第3話
【2・未来】
「あの~すいません。もしかして居海先輩ですか?」
背中にその声を聞いたのは、昼休みの屋上でだった。
ゴールデンウィーク合間の金曜日。空は雲一つなく、真っ青に晴れ渡っていた。
「へ?」
校内で呼びかけられることなどまずないので、多少の驚きをもってふり返った。
「あの~居海先輩ですか?」
くり返した彼女の上半身は、軽やかに上下している。
「あ……はあ……」
「あ~、やっと見つけた~」
安堵したように大きく息を吐いた彼女の胸元には、赤いリボンが結ばれていた。その色は本校の一年生であることを示す。
「あの……なにか?」
「捜しまわっちゃいましたよ~」
まだ完全に息が整わない彼女に、
「あ……すいません」
なんだかよくわからなかったが、思わず謝ってしまった。
「先輩の教室いったら、たぶん人の少ないところにいるんじゃないかって、いろいろな場所教えてもらったんですけど、なかなか見つからなくて……」
「はあ……」
「こんな天気のいい日、日焼けしちゃうだろうから、まさか屋上なんかにはいないだろ~って思ったんですけど……」
「はあ……」
「いた」
「はあ……」
「でも、気持ちいいですね~、ここ」
ぼくの横にきて、張りめぐらされた金網越しに彼女は校庭を見おろした。
屋上にはほかにも、離れたところに数人の生徒がいた。だが、ぼくと同じクラスの者はおらず、みなほかのクラスか別学年の生徒だった。そんな彼らの視線が、こちらにそそがれた気配を感じた。ぼくの噂は全校規模になっているので、誰かと一緒にいる姿が珍しく映ったのだろう。
「あの……ところで……」
「あ、そうだった。失礼しました。あたし一年F組八番。
小柄な躰をぼくに向けると、その一年生はぺこりと頭をさげた。肩までも届かないショートヘアーがサラッと揺れた。
「はあ……」
「でも先輩、想像通りでよかった」
陽光の眩しさからか、大きな目を彼女は少し細めた。
「想像通り?」
「はい。想像通り、優しそうな人でよかったです」
「あ……はあ……ありがとう……」
なんだかよくわからなかったが、とりあえずお礼を述べた。
「レッスンしてほしいんです」
「……へ?」
「ぜひお願いします!」
華奢な上半身が折れた。
「あの、レッスンて……なんの?」
「もちろん、絵の」
再びぼくに向いた眼は、今度は細められることなく、真摯な色をたたえていた。
「絵?」
「はい!」
中学のはじめから油彩を始めたという彼女は、
「東京中高協会美術展で、あたし先輩の絵観て、これ凄い! ただ者の描いた絵じゃないって思ったんです!」
「……」
「二年連続で観にいきました! 両方とも、ほかの作品なんか到底先輩の足もとにも及んでいませんでした! レベルもクオリティーも、ほかのと先輩のは雲泥の差! はっきりいって先輩、天才……いえ、限りなく神に近いアーティストだと思いました!」
熱のこもった彼女の言葉は、照れをもよおさせるよりも、
「もしかしてバカにしてる?」
と、勘繰ってしまうようなものだった。
が、ぼくに向けた表情は、極めて真剣。
彼女がいう通り、東京で一番規模の大きいその中高生美術展に、去年、一昨年と、ぼくは出品した。そして両年とも、そこそこの賞をもらった。しかし、彼女がいうような天才的な作品でも、神に近い人間(そんな人がこの世にいるのか?)が描くような絵でも、絶対にない。どちらかというと、賞をもらう自信などなかった作品だ。
「で、先輩に憧れてあたし、この高校にきたんです! 美術部に入って、先輩のご指導を仰ごうと思って! そして昨日、はじめて美術部の活動に参加したんです!」
「はあ……」
そうか~、もう新入部員が入ってくる時期だったか~……と、青空に目を向け感慨にふける暇も与えられず、
「そしたら先輩、一年でクラブやめちゃったっていうじゃないですか~!」
責めるような言葉が突き刺さってきた。
反射的にぼくは、「すいません」と、また謝りそうになった。が、辛うじて耐えた。
「どうりで去年、ここの文化祭きたとき、先輩の絵ないと思ったんですよ~」
「はあ……」
美術部員としては出していなかったが、個人出展作として、ぼくの絵は自分の教室に展示されていた。だから彼女は気がつかなかったのだろう。
