第4話

     【3・能力】


 筆がとまった。―――今日、何度目のことか。

 イーゼルに立てかけられた目の前の風景画には、なんの変化も見られない。

 気分転換と自分にいい聞かせ、窓際に寄る。―――これも何度目か。

 鼻腔内を占拠していた油絵具や洗浄液の匂いを、外気と入れ替える。

 すでに室内にも充分しみ込んでいる油絵制作にはいたしかたないその匂いは、決して嫌なものではない。というよりも、自分にとっては落ち着きをもたらし、なくてはならない香りといってもよかった。

 しかし今日に限っては、なぜか春の新鮮な空気が恋しかった。

 窓外に広がる常緑樹を照らす夕陽は、明日も晴れそうな気配を残し、黄昏時を知らせる役目をそろそろ終えようとしている。 

“ガラン―――ガラン―――ガラン” 

 鈴の音が、その木々の向うから二階のこの部屋に小さく届いてきた。

 隣接する猫野ねこの神社の鈴の音。

 今日一日の無事、もしくは明日一日の幸福を願いにきた参拝者か……。

 幾層も重なる緑で、その光景は覗けない。

 一週間で仕上げなくては、というあせりがあるにもかかわらず、描画の手が重いのは、今日屋上で聞いた未来の言葉が原因だった。

『あんな事件、絶対単なる偶然ですよ』

『……先輩のせいなんかじゃありませんよ』

『そんなこと起こせる人なんていません!』

 ぼくの持つ特異な能力が引き起こした、さまざまな事件―――。それをその言葉が記憶の箱から引きずりだした。そしてその箱のふたを開くと、決まってはじめに出てくるのが、石井由実ちゃんの、あのときの……少し怒ったような顔。


     *


 幼いときから絵を描くことが好きだったぼくは、幼稚園にあがったころには、自分でいうのもなんだが、大人たちが驚くほどの技量を持っていたらしい。先生たちには描くたびに感心され、親戚や近所の人たちからも、「ほんとに庸ちゃんが描いたの!?」などとさんざんびっくりされたり、誉めそやされたりした記憶があるから。

 ただぼく自身は、描くのが楽しかっただけで、それほど自分がうまいとは感じていなかったように思う。だが実際、ことあるごとに園内に貼りだされたり、町内会の広報ポスターになったり、区が主催するコンクールで、幼稚園部門の優秀賞をもらったりしていたので、大人たちのいうことは本当だったのだろう。

 あれはお絵描きの時間だったはず―――。

 描くスピードも早かったぼくは、早々に一枚目を仕上げ、まだたっぷり残っている時間を二枚目にあてた。

 お絵描きの時間といっても一応授業ではあるから、描く題材は指定されていたようで、一枚目のテーマはおそらく『身のまわりの道具を描く』というようなものだったのではないか。現在も自室の押し入れにつめ込まれているそのときの絵を眺めると、そう推測できる。

 なので二枚目はどんなものを描けばいいか、ぼくは先生に訊いたはずだ。

「なんでもいいわよ。自由に描いてごらんなさい」

 年長さんのときの担任、桜井先生はそういってくれたと思う。

 だから目の前の席に座っていた由実ちゃんに、

「じゃあ、イシイのかお、かいてやるよ」

 なんとか照れ臭さを隠すため、偉そうにそういった。―――その時点からのことは、遠い昔のエピソードであっても、昨日のことのようにはっきりと覚えている。

 ぼくと違って、たいしてお絵描きが好きではなさそうだった彼女は、適当な感じで一枚仕上げると、手持無沙汰に横の友だちを覗き込んだりしていた。それゆえ、声をかけられたのだ。

 いきなりそんなことをいわれた由実ちゃんは、はじめ驚いたような顔を見せたが、ぼくの絵のうまさを知っていたからか、

「べつに、いいけど」

 嫌がるふうもなく、園内一可愛いおすまし顔をぼくに向けた。

 自分で申し込んでおいて、いざそうされたら途端にどぎまぎしてしまった。

 が、内心の動揺を見透かされないよう、ぼくは精一杯、画用紙にクレパスを走らせた。 

 しかし、次々と自分の絵を描き終えたまわりが、ぼくたちを見て、

「イカイはイシイが好きなんだ~」

「ふたりはケッコンするんだ~」

「アッチ~、アッチ~」

 と、はやし立て始めたので、恥ずかしくなったのか、彼女のおすまし顔は徐々に、むっつり顔に変化していった。

 ぼくのほうも恥ずかしさはあったが、せっかく手に入れたチャンスをそんな雑音で無駄にしたくはないという思いが勝り、クレパスを動かす手はとまらなかった。それに、できあがった絵を、こそっと彼女にプレゼントしてやろうという思惑があったから。

 モデルの表情が変わってしまい困ったが、ちょうどお絵描きの時間が終わると同時に、なんとか描きあげた。

 陰影もしっかり描き込まれ、仲のいい子たちからは、

「わ~、そっくり~」

「やっぱヨウちゃん、え、うま~い」

「てんさいだよ~」

 などの声が贈られた。

 しかし、恥ずかしさが頂点に達していたらしい彼女は、そんな称賛を気にすることなく、プイとそっぽを向いて、園庭へと駆けていってしまった。

 画用紙にはぼくに向けられたおすまし顔があるはずだったが、結果は、ちょっと怒ったようなものになっていた。

 でも、さいごまでモデルをしてくれたおれいはいわなくちゃ……。

 そう思いながら、怒った顔の右下に、鉛筆で小さく、自分の名前を書いた。自分の描いた作品にはそうするものだと、先生にいわれていたから。

 その日、みんなそろっての帰りの挨拶が終わっても、彼女はぼくと口を利くどころか、目を合わすことさえもしなかった。

 なんだよ、あれぐらいのことで。

 と、こっちも少しムッとした。

 でも―――、

 あれはテレてるんだな。ということは、ユミちゃんもぼくのこと、スキなのかも……。

 そう勝手に思い直し、明日みんなに気づかれないようにそっとお礼をいって、絵を渡そう。そう考えた。 

 しかし―――その計画が叶うことはなかった。

 自転車で迎えにきた母親とともに帰っていった彼女は、夕飯の買い物に寄った道中で交通事故に遭い、まだ若干五歳で帰らぬ人となった。

 両親が共働きだったため、祖父母のもとに帰っていたぼくは、迎えにきた母からその悲劇を知った。

「由実ちゃん、交通事故で死んじゃったんですって、今日」

 さっき携帯に幼稚園から連絡がきたといった母は、オブラートに包むことなく事実を告げた。その直接的ないい方は、かえって真実味を遠のかせた。

 でも翌日、園長先生から園児みんなに、その件が詳細に伝えられた。母よりよっぽどうまく、ショックを与えないような話し方だった。

 担任の桜井先生は、

「天国へいく由実ちゃんに、私たちのことを忘れないでっていう気持ちで、贈り物をしましょう」

 と、小さな段ボール箱を用意した。 

 手紙をはじめ、折り紙や演劇会で使った衣装、運動会のときの“たすき”、遠足の写真……いろいろなものがつめられた。そしてその中に、ぼくの描いた絵―――ちょっと怒ったような顔の由実ちゃんも、納められた。

 彼女にぼくの描いた似顔絵を贈ることはできたと思う。だが、ぼくの初恋の結末は、永遠にわからずじまいになってしまった 。

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