第2話 異変
暗かった空は、いつもの明るさを取り戻す。
漆黒の幻想曲と呼ばれる現象が終わり、ムーン・ディライトは目をパチクリとさせた。
子供のころから遊んだ馴染み深い公園のベンチの前で、ハーフエルフの少女が、ムーンの顔を見て、口をあんぐりと開けている。
「おい、ホレイシア。どうかしたか?」
「その声、やっぱりムーンなんだね」
幼馴染の答えの意味が分からず、ムーンは目を点にした。
「おいおい。下手な冗談だな。俺はムーン・ディライトだ!」
笑い出す少年の前で、少女はため息を吐き出し、右手の薬指を伸ばした。
「ねぇ、変な感じしない?」
「あっ、お尻のあたりに、なんかがくっついてるような気が……」
少年の発言のホレイシアが顔を真っ赤にして、怒鳴り声を出した。
「お尻って、女の子の前で、何言ってるの!」
「お前が、変なところがないかって聞いてきたから、答えただけだ!」
マジメに答えたムーンが、右手を伸ばし、お尻のあたりにくっついている何かに触れた。その姿を目にしたホレイシアが怖い顔になる。
「ムーン。女の子の前で何してるのかな?」
「何って、こうやって、お尻にくっついてる何かを確かめてるところだな」
「一応、ここ、公園なんだからさ。そういうの、やめてよ。ちゃんと、見せてあげるから!」
ホレイシアが伸ばした右手の薬指で、空気を一回叩く。その瞬間、光沢感のある銀色の円が描かれた茶色い小槌が指先に浮かぶ魔法陣から落ちた。
完全に落下しきるよりも先に、それを左手で掴んだホレイシアが、ムーンの背後に向かって、小槌を投げ入れる。
半円を描くように、小槌が落ちていくのと同時に、地面の上に魔法陣が浮かび上がり、その中心から二メートルほどの大きさの鏡が召喚される。
そこの映し出された姿を見たムーンは、思わず目を見開いた。
鏡に向かいお尻を突き出しているのは、ムーン・ディライトとよく似た獣人の少年。
頭には、クマのような半円の両耳が生え、首元は暑苦しい茶色い獣の毛で覆われている。
ベージュ色の髪と後ろ髪の長さは、人間だった時のモノと変わらないが、前髪だけがなくなり、おでこが丸出しになっていた。
気になっていたお尻には、茶色いクマのような丸い尻尾が生えている。
それ以外は、人間の姿と変わらない。
「おい、ホレイシア。なんだ。これ? 人間を獣人の姿にする鏡か? ほら、もしもあなたが獣人になったら、こんな姿になりますよって再現するヤツだ! だから、この鏡に映ってる俺は獣人の姿になった虚像で……」
目のまえにある大きな鏡を見つめ、動揺するムーンの背後に立ったホレイシアが、優しく獣人になった少年の両肩を掴む。
「違うよ。これが現実。でも、なんでこんなことに……」
獣人の少年の背後でホレイシアが考え込むと、ムーンは突然、右手を斜め前に伸ばし、目を輝かせる。その甲には、EMETHという文字が刻まれていた。
「ホレイシア。スゴイぞ。あっちの方から野鳥の声が聞こえてくる! 獣人は動物の会話が聞こえるって話、ホントだったんだな!」
唐突にいつもの明るさを取り戻したムーンの背後で、ホレイシアは目を点にした。
「ちょっと、ムーン。今はそういう話じゃないでしょ?」
「ホレイシア。難しいことは分からん!」
ハッキリと答えた獣人の少年の前で、ホレイシアはため息を吐き出す。
「ムーンらしい考え方だね。ところで、今日って何か変わったことしなかった?」
「いいや」とムーンが首を左右に振ると、ホレイシアは顎に右手を置き、「あっ」と声を漏らした。
「EMETHシステム。あれの実証実験だよ! 確か、ニュースで漆黒の幻想曲発生と同時に、フェジアール機関の五大錬金術師が儀式をして、十万人の対象者に異能力を授けるって言ってた!」
