第9話


     *


「カイチョ~ッ!」

「うわっ!」

 教室のドアを出た途端、ひときわ元気な声とぶつかったので、驚いて鞄を落としそうになった。

「お疲れさまで~す!」

 ペコンと頭をさげたのは、未来だった。

「あ、ああ……」

「さ、まいりましょ~」

 そういった彼女の手には、学生鞄と、ところどころ絵の具が付着したスケッチ箱が提げられていた。そして肩には、中身の入った一〇号サイズほどのキャンバスバッグがかけられている。

「あ、あの未来ちゃん……じ、実は、同好会のことなんだけど……」

 前触れもなくいきなり登場され、謝罪のための心の準備もできていなかったぼくの声は、うわずった。

「はい。でもその前に発足式のランチ。四子玉川駅近くに見つけときました、おしゃれな食べ放題の店。ドリンクもスウィーツも飲み放題食べ放題で、九八〇円。税込でですよ~」

「九八〇円、税込……」

「はい!」

「それは安いね~!」―――なんて感嘆している場合じゃないだろう、自分!

「はい! ですので早くいきましょ~。税込九八〇円、ランチタイムのときだけなんですよ~」

 肩のキャンバスバッグを少しずりあげると、彼女はすたすた歩きだした。

「あ、あの~、未来ちゃん」

「はい」

 立ちどまって見せた彼女の横顔には、喜色がありありと浮かんでいる。

「あの、実は、今日……」

「はい?」

「……だめになっちゃって……」

 勇気をふりしぼっていった。

「ええ~っ!」

 喜色は一瞬にして消え去り、小さな躰が力いっぱいぼくに向いた。

「ほんとにごめんっ! どうしても作品が完成しなくって……」

「ええ~。今日って約束したのに~」

「ほんとに申し訳ない!」

 深々と頭をさげた。

「あたし、死ぬほど楽しみにしてたのに~」

「誠に申し訳ない!」

 背骨が折れるほど頭をさげた。

 間―――。

 ゆっくり顔をあげると、見るからに肩を落とした彼女は、小さな背で廊下の壁にもたれていた。首はきっちり九〇度の角度をもって垂れている。

「だったらはじめからいってくれればよかったじゃないですか……」

「……え?」

 つぶやくような声に、つぶやくような声で聞き返した。

「同好会なんて乗り気じゃなかったんだって……あたしのことなんて嫌だったんだって……いってくれればよかったのに~!」

 つぶやき声から叫び声にいきなりシフトチェンジされ、びっくりしたぼくは、今度は本当に鞄を落としてしまった。

 廊下をいく生徒ばかりではなく、教室に残っていた者たちも出てきて、好奇の目をぼくたちにそそいだ。

 しかしそんなことはお構いなしに、しゃがみ込んだ彼女は床に向かって訴える。

「あたしの頑張りってなんだったんだろ~! 努力ってなんなんだろ~! 先輩にOKもらったときは、神さまいるって思ったけど、そんなものやっぱりいなかったんだ~!」

「あ、あの、あの……」

 背後でギャラリーたちの囁き合いが聞こえる中、彼女は続ける。

「まだ一六歳になったばかりなのに、あたしの人生、もうピリオド~! 生きてる意味なんてもうな~い!」

 この台詞、どっかで聞いたような……と考える間も与えず、マシンガン独白は続く。

「グレる人の気持ちが、やっぱりわかった気がする~! だからあたしもやっぱりグレるかも~! でもそれだけじゃ、やっぱり気持ち治まりそうもないから、やっぱり犯罪に手を染めるかも~! そうなったらあたしの人生、やっぱり完全に終わりだ~! これって誰のせい!? なんのせい!?」

