第2章

第5話 呼称

 青空に浮かぶ白い雲の隙間から朝日が差し込む。

 獣人になってから初めての朝を迎えたムーンは、馴染み深い薬の館の前で両腕を上に伸ばした。

 クマのような耳が生えた少年の顔には、喜びと期待が刻まれている。

 すると、目の前にある黄緑色のドアが開き、黄緑色のローブで顔を隠している幼馴染の少女が顔を出した。

 その右手には、新聞が握られている。


「おはよう。ムーン。来てるんだったら、入ればいいのに……」

「ああ、悪い。これからのことを考えてたんだ。今日からギルドを結成して、いろんなクエストに挑戦するんだなって」

 ムーンの答えにホレイシアは同意を示すように首を縦に動かす。

「そうだね。朝ごはんは?」

「ウチで食べてきた」

「……そうなんだ。あっ、そんなことより、これ見て。今日の朝刊!」

 ホレイシアは手にしていた新聞をムーンに渡し、右手の人差し指で一面記事を示した。


「えっと、これは……」と困惑するムーンの前で、ホレイシアがため息を吐き出す。

「読めば分かるけど、昨日のプロジェクトのことが書いてあるよ。ムーンみたいに姿が変わっちゃった対象者がいっぱいいるんだってさ。この件に関して、フェジアール機関に問い合わせたら、関係者不在のため回答できないって答えが返ってきたみたい。他にも、原因となった術式を使用したフェジアール機関の五大錬金術師が全員失踪したっていう関連記事も載ってた」


「つまり、俺だけじゃないってことか?」

 新聞に目を通したムーン・ディライトが首を捻る。そんな彼の前で、ホレイシアは頷いた。

「そうみたい。獣人化だけじゃなくて、幼児化や性転換など、多種多様な異変が確認されてるって新聞に書いてあったよ」

「じゃあ、安心だな。俺は一人じゃないんだ!」

 豪快に笑いだすムーンと顔を合わせたホレイシアが深く息を吐き出した。

「相変わらずだね」

「当たり前だろ? 難しいことは賢いヤツに任せるさ。もしかしたら、失踪してる五大錬金術師たちが、みんなを元に戻す方法を探してるかもしれねぇ。それまで、俺はやりたいことをやる。それだけだ!」

「そうなんだ。あっ、そろそろ行かないと。フブキを待たせるのも悪いし……」


 ホレイシアが思い出したように両手を叩き、ムーンの手から新聞を回収する。

 それから、一度入口の中へ引っ込み、少し前進した先にある丸い机の上にそれを置くと、ハーフエルフの少女は「いってきます」と口にして、薄暗い店から飛び出した。


「ムーン。お待たせ。さあ、早く行こうよ!」

 再び出入口に姿を見せたホレイシアがムーンの右隣に立ち、一歩を踏み出す。

 それと同時に歩き出したムーンは、隣を歩くホレイシアの視線を向ける。

「ホレイシア。ちょっといいか?」

 唐突に声を掛けられたホレイシアは首を傾げながら、先へ進んでいく。

「何かな?」

「いつまで隠すつもりなんだ? お前のホントの顔。フブキ、知らないと思うぞ。最初に会った時は、今みたいに顔をフードかぶって隠してたからな」

「……そういうこと、ムーンは考えなくていいんだよ」

「そうか? フブキは仲間だからな。こういう隠し事はダメな気がするぞ。ギルドは信頼関係が大切なんだって、昔、父ちゃん言ってた!」

「それもそうだけど……」とホレイシアがボソっと呟く。


 それから五分ほど歩くと、サンヒートジェルマンで一番有名な時計台の前へ辿り着く。

 手前にある広場に多くの人々が集まっている中で、ふたりは周囲を見渡した。すると、周囲の人々が時計台の前で佇む少女に視線を向け始めた。

 

