第7話
【4・義兄(あに)】
「ここでやればいいじゃない」
部屋の隅に置かれていた丸椅子を引き寄せると、義兄さんはいった。
彼が淹れてきてくれたハーブティーを飲みながら、今日の屋上での出来事を話し終えたあとだった。
このほのかに甘みを持つ爽やかな風味は、油絵具の香りと同様、ぼくをリラックスさせてくれる。
「え?」
「美術部があるのに、認められていない同好会に学校は部屋なんか貸してくれないでしょう。校外でやるっていっても、区の施設なんか借りたりしたらお金もかかっちゃうし、その都度道具運ぶのも大変だし」
「でも……」
「下にはいつも僕たちがいるんだから、彼女の親御さんにだって心配はかけなくて済むんじゃないかな」
「それはそうだけど……」
「なんだったら、僕のほうから親御さんに話すよ」
「そうしてもらえると助かるけど……そういう必要になったら」
「じゃあ、いいじゃない。もちろん勉強もお互い大事にしなくちゃいけないから、週の半分でやるってことにしたら」
まあ、勉強に関してはどうでもいいんだけど……。
「でもそれより、義兄さんたちに迷惑がかかるんじゃ……」
「どう迷惑がかかるっていうの」
笑いながら、彼はかけていたエプロンで手を拭った。
「だいたいこのアトリエは庸くんのものじゃないか。誰に気兼ねする必要もないんだよ」
「まあ……」
この家は以前、祖父母の店舗兼、住宅だった。その二階部分を、ぼくは絵画制作の場として使っている。
祖父の死をきっかけとして、夫婦で営んでいた洋食屋を閉めた祖母に、ひとりで生活させておくのは心配だという母が、
しかし、姉、弟と、
「それもそ~ね~」
と、気軽に賛成してくれた祖母とは逆に、
「食べ物屋で油絵の匂いなんてしたら、お客なんてこなくなっちゃうじゃないの~」
と、姉のほうは駄々をこねた。
それでも、しっかり換気をすれば大丈夫という義兄さんの説得で、しぶしぶ姉も了承した。現に、油絵の匂いが階下の店に届いている気配はない。
結局、店だけをここに置き、姉夫婦はもともと義兄さんが住んでいたマンションに暮らしている。
ふたりで生活しても有り余るほどのスペースを持つそのマンションは、「高級」という冠がついて、まったくおかしくはないものだった。
「べつに僕が買ったものじゃなくて、親名義なんだ。情けないけど」
はにかんだような笑みで、いつか義兄さんは話してくれた。
彼の実家が相当裕福な家庭ということは、姉からも聞いていた。だから彼の穏やかな性格や大らかな考え方は、そんな家庭環境で生まれ育ったゆえのものなのだろう。ぼくはそう推測している。
しかし、あんな姉とこんな好人物が、どうしてくっついたのだろうか?―――ぼくの約一八年になる人生の中での、七不思議の一つだ。
ただ、強引な性格の姉が、強引に義兄さんを手中に収めたのであろうことは、想像に難くない。
自分の店を開く資金集めとして、姉は調理専門学校を出てから、あるクッキングスクールで講師助手を務めていた。そのとき、生徒として習いにきていたのが義兄さんだった。
推理作家志望だった(現在でもちょこちょこ書いているらしい)義兄さんは、ひとりでも自炊して生きていけるよう、通っていたという。そこで不幸にも、魔の手にかかってしまった。
その魔の手がどんな策略を用いたのか、幾度となく彼に訊いてみた。が、そのたびにうつむくだけで、未だ教えてくれない。
よっぽど怖ろしい方法だったのか……。
でも義兄さんが家族の一員になってくれて、なにかとガードやフォローやアドバイスをしてくれたため、今まで姉に虐げられる一方だったぼくの境遇は、安泰の一途をたどった。そして当の姉こそ、祖父母の洋食屋にかわり開店させた、創作料理&喫茶『創作・
また、猫野神社のすぐ隣、路地奥の暗く目立たない場所にあった店を、逆に『隠れ家的雰囲気の店』として評判にさせたのも、義兄さんのネットを駆使した宣伝のおかげだった。
実際、店の料理は美味しく、夕方をすぎたころになるとお腹がすくので、こっちで食べていきたい気持ちも起こるのだが、そうすると、
「料金払いなさいよ。じゃなければ皿洗いしていきなさい」
と姉にいわれるので、家でとることにしている。
この姉のせこさには、腹が立つよりも、悲しみがわいてくる。―――まあ、毎晩のように家で祖母がつくってくれる料理も、店のメニューに引けをとらないので、一向惜しくはないが。
母は現役のキャリアウーマン、父は海外赴任中のサラリーマン、という、共働き夫婦の我が家なので、同居が始まってからは祖母が家事のほとんどをこなしてくれる。祖母の実の娘である母は、もしかすると、それを期待して呼んだのかもしれない。祖母のほうも店をやめたとはいえ、心身ともまだまだ元気なので、なにかと立ち働いていたほうがいいという。そういう点では、うちはうまくいっている家庭といって差し支えないだろう。
それに母は、油絵道具の匂いにどうも馴染めなかったようで、祖母の家の半分をぼくのアトリエにする案が出ると、大いに喜んだ。
姉が義兄さんの提案にしぶしぶながら頷いたのは、裏に母の猛プッシュがあったから―――それが本当のところなのではないか? 義兄さんの説得だけで簡単に頷くような、姉はそんな物わかりのいい女では決してないから。
*
「あんまり、筆……進んでないみたいだね」
義兄さんの目は描きかけのキャンバスに向いていた。
「……うん」
「また、行方不明になった人が?」
「ううん。新学期早々に伝達があった人以来は、まだべつに」
「そう……」
安堵したような、かといってそうでもないような複雑な表情を、彼は床に落とした。
でもすぐに、
「あまり気にしちゃだめだよ。庸くんにはまったく関係のないことなんだから」
あえてつくったような晴れやかな顔を、ぼくに向けた。
「うん……」
校内で起こっている事件は、学校からの知らせによって、母、祖母、姉にまで伝わっていた。しかし、その事件の犯人としてぼくが疑われていることや、ぼくの非現実的な能力については、家族内では義兄さんしか知らない。それは、ぼく自らが話したから。
気にしないよう努めてはいた。が、自分ひとりの中に抑え込んでいるのは、やはりつらかった。
義兄さんなら信じてくれる。そう思ったのと、
だいたいそんなショッキングな話を母や祖母に告げれば、仕事が手につかなくなるほど心配されるはずだ。そして最悪、うまくいっている現在の家庭内は、崩壊を見ることになるかも……。それはなんとしても避けたかった。
思った通り、義兄さんはぼくの話すすべてを疑うことなく、また、真剣に向き合ってもくれている。
非現実的な現象を、現実的な観点からしっかり考察できる感性は、推理作家志望という体質からきているのか……とも考える。
「サトル~、ゴボウとナガネギとシラタキ、なくなった~!」
「はいは~い」
と、義兄さんは襖の外へ返しておき、
「同好会の件は、静ちゃんにも僕から話しておくから」
「うん」
「こんなことは、すぐ終わるさ」
笑顔とともにいい残した彼は、そそくさと店へおりていった。
ぬるくなってしまったハーブティーを飲みながら、窓外へ目をやる。
陽はすっかり沈み、義兄さんが点けた部屋の明かりが、窓のすぐ近くに迫っている木々の葉をほんのり照らしている。
やっと集中できそうな気がしてきて、キャンバスに向かい筆をとった。
その刹那、
“グ~”
お腹が鳴った。
―――今度は空腹が制作を邪魔しそうだ。
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