第16話 試薬
夕食の洗い物を済ませたホレイシアは、ため息を吐きながら二階へと続く階段を登った。
「……マスター、付き合ってください」
偶然聞いてしまったフブキの言葉はホレイシアを不安にさせる。
「もしもホレイシアとふたりだけでクエストに挑戦することになっても、近くにいるだけで安心できそうだな」
リフレインした幼馴染の少年の言葉はホレイシアを救ってくれた。
だけど、心がモヤモヤしてしまう。奇妙な感情を胸に抱えたハーフエルフの少女は、首を強く左右に振った。
「ムーンなら大丈夫」と言い聞かせ、階段を登り切った少女は廊下を右に曲がり、自分の部屋に向かって歩みを進めた。
「はぁ」と息を吐き出し、幼馴染の少年がいるはずの右隣の部屋に視線を向けてから、自分の部屋のドアノブに手を伸ばす。その瞬間、右隣の部屋から漏れた声を耳にしたホレイシアの動きが止まる。
「マスター、動かないでください」
「あっ、ああ、分かった」
耳を澄ました少女は動揺を隠せない。
隣の部屋でムーンとフブキがイケナイことをしている。
そんな予感がしたホレイシアは、慌てて声が聞こえた右隣の部屋の扉を勢いよく開けた。
「ちょっと、何してる……の?」
扉を開けたその先に広がる光景に、ホレイシアは目をパチクリとさせた。
近くに置かれた机の上には、透明な液体が入った小瓶と数センチだけ宙に浮く赤い菱形の鉱物があり、室内にいたふたりは向かい合って座っている。
フブキはムーンの右手首を真っ赤なゴム手袋を嵌めた左手で掴み、持ち上げていた。そんな少女の右手には小さなスポイトが握られている。
部屋の中にいたふたりは、一緒に視線を開かれた扉の前で佇むハーフエルフの少女に向けた。
「ホレイシア、何か用か?」
「だから、ふたりきりで何してるの?」
そう尋ねられると、フブキがマジメな表情で答える。
「はい。実験に付き合ってもらっていました。マスターが私を夕食の場に呼ぶため会いに来た際、ちょっとした事故に遭ったマスターの右手の甲が発光したので、その原因を究明したかったのです」
「えっと、付き合うってそういう意味……」
目を点にしたホレイシアの前で、フブキが首を捻った。
「ホレイシア、もしかして聞いていたのですか?」
「そうだよ。でも、良かった。さっきまですごく怖くて……」
「ん? 何が怖かったんだ?」
話を理解できないムーンが不思議そうな表情で首を傾げる。それに対して、ホレイシアは慌てて首を横に振った。
「何でもないから。そんなことより、その液体って……」
「発光薬の試作品です。とは言っても、別の実験用に渡された素材から過冷却水の成分を調整した簡単なモノなので、開発期間はわずか十分。もちろん、人体に悪影響ありません」
「そうなんだ。じゃあ、その近くで浮いてる赤い鉱物は?」
「ルイージストルです。この物質を使えば、実験の様子を記録できます」
「薬のことなら、私も実験のお手伝いができそう。その液体の成分表があったら見せて!」
「はい。これです」と言いながら、フブキはスポイトを机の上に置き、右手の人差し指を立てた。それから、掴んでいたムーンの右手首から手を離し、立てた一本の指で空気を叩く。
その瞬間、何もない空間から一枚の紙がひらひらと揺れながら、机の上に落ちた。
それを手にして、書かれている文字を読み進めたホレイシアの頬が緩む。
「なるほどね。このホワイトクラストの成分を調整したんだ」
「はい。このゴム手袋で熱を与えることにより、マスターの体温低下を防いでいました。事故対策も万全です」
「その薬をEMETHの文字が刻まれてるムーンの右手の甲の上に垂らして、発光させることができたら実験成功だっけ?」
「はい。念のため明日、フェジアール機関に問い合わせて、同様の実験が行われていなければ、論文として発表するつもりです。もしもこれが新発見ならば、私個人ではなく、別の知り合いがいる錬金術研究機関に実験協力を要請します」
「えっ、最後まで実験しないの?」
「はい。私個人のチカラでは、これ以上の実験は不可能ですから。追加実験を行うためには、マスター以外の異能力者を最低十人を集めなければなりませんし、ギルドハウスの錬金部屋にある研究設備では、紋章が発光するメカニズムも分かりません。個人での研究には限界があるので、信頼できる錬金術研究機関に実験協力を依頼します」
「でも、そんな薬開発しても意味がないような気がするよ。だって、政府は三年を目途に国民全員に異能力を与えるって……」
フブキの隣に立ったホレイシアが腑に落ちない表情を浮かべる。それでもフブキは考えを変えず、机の上に置いたスポイトを手に取った。