「あの子、多分、ヘルメス族だよ!」

「初めて見たかも」

 近くからヒソヒソ話を聞いたホレイシアは、時計台の方へ注目した。そこには、凛とした表情で佇む白いローブを着た白髪の少女、フブキ・リベアートがいる。



 待ち合わせていた少女の姿を見つけたホレイシアは、隣にいるはずの少年に向けて、左手を伸ばす。

「いたよ。フブキ!」

 だが、ムーンの手をホレイシアは捕まえることができなかった。引っ張ろうとした先には、何もなく、イヤな予感を覚えたホレイシアが、首を真横に向ける。

 いつの間にかムーンはホレイシアの近くから姿を消し、数メートル先まで移動していた。

 その先にいた茶髪の女性に向けて右手を伸ばしたムーン・ディライトの瞳にピンク色のハートマークが浮かび上がる。


「お姉ちゃん、今から俺と……」

 名前すら知らない女性を口説こうとする少年の姿を視認したホレイシアは、右手を前へ伸ばしながら、駆け出す。そうして、ムーンの右耳を掴むと、そのまま獣人の少年の体を後ろに引っ張った。

「ムーン。フブキ見つけたから、行くよ!」

「いたのかよ! フブキが来るまでかわいい女の子と話したかったのに!」

 不満を口にしながら、ムーンはホレイシアに引っ張られ、広場の右奥まで移動する。

 そこには、白いローブに身を包むフブキ・リベアートの姿があった。

 ヘルメス族の彼女の元へ、ムーンたちが揃って歩み寄る。

「おはよう。フブキ。待ったか?」

「いいえ。マスター、先ほど来たところです」


「ん? マスター?」

 顔を上げ挨拶してきたヘルメス族の少女の前で、ムーンが首を捻った。

 困惑の反応をした獣人の少年と顔を合わせたフブキは、不思議そうな顔になった。

「あれ? リーダーのことをギルドマスターって呼ぶって、文献に書いてあって……もしかして、そっちの女の子がギルドマスターなのですか?」

 チラリとムーンの近くにいる黄緑色のローブを着た少女をフブキが見ると、ムーンは首を左右に振る。

「いや。リーダーは俺だ。いきなりマスターって呼ばれて、ビックリしただけなんだ」

「なるほど。そうだったんですね。納得です。マスター、ホレイシア、本日はよろしくお願いします!」

 フブキが礼儀正しく、ふたりに頭を下げた。すると、ムーンがジッとフブキの顔を見つめた。

「おい、フブキ。お前、ホレイシアのことは普通に名前で呼ぶんだな!」

「はい、そうですが……」と淡々と答えるフブキの前で、ムーンが両手を合わせる。


「頼む。フブキ。俺も名前で呼んでくれ! マスターなんて呼ばれ方、なんか恥ずかしい!」

「お断りします。マスターはマスターです」

「そっ、そんなぁ!」

 冷たい口調がムーンの胸に刺さり、獣人の少年の体が後ろによろける。

 倒れそうな体を後ろから、ホレイシアが支えた。

「フブキ……マジメだね」

「はい。マジメだけが取り柄ですから」

 間近で仲良さそうに話すホレイシアとフブキの姿を見たムーンが、頭を両手で抱える。

「ううう、フブキと俺の距離感が遠くなっていく! 俺だって、フブキと仲良くなりたい」


「ところで、先ほどから気になっていたのですが、ホレイシアとマスターの関係って……」

 フブキの口から飛び出した疑問を耳にしたホレイシアの顔が赤くして、目の前にいるムーンの後姿から視線を反らす。そんな彼女の反応を気にする素振りを見せず、マジメに答えた。

「ああ、ガキの頃から一緒にいる幼馴染だな」

「マスターの本業は?」

「ホレイシアの父ちゃんがやってる刀鍛冶工房で働いてる……って、フブキ、まさか、お前、俺のこと……」

 疑念が渦巻くムーンの背後で、ホレイシアは疑いの視線をフブキに向けた。

 その一方で、フブキは表情一つ変えず、答えを口にする。

「はい。興味があるだけです」


「きょっ、興味!!!?」

 ムーンの背後でホレイシアが動揺して、体を小刻みに震わせた。背後を振り返り、幼馴染の反応を目の当たりにしたムーンがキョトンとする。

「ホレイシア。どうかしたか?」

「だっ、大丈夫。気にしないで! そんなことより、早く行こうよ。センターまで!」

 

「ああ、そうだな」と答えたムーンが一歩を踏み出す。

 そんな彼の右隣にホレイシアが並ぶと、フブキはふたりの後を付いていった。



  

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