「でも美術展に出してたってことは、絵描くの、やめてはいないってことですよね?」
「ええ……まあ……」
「そうですよね~。そうだとは思ってたんです。で、そんな先輩のいないクラブにいてもまったく意味ないから、すぐやめてきたんです」
「入部して……すぐ退部したの?」
「はい! だから個人的にレッスンしてもらいたくて!」
彼女は胸を張って、ビシッと“気をつけ”の姿勢をとった。
「レッスンなんて、そんな……ぼくにはできないよ」
「どうしてですか?」
「どうしてって……そんなこと、やったことないし……」
「あたしがはじめてでいいじゃないですか」
「いや、そんなこといわれても……。
だいたいぼくも、誰に習ったってわけでもないし……教え方なんてわからないし……。
やっぱり美術部で活動したほうがいいんじゃないかな?」
「先輩、あたしの話聞いてくれてました?」
あきれ顔で彼女は続けた。
「先輩のいないクラブなんて、あたしにとっちゃ、ちっとも意味がないんです」
「いや、それは聞いたけど……」
「先輩のいない美術部なんて、ただのお絵描き好きのつまらない集団にすぎません。その証拠に、美術展、この学校からは先輩しか賞とってなかったじゃないですか。あれだけ大きなコンテストなんだから、ほかの美術部員が応募してないわけありませんよね~?」
「それはどうかわからないけど……」
「わかります! 絶対そうです!」
「……そうですか……」
まあ、おそらくそうだとは思うけど……。
「もしかして先輩、受験するんですか?」
「へ?」
「受験するから、あたしなんかに関わり合ってる暇なんかないと?」
大きな目をさらに広げた彼女の顔には、「憤慨」の二文字が浮かびあがっていた。
「いや、そんな……」
ぼくが通う
ただ、もっとレベルの高い大学を目指す者や、成績が悪すぎて推薦を受けられそうもない者も中にはいるわけで、そういう彼らは放課後を、予備校通いや家庭教師の指導時間に費やすようだ。
一方、推薦を受けられる生徒においても、志望学部に進学するためには、やはり成績がよいほうがいいに決まっている。なので、決して気を抜くことはできないのだが。
ぼくの志望は芸術学部。だが、今の成績だと果たしてどうなるか……というところ。美術制作の技能やコンテストなどの結果は、推薦にはほとんど考慮されない模様だ。
「受験なんてしないよ」
「じゃあ問題ないじゃありませんか」
なんで勝手に決めんの?
「でも教える能力なんて、やっぱりぼくにあるとは思えないし、ぼくは美術教師でも美大の学生でもないし、単に自己流で描いてきただけだし……それに……」
断る理由が続かなくなり、ぼくたちの間に間ができた。
その空白の中で、彼女の首がゆっくりと垂れた。
「だめなんですか……」
あ、いや……。
「こんなど素人で、どへたで、うまくなる見込みなんてまったくないあたしなんか、教える気も起こらないってことですか……」
うつむいたままの声は、ガラッと深い哀愁を帯びた。
「え、いや、そんな……今はじめて逢ったばかりで、きみがうまいかへたかなんてわからないし―――」
「あたし、勉強なんてちっとも好きじゃないんです。でも、絵を先輩に教えてもらうために、必死に受験勉強してこの学校に入学しました」
ぼくの言葉を無視して続けた彼女は、
「嬉しかった~、合格発表見たときは~」
と、いきなり空を見あげた。その大きな目が光っていたのは涙のせいか―――。
そして彼女は大きく鼻をすすると、
「でも、もういきなり挫折~!」
金網に両手をついて声高にいった。
「高校入って、いきなり夢砕かれちゃった~!」
屋上にいた生徒たちの興味津々の視線が、より強くぼくらに向けられたのがわかった。しかしそんなことを気にするようすは、彼女にはちっとも感じられない。
「あたしの頑張りってなんだったんだろ~! 努力ってなんなんだろ~! 受かったときは神さまいるって思ったけど、そんなものやっぱりいなかったんだ~!」
そう叫ぶと、彼女はその場にストンとしゃがみ込んでしまった。
そんなオーバーな……。
「まだ一六歳になったばかりなのに、あたしの人生、もうピリオド~! 生きてる意味なんてもうな~い!」
震える小さな背中が叫んだ。
ギャラリーの視線はさらに強まり、心なしか近寄ってきている気もする。
逃げ去りたい、この場から!
