第10話

     【6・秘密】


 午後の白由が丘の街は、普段のにぎわいに輪をかけていた。

 この週末独特のざわめきには、ウィークデ―には感じることの少ない、穏やかさ軽快さが溢れている。そんな空気は、ぼくのこの街に対する好感を一層高める効果を持っていた。ゆえにいつもであれば、規律のない人波に身を任せ、雑貨、家電、書籍など、さまざまな店をひやかし、一週間の学園生活のストレスを解消させる。もちろんそれができるのは、自分の能力のことなど知る由もない人々の間を流れるからであって……。

 しかし足どりは、決して軽い今日ではなかった。

 どういう顔をして逢えば……。

 なぜ自分がきたのか尋ねられたら、うまく答えられるか……。

 単にノートのコピーを渡し、辞してくればいいだけの話なのだが―――ついそんな弱気が顔を覗かせるのは、一度も言葉を交わした経験のないことからくる緊張、というだけではなく、あの自分に向ける怯むことのない視線に、理由なき怯えをどうしても感じていたから……だと思う。

 断ればよかったかな~……。

 今さらながら後悔する自分に嫌気を感じながら、ぼくの足は街の喧騒から徐々に外れていった。


 白由が丘とその隣町の、ちょうど境目あたりにあった由実の家は、新しくはないが、二階建ての結構な広さを持つ一軒家だった。たしかに姉夫婦の店からそう離れてはいなかったが、白由が丘の街中で彼女と顔を合わせたことは、今まで一度もない。

 意を決し―――べつにそんな意気込みでいく必要はないと、頭ではわかっていたのだが―――外塀についているインターホンを押した。

 しばらくして、鉄製の門のすぐ向うにあるドアの中から、「は~い」というくぐもった声。そして、鍵を外す音。

 自然と直立になっていた躰の中で、鼓動がさらに速まるのを感じていた。

「は~い」と今一度答えながら出てきたのは、年配の女性だった。細身の彼女は化粧っ気こそ感じられなかったが、小奇麗な身なりをしていた。

 ―――お母さん……か?

「あ、あの……こ、こちら、い、石井さんのお宅でしょうか」

 てっきり由実が出てくるものだと思っていたぼくは、想定外の事態に戸惑い、どもってしまった。

 だいたい、石井さんのお宅に決まっている。インターホン横の表札に、しっかり『石井』と出ているのを、小さく声に出してまで確認したのだから。

「はい、そうですが」

 不思議そうな顔を向ける彼女に、やはりところどころどもりながら、ぼくは来訪の意を伝えた。

「あらまあ! それはそれは!」 

 途端に驚きと喜びがないまぜになった表情へとかわった彼女は、

「はじめまして、由実の母でございます!」

 丁寧に頭をさげた。

 そして、半開きだったドアをさらに開けると、

「由実ちゃ~ん! 由実ちゃ~ん! お友だちが見えてくださったわよ~!」

 まるで少女がはしゃぐように、家の中へ向かって声をかけた。

 やっぱりお母さんだった―――。

 それにしても、具合が悪いようすなどちっとも感じられないが、もう完治したのか……?

「あらまあ! それはそれは! ありがとうございます~! どうぞ、どうぞ中へ!」

 すぐさまこっちにふり返った母は、門を開けた。

 そこまで感激されるようなことでもないけど……と思いながら、すぐ辞すると心に決めていたぼくは、

「いえ、ここで」遠慮した。

 が、

「いえいえ、そうおっしゃらず、中へどうぞ、どうぞ!」

 有無をいわさぬ語調に、拒否が通じそうもない気配を感じ、

「は……じゃあ……」

 一つ頭をさげて、ぼくは石井家の敷地内へ足を踏み入れた。震えていた両足でも、なんとか自然に移動できた。

「ママ~。お姉ちゃん、今いないわよ~」

 家の中からそう声が返ってきたのはすぐだった。

「えっ……?」

 思わず口を衝いた。

 それは、ふたり暮らしだと聞いていたのに、なぜ? という疑問からではなく、その返事のあとに顔を覗かせたのが―――石井由実、本人だったから。

 お姉ちゃん……今いないわよ?

 ぼくと目が合った由実(?)は、かすかに怪訝さを含んだ会釈をよこした。その眼差しは、完全に見知らぬ人物に向けるものだった。

「どこいっちゃったのかしら?」

「わからないけど……」

「お買い物かなにかかしら?」

「聞いてないけど、私」

「そう……。あ、こちらね、由実ちゃんのクラスのお友だちの……えっと……」

「い、居海です」

 尋ねるような母の視線を受け、改めてぼくは名乗った。

「そう、居海さんがお勉強のノート届けてくださったのよ、由実ちゃんに」

 変わらず嬉しそうに、由実の妹らしき彼女に母は説明した。

「あ、そうなの。……それは、ありがとうございます」

 妹らしき彼女は、怪訝さをすっかり隠すと、ニコッと笑って頭をさげた。

 その晴れやかな表情、声の張り、溌剌とした仕草―――姿形はそっくりに見えても、やはり由実ではなかったか……。

「でも困ったわね~、どこいっちゃったかわからないなんて~」

「いえ、べつにいいんです。では、これ由実さんにお渡しください」

 ちっとも困ったようには見えない母に、コピーの入った封筒を、鞄から出して渡した。

 しかし、母は受けとろうとはせず、

「まあ、すぐ帰ってくるわね。ですから居海さん、うちでお待ちくださいな。ね、ぜひ」

「え? いや、そんな……これ渡してもらえればいいだけですから」

「そういうわけにはいきませんわ。せっかくきてくださったんだし」

「あ、いえ、帰るところ近くなので、そんなことないです」

「でも、せっかくきてくださったお友だち帰しちゃ、あとで私が由実ちゃんに怒られちゃいますから」

「絶対怒られないと思います」

 との台詞を飲み込み、

「あ、いや、でも……」

「いえね、お友だちが訪ねてきてくれるなんてめったにないことなんで、由実ちゃん大喜びすると思うんです」

「あ、はあ……」

 ―――そうだろうか?

 普通のクラスメイトならいざ知らず、ぼくの来訪で喜ぶとはとても思えないけど……。

 と、そんな反論をくり出すことなど、やはりできるはずもなく、ただ、継ぐ辞去のための台詞だけを必死に考えた。

 が、

「ね、ですからぜひ、ゆっくりしていってくださいな!」

 母はぼくの腕を引っ張りそうな勢い。

「でもママ、あまり強引にお引きとどめしても悪いんじゃ……」

 妹が助け船を出してくれた。

亜実あみちゃんこそ、いつも学校から帰ってくるとお部屋で絵ばっかりなんですから、たまには同年代のお友だちとゆっくりお話させてもらったほうがいいわよ~。そうよ、そうそう!」

「でも……」

「ねえ」と、なぜか母はぼくにふったので、どう答えていいかわからず、とりあえず「はあ」とだけ返した。

「亜実」というのが、由実の妹の名前だということがここでわかった。そしておそらく、絵を描くのが趣味のようだということも。その証拠に、彼女はところどころ絵具で汚れているスモッグを着ていた。今も絵を描いていた最中だったのかもしれない。長そうな髪も作業しやすいようにか、後ろで一つにまとめている。由実には見たことのないヘアースタイルだ。

 強引な母に背中を本当に押され、ぼくは石井宅の中へお邪魔することとなってしまった。

 これ以上の拒否はかえって失礼になってしまいそう。―――そんな思いが生まれていたから。

 しかし、これが本当にあの由実の母親なのか?―――未来の親、というのならわかる気はするが ……。

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