「そういえば、そんなこと言ってたな」と思い出したようにムーンが呟く。
「もしも、それが原因だったら、今すぐフェジアール機関に問い合わせた方がいいかもね」
「あっ、ホレイシア。そういえば、お前、どこかに行く予定があったんじゃなかったか?」
その一言に、ホレイシアがハッとして、右手首に付けていた時計を見た。
「あっ、薬草採取!」
「薬草採取?」
「ハクシャウの泉の近くの岩場に、漆黒の幻想曲発生から一時間以内しか生えない幻のコケがあるんだって。それを採取してこいって、お母さんに頼まれてて……どうしよう。ここから走れば五分くらいで、辿り着けそうだけど、欲しい量を採取できないかも」
深刻な表情のホレイシアの前で、ムーンが首を傾げた。
「なんでだ? 漆黒の幻想曲が終わってから、三分くらいしか経ってないはずだ。今から行っても、五十分くらい薬草採取できるぞ!」
「ダメだよ。幻のコケの成分は、一時間しか持たないんだってさ。薬草採取したら、すぐにウチに戻って、お母さんに処理してもらわないと……」
「そっか。じゃあ、俺も手伝っていいか? どんくらい必要なのかは知らないけど、二人ならすぐに集まるはずだ!」
その申し出に、ホレイシアは優しく微笑み、黄緑色のローブのフードを被った。
「ありがとう。じゃあ、走るよ!」
二人は公園から駆け出していく。
その瞬間、ホレイシアは目をパチクリとさせた。気が付くと、前方を走っているムーンの後姿が、遠ざかっている。
一瞬で数十メートル離されたホレイシアは、舗装された歩道の上で立ち止まり、右手を前に伸ばした。
「ちょっと待って!」と震わせた幼馴染の声を耳にしたムーンが、同じように足を止め、体を半回転させる。
そうして、彼は首を捻りながら、ホレイシアの元へ歩み寄る。
「ホレイシア。どうかしたか?」
「速いよ。私を置いていくつもりなの?」
「うーん。俺は、全速力でハクシャウの泉まで向かってただけで……ホレイシア、もしかして、お前、疲れてるのか? いつものお前なら俺と同じ速さで走れたはずだ!」
心配な表情のムーンの前で、ホレイシアはジド目になる。
「そんなわけないでしょ? ねぇ、走ってる時、なんか変な感じしなかった?」
「そういえば、いつもより走りやすいなって思ったぞ!」
「もしかしたら、獣人になった影響かもね。ほら、獣人は人間よりも速く走れるって学校で習ったでしょ?」
ホレイシアの推測に対し、ムーンは目を泳がせた。
「そっ、そういえば、学校で習った気がするぞ!」
「はぁ、変わらないね。ムーンって……えっ?」
ため息を吐き出す幼馴染の体を、獣人の少年が突然抱き上げた。
「ちょっと、ムーン?」
少年の太い腕に支えられ、お姫様だっこのような体制にされたホレイシアが目を丸くする。
「しっかり捕まってろ。今の俺なら、ハクシャウの泉まで三十秒もあれば、余裕で辿り着けそうだ!」
真剣な表情になった少年の顔を見上げたホレイシアの頬が赤く染まる。
ホレイシアが肩に掴まった後で、ムーンが風を切り全速力で街中を駆け出していく。
幼馴染との近づぎる距離感に胸をドキドキさせた少女は、その肌で熱い風を感じ取った。
宣言通り三十秒でふたりは目的地にたどり着く。
街外れから少し歩いた先にあるのは、緑色の草で覆われた半円の地面。その周辺には、緑色に光るコケが付着した岩が転がり、奥には泉も見える。
「ここだな。ハクシャウの泉って……」
ボソっと呟いたムーンが膝を曲げ、腕の中にいるホレイシアを降ろす。
「そうだよ。じゃあ、ムーン。あんまり時間ないみたいだから、手伝って。とりあえず、あの緑に光ってるコケを削って、籠の中へ入れて。この籠がいっぱいになったら、すぐにウチに帰るから!」