そんな思いでいっぱいだったが、
「グレる人の気持ちがわかった気がする~! だからあたしもグレるかも~! でもそれだけじゃ気持ち治まりそうもないから、犯罪に手を染めるかも~! そうなったらあたしの人生、完全に終わりだ~! パパ、ママ、先立つ不孝をお許しくださ~い!」
と、わけのわからないことを涙声で訴えながら、手の甲で大きな両目を拭っているらしい彼女の姿を見ると、とてもできなかった。
「あの、じゃあ、教えるって感じじゃなくて、一緒に描くっていうノリなら……」
だからかがみ込むようにして、彼女に語りかけた。
すると、小さな背中の震えがピタッとやんだ。
そして一拍置いて、
「……ほんとですか?」
くぐもった声が聞こえた。
「うん。あくまで教えるっていうスタンスじゃなくて……」
「それでいいです!」
はじかれたバネのようにピョコ~ンと立ちあがってふり向いた彼女の顔には、涙どころか、目の充血も鼻水の跡も、いわゆる悲観に暮れた痕跡など微塵もなかった。
……嘘泣き?
「じゃあ、同好会って感じですね!」
そういった彼女の顔がキラキラ輝いていたのは、午後の陽射しを受けていたばかりではないのだろう。そう思ったら、「まあ、いっか」という気持ちがすんなりわいた。あきらめには違いないが、不愉快さはこれといって覚えなかった。
「べつに、名称はなんでもいいと思うけど……」
「ではさっそく明日から始めましょう!」
「えっ、明日!?」
「なにか予定でもあります?」
「うん、まあ、予定っていうか……実は今描いてる絵が、そろそろ仕上げの段階を迎えようって状況で……」
「あたしは構いません。邪魔しないようにじっと見てますから」
そんなことされたら、気になって集中などできたもんじゃない。
「うん、いや、でも……ちょっとデリケートな段階だから、とりあえずこれが完成して、落ち着いてからということに……」
「わかりました。そういうことなら、じゃあ、来週の頭からということで!」
「えっ!? いや、それだと今日入れて三日しかないから、そんなんじゃとても完成しないんで……」
「え~、じゃあいつからならいいんですか~?」
露骨に困ったような顔をされ、なぜかこっちがお願いしているような錯覚に襲われた。
少なくともあと一週間半は―――といいかけたところで、
「じゃあ来週の土曜日!」
とさえぎられた。
おまけに、
「発足会として、お昼を一緒に食べてから!」
勝手に決められた。
まあ、それだけあれば、なんとか……。
頭の中でそう制作スケジュールを計算していたら、昼休み終了のチャイムが鳴った。
「それじゃあ先輩。これからずっと、よろしくお願いします!」
再びぺこりと頭をさげて、彼女は昇降口へと駆けだした。しかし五、六歩いったところで足をとめ、また戻ってきた。そして真剣な顔でぼくにいった。
「あんな事件、絶対単なる偶然ですよ」
「え……」
「三年生の部員の人が話してくれたんです。先輩のせいなんかじゃありませんよ」
「……」
「絶対ひがみです。先輩の絵がうますぎるから」
「……」
「そんなこと起こせる人なんていません!」
宣言するように力強く結ぶと、今度はふり返ることなく、駆けていった。
校舎の中へと吸い込まれていった彼女の残像を見つめながら、
同好会の活動場所……どこにするんだろ~?
という疑問だけが、頭の中をすべて占領していた。
それが彼女の残した言葉を脳内から排除するための自衛手段であったことに、そのときのぼくは気がつかなかった。
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