「ご存じの通り、フェジアール機関とアルケア政府が共同で行ったEMETHシステムの実証実験の対象者、十万人の人々の体に異変が起きています。いずれ姿を変えられたと称して人々を騙すニセ能力者も出てくるでしょう。その愚か者の化けの皮を剥がすために、この薬が必要です」
フブキがもう一度だけムーンの右手首を左手で掴み、右手で持ったスポイトの先端を、彼の右手の甲から数センチ離して向ける。
そこから一滴の水滴が獣人の少年の右手の甲に落ちた。それと同時に、ムーンが体を震わせる。首元を覆う獣の体毛もピンと立ち、冷たい感覚が獣人の少年の全身を駆け抜ける。
「ううぅ、冷たくて、気持ちいいぞ!」
そう感想と口にしたムーンの右手首を掴んでいたフブキは、ジッとギルドマスターの右手の甲を見つめた。
近くにいたホレイシアもフブキの右隣に並び、幼馴染の少年の右手の甲を覗き込んだ。
その瞬間、ムーン・ディライトの右手の甲に刻まれたEMETHの文字が、青白く発光を始める。
「スゴイ。フブキが言った通り、ムーンの右手が光ってる!」
「どうだ。スゴイだろ? 俺も初めて見た時はビックリしたからな」
胸を張るムーンの前で、ホレイシアは首を傾げた。
「でも、どうして発光反応が起きたのかな? 成分表には、発光効果があるエクラブレスやペレヌスアーテムが含まれてなかったのに……」
「それは設備が整った研究施設で実験しなければ分かりませんが、私ができる実験はここで終わりです。後は知り合いがいる錬金術研究機関に委託します」
フブキがムーンの右手首から手を離し、右手で持っていたスポイトも机の上に置いた。それから浮かぶ菱形の鉱物を右手の小指で触れ、机の上にそれを落とす。
「問題はどこの錬金術研究機関に実験を依頼するのかですね」
机の上に落ちた鉱物を右手の薬指で触れ、消し去ったフブキが眉を潜める。
そんな悩める天才少女の顔を、ムーンはジッと見つめた。
「フブキ、錬金術研究機関の知り合いがいるなんて、スゴイぞ!」
「あっ、もしかして、その中にフェジアール機関の研究者もいるのかな? だったら、次いでにムーンを元の姿に戻す方法も調べてもらいたいよ」
ホレイシアが両手をポンと叩く。そんなハーフエルフの少女の近くでフブキは首を横に振った。
「確かにフェジアール機関には、私と同じヘルメス族の研究者が在籍していますが、マスターの姿を元に戻す方法は、術式を発動して、十万の民に異能力を与えた五大錬金術師しか分からないと思います」
「そうなんだ」とホレイシアが肩を落とす。
「ホレイシア、そんなに落ち込むな。俺はこのままでいいって思ってるから」
「まあ、ムーンがそれでいいならいいけど……あっ、だったら、深緑の夜明けは?」
ホレイシアが思い出したように両手を叩く。
「深緑の夜明けってなんだっけ?」と話しを聞いていたムーンが首を傾げる。その後で、ホレイシアはため息を吐き出し、幼馴染の少年と顔を合わせた。
「琥珀のネックレスを首からかけてる人たちに会ったことない?」
「ああ、そういえば見たことある気がするぞ。そいつらがどうかしたか?」
「だから、ウチの薬屋によく薬草を買いに来るあの人たちにフブキの実験を託そうと思うの」
「そうすることで、実験の協力者になり、安定した収入源を確保しようと考えています」
フブキの補足説明でようやく理解したムーンが腕を組む。
「なるほどな。なんとなくだけど理解したぞ」
ムーンが納得の表情を浮かべた後で、フブキは右手を挙げた。
「深緑の夜明け。彼らの研究施設の所長さんとは顔見知りです」
「そうなんだ。でも、この成分表に書いてある素材を集めるだけで大変そう。どこでも手に入りそうな素材だといいんだけど……」
「その件に関しても、明日、深緑の夜明けの研究施設で話そうと思います」」
「あっ、明日は一日中店番だから同行できないみたい。ごめんなさい」とホレイシアが両手を合わせる。
「交渉なら私だけでも問題ありません。因みに、私は明日が遅番です。午後四時からお仕事で、帰ってくるのは夜遅くになるでしょう。明後日の朝食は、私を待たずにふたりで食べて構いません」
「……ってことは、明日の夜はホレイシアとふたりきりだな!」
ムーンの一言を耳にしたホレイシアはギクっと体を動かした。
「そうだね。うん、頑張る」
覚悟を決めたホレイシアが首を強く縦に動かし、フブキの元へ歩みを進めた。
「あっ、フブキ、ちょっと相談したいことが……」
「ん? フブキに相談したいことって何だ?」
近くにいたムーンが首を傾げると、ホレイシアは慌てたように両手を左右に振った。
「ムーンは気にしなくて大丈夫だからね」
「おい、ホレイシア。気になるだろ……」とムーンが言うよりも早く、ホレイシアはフブキと共に彼の部屋から出て行った。
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