 ギャラリーの囁きが遠慮をなくしてきた。

「そ、そんな、ぼく、同好会乗り気じゃないわけじゃないし、未来ちゃんのこと、そんなふうに思ってなんてないし……」

 それでも「とり急ぎ、パパ、ママ、先立つ不孝を―――」と、意味不明な訴えを続けようとする彼女を制するため、

「だからあしたっ! 明日絶対発足しますっ! 明日からぼくのアトリエで!」

 声を張った。

 しゃがんだ小さな背中の震えが、ピタッとやんだ。

 ぼくはまわりのギャラリーに目を向けた。すると彼らは何事もなかったように、そそくさと散っていった。

「なので、一日だけ延期してもらえる……かな?」

 彼女に視線を戻し、恐る恐る尋ねた。

「……アトリエ?」

 小さな背中が答えた。

「へ?」

「ぼくの、アトリエ?」

「うん。同好会、よければ、ぼくのアトリエでやったら、と思って……。活動場所、決めてなかったでしょ?」

「先輩、アトリエ持ってるんですか!?」

 勢いよく立ちあがった彼女の顔は、驚いたような喜んだような……とにかく、嘆き悲しみとはほど遠いものになっていた。

「え? うん、まあ……」

「それって、お家の先輩の部屋とはべつに?」

「え? うん、まあ……」

「すっご~い! さすが限りなく神に近いアーティストの生活環境って、ちっが~う!」

 そんなふうにいわれると、ただの古びた家の二階部屋だってこと、いい難くなっちゃうじゃない。

 でも、彼女の機嫌を回復させるために咄嗟に出したそのプランが(義兄さんの案だが)功を奏したとみるや否や、

「美術部があるのに、認められてない同好会に学校は部屋なんか貸してくれないでしょう。だから―――」

 義兄さんの提案をすべてそのまま、自分の考えのようにしていった。アトリエは昔の祖父母の家の二階部分で、一階が姉夫婦の店であることも。

「―――わかりました。先輩のお義兄さんから両親に話してもらう必要はありません。べつに悪いことするわけじゃないし、親はあたしのこと信じてますから」

「あ、そう。だったらよかった」

「それに、先輩となにかあっても、あたし、構いませんし」

「……え?」

 なにかって、なに?

「じゃあ、活動日、決めちゃいましょ~!」

 機嫌はすっかり戻っていた。よかった~。

「え、うん。……まあ明日はべつにして、日曜日はまず店が混む日で、もしかするとぼく、手伝わされるかもしれないから……」

 実際、今まで店を手伝わされたことはない。手伝わされそうになったことはあったが、その都度、義兄さんがフォローにまわってくれ、事無きを得た。

「あ~っ! このお店知ってます~!」

 渡した『創作・静』の名刺を見ながら、未来は驚いたようにいった。

「入ったことありませんけど、隠れ家的なお店で有名ですよね!」

「あ、そう?」

 まあ、義兄さんのおかげでね。

「ここだったんですか~、先輩のアトリエ~! 知らなかった~!」

「あ、そう……」

 そりゃそうでしょ。誰にもいったことないんだから。

「……で、月曜日は定休日で、姉夫婦もいないから……」

 というと、すかさず、

「じゃあ、火、水、金、土にしましょ!」

 彼女は晴れやかな顔をあげた。

「週の半分ですよね? だったら日、月を省いたあと、火庸日から土曜日までだと五日間になっちゃうから、その中からちょうど真ん中の木曜日を抜いて……いかかですか?」

「え……ああ……」

「じゃあ、決定!」

「あ、うん……」

 また強引に決められてしまった。

白由しらゆうが丘はよく買い物にいくんです~」

「あ……へ~……」

「あっ!」

「へっ!?」

 再び名刺に落としていた視線をつっとあげた彼女は、

「休憩中、街を散策するのもいいですね~!」

 意気揚々としていった。

「あ……はあ……ハハハハ……」

 引きつった笑いを返すのが精いっぱいだった。―――が、事態はなんとか収束できたようだ。

 それにしてもこの子、こんな絵画道具持って、どこで活動するつもりだったんだろ~?

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