることがつらくなったとき、運よく出逢った義兄あにという理解者に助けを求め、難を逃れたのだから。

「もとはといえば、私がいけないんだけど」

 思考の中に沈んでいたぼくは、はっと目をあげた。

「……どうして?」

「妹が生きていれば、こんなことにはならなかったから」

「それは……石井のせいでもなんでも―――」

「亜実を殺したのは私なんだから」

 えっ!?

 彼女の表情は、やはり「無」。

「亜実ちゃ~ん、ちょっと開けて~。ママ、両手ふさがってるのよ~」

 そのとき、ドアの外からいきなり聞こえてきた母の声によって、

「それって、どういうこと!?」

 という疑問は、口にすることができなかった 。

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