第6話


     *


“ガラ~ン、ガラ~ン、ガラ~ン”

 不意に届いてきた薄い鈴の音で、現実に戻された。

 薄暮に沈んだ部屋の中は、蛍光灯を点けなければキャンバスに向かうことができないほどになっていた。

 躰はしかし、スイッチには動かず、かわりに、鈴の音とともに入り込んできた春風が、窓外の木々に向けていた視界をぼやかした。

 回想の世界へと、ぼくはまた引き戻された。


     *


 しかし―――その決心を覆さなければならない事態が、高校へ入ってから起こった。美術部へ入部し、すぐのことだった。

 交流の意味も込めて、先輩と新入部員がペアになり、それぞれ相手の肖像画を描くという課題が出された。

 悩んだあげく、ぼくは自分に備わっている怖ろしい能力から、この課題を辞退したい旨を顧問の先生に訴えた。

 だが、

「そんなの単に偶然が重なっただけだ。気にする必要はない」

 案の定、顧問は一笑にふした。

 それでも思案に暮れるぼくに、

「だったら偶然だということを証明するために、俺を描いてみろ。なんせ俺はここ二〇年、風邪一つ、腹痛はらいた一つ起こしたことのない男だ」

 いかにも美術教師らしく長い口ひげを蓄えた彼は、豪快に笑った。

 辞退不可能と観念したぼくは、仕方なく肖像画のモデルを顧問とし、描き始めた。

 一見、屈強な山男にも見えるその容貌から、彼だったらもしかすると……といった淡い希望も、そこにはわいていたから。

 なぜ居海の相手が顧問なのか? という部内の疑問に、隠し事が嫌いな性格らしい口ひげ先生は、ぼくの秘密を、楽しげに、洗いざらいみんなに話してしまった。

 彼に悪意などないことは、その表情から受けとれたし、逆に空想力豊かな生徒だと、ぼくを気に入ってくれた感じもした。しかし、誰にも知られまいとしていたぼくは、頭を抱え込みたい気分だった。

 部員たちは当然、そんな話を信じている顔ではなかった。信じていないだけでなく、「おかしなやつが入ってきちゃったな~」

「単なる目立ちたがり屋なんじゃないか」

「クラブの輪、乱さないでくれればいいけど」

 といった負の感情も、そこからは大いに読みとれた。怖れていたことだった。

 そしてそれ以上に怖れていたことは―――やはり起こってしまった。

 肖像画が完成した翌日、突如躰の異変を訴えた口ひげ先生は、自宅から救急車で病院に搬送された直後、死亡した。

 学校側からの後日の発表によると、顧問の死因は、肺炎と胃腸炎を併発し、同時に心筋梗塞も加わったからのようだった。風邪の症状も見られなかった三〇代の若い盛りの男がなぜ……と、担当した医師は盛んに首をひねったという。

 このとき救急車を呼んだのが、ぼくのクラスの担任、宇津うつ先生だったとの噂が出まわった。 

 ただ、口ひげ先生と宇津先生が仲睦まじくしているところを、多数の生徒が校内外で目撃していることから、彼らが恋人同士であったのはほぼ間違いない事実のようだ。

 それに、写真部顧問で、自らカメラを趣味としているらしい彼女だ。芸術を好むという点で、口ひげ先生と気が合ったであろうことは、難なく想像がつく。


 一方、美術部員のぼくに対する視線は、途端に不審感を濃くした。

 それでも、

「今度は自分を描いてみろ」

 ひとりの男子先輩がいってきた。

 顧問の件はやはり単なる偶然だと思ったのか、もしくは肝の座っているところをみんなに披露しようとしたかったのか―――。

 真意は定かでなかったが、三年生部員の命令に拒否できる余地を見つけることは、どうしてもできなかった。


 休日、写生にいくとでかけて、そのまま行方不明になってしまったその三年生の先輩は、一週間後、学校の近くを流れる玉川のずっと下流で、水死体となって発見された。

 解剖の結果、死亡推定日時は家を出た日の夕方で、学校の最寄り駅である四子玉川駅近辺の河原で彼の写生道具が見つかったことから、その場所で足を滑らせ川に流された、という結論に達した。

 しかし、その日の玉川の流れは穏やかで、水量もいたって少なかったという情報、そして、事故現場も浅瀬が続き、足を滑らせても流されるようなところではなかったことから、事故の原因は大きな謎を残すこととなった。

 ただ一つはっきりしていたのは、彼が行方不明、いわゆる死亡したと思われる日の前日―――ぼくは彼の肖像画を完成させていたということだ。


 部室内の空気は一気に変わった。

 こっちから会話を持ちかけると、部員の誰しもがぎこちない笑顔で応対し、返答も妙に言葉を選んだり、どもったり、中には震える者もいた。向うから話しかけてくることはまずなくなり、どうしても会話の必要が生じたときは、まるでぼくが厳しい上司ででもあるかのごとく、ご機嫌を伺うようなへりくだった態度でやってくる。偶然目が合っても、驚いたように向うからそらす。

 みんながぼくの不思議な力を認め、同時に気味悪がり、怖れ始めた証拠だった。

 自ずとクラブ内で、ぼくは孤立していった。

 当然そんな状況で部活動を行っても楽しいはずはないし、ぼくの在籍はほかの部員たちにとっても迷惑なはずだ。

 退部の決意を固めるのに、たいして悩むことはなかった。


 学園という狭い世界で、ぼくの評判が隅々までゆき渡るのに、長い時間は必要なかった。

 その結果、二年のときから起こり始めた連続失踪事件は、居海の仕業では?―――そんな疑いがいつしか噴出し、そしてそれに異議を差し挟む者もいなかった。

 美術部員とまったく同じ態度になったぼくのクラスのみならず、全校生徒が、

『いずれの失踪者も、どこかで死んでいる』

 と、考えているはずだ。 

 水死した先輩のを最後に、もちろんぼくは肖像画を一切描いてはいない。ゆえに、どういう理由で失踪者が生まれているのか知るはずもないし、もし失踪が自発的なものではなく、なにかの外的な力によるものだとしたならば、ぼく自身が消える可能性もあるわけだ。

 しかし、消されることにさして怖れは感じていなかった。なぜなら、こんな境遇に置かれてしまって、友人ひとりできず、まわりからは畏怖の目、奇異の目にさらされる日々が、楽しいはずなんてないから。

 だから生きていたって……。

 心残りがあるとすれば、大好きな絵を描けなくなること……ぐらい。


「庸くん、いいかい?」

 襖の外から、義兄にいさんの柔らかな声がした。

 それによってぼくの回想は、今度こそ終了した。

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