そんな指示を出したホレイシアが、ムーンの右隣に立ち、右手の薬指で空気を叩く。そうして召喚された茶色い小槌で草で覆われた地面を叩くと、そこに、直径十五センチほどの大きさの円形のカゴが現れた。その中には、鉄の小さなナイフが二本入っている。
それを一本手に取り、渡そうと前を向いたホレイシアの瞳に、白髪の少女の姿が映りこんだ。
先ほどまでいなかったはずの少女は、キレイな白いローブで身を纏っていて、後ろ髪は腰よりもやや上の長さまで伸ばされている。
ホレイシアと同じ身長の少女は、背後の気配を感じ取り、振り向いた。そうして、かわいさのある顔を晒すと、ムーンの目にハートマークが浮かび上がった。
「お姉ちゃん。こんなところで何やってんだ? よかったら、俺と……」
一瞬で突然現れた少女の元へムーンは駆け寄ろうとした。だが、瞬く間に少女の姿はムーンの前から消えてしまう。
「いきなり、何ですか?」
ムーンの背後から冷たい声が聞こえ、獣人の姿の彼は目を見開き、振り返った。そこには、白いローブで身を包む青い瞳の少女がいる。その少女の両耳は尖っていた。
そんな一部始終を目の当たりにしたホレイシアは、目を丸くして、同い年くらいの少女の元へ歩み寄る。
「もしかして、あなた、ヘルメス族ですか?」
「はい。そうですけど……」と少女が目の前に見えたハーフエルフの少女に視線を向ける。それと同時に、ホレイシアは納得の表情を浮かべた。
「やっぱり、そうなんですね。初めて会いました。あっ、先ほどは連れのムーンが失礼しました!」
ヘルメス族の少女にホレイシアが頭を下げた。その右隣で、ムーンはポカンと口を開ける。
「ホレイシア、ヘルメス族ってなんだっけ?」
「もう、学校で習ったでしょ? 錬金術の礎を築き上げたヘルメス・エメラルドさんと同じ希少種族だよ! さっきみたいに、瞬間移動もできて、多くの錬金術を使いこなせるスゴイ種族なんだから!」
ムーンの隣で、ホレイシアが呆れ顔になる。だが、ムーンは理解できず、頭にクエスチョンマークを浮かべていた。
「ヘルメス・エメラルドって誰だっけ?」
「教科書に載ってる錬金術の術式を全部書いた人。誰でも知ってる偉人なんだからさ。それくらい覚えなさいよ!」
「ああ、言われてみたら、学校で習った気がするぞ。ってことは、この姉ちゃん、スゴイヤツなんだな!」
ムーンが興味津々な表情をヘルメス族の少女に向ける。その一方で、白いローブの少女は冷たい視線を獣人の少年の顔に浴びせた。
「姉ちゃん、そんな冷たい目で見ないでくれ!」
「ちょっと、ムーン。時間がないって言ったよね? そろそろ採取しないと、間に合わないんだからね!」
怒った表情のホレイシアが、左手でムーンの丸い耳を引っ張る。
「ああ、分かったから引っ張るなって!」
そんなやり取りを間近で見ていたヘルメス族の少女が、クスっと笑い出す。
「あなたたち、面白いですね」
「おお、笑った顔もかわいいな! ところで、姉ちゃんも幻のコケを採取しに来たのか?」
ムーンの問いかけに対して、ヘルメス族の少女は首を左右に振る。
「いいえ。私はあっちの泉に浸かり、先ほどの戦闘の疲れを癒すために訪れました」
「泉に浸かる……」
ムーンの鼻の下が伸びると、ホレイシアは怖い顔になった。
「ムーン。変な想像しないで!」
その直後、ムーンたちの背後で、見知らぬ男の声が響いた。
「まさか、こんなところにいっぱい生えてるとはなぁ。スゴイ穴場を見つけたかもしれん」
その声を聴いたムーンたちは、ハッとして、周囲を見渡した。
そこには、無精ひげを生やした黒いローブ姿の長身の男がいる。
男は、目の前にいる少年たちと顔を合わせ、頬を緩めた。
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