第17話 晧良の希望
佑俐がアメリカへ去ってから、晧良はしばらく魂を失った亡霊のように、毎日を過ごした。
人は悲しむだけ悲しむと、無気力になるらしい。
何も感じない、時間の流れも分からない。飲み物も食べ物も摂らないで眠っている時間が続く。それでも生理現象には逆らえずに目を覚まし、だるい身体を引きずってキッチンに行って水を飲む。
蛇口からポトリと落ちた水滴が、佑俐の頬を流れ落ちる涙と重なった
『晧良のことが好きだったんだ。なのにこんな酷いことをするなんて……お前なんか大嫌いだ』
急激に襲い来る胸の痛みに思わず呻く。
佑俐が留学を延期すると言わなければ、大学の休みにはきっとL・Aに行って、佑俐に思いを告げていただろう。
それなのに、一番欲しかった言葉を、あんな無残な返事で跳ね返さなければならないなんて!
『佑俐のエロい姿が忘れられなくて、もう一度やれないかって狙っていたんだ。佑俐だってあの時俺の手で達ったじゃないか。何を今さら誤魔化すんだ。佑俐は俺の好みだ。俺も佑俐を抱きたい。佑俐がアメリカに渡るまでお互いに楽しもう』
佑俐の涙声を聞いた時、どんなに今の暴言は嘘だと言って、抱きしめたかったことか。
本心を漏らさないようにするために、血が滲むほど唇を噛んだ。全ては佑俐のためだと必死で自分の心に言い聞かせながら……
芸術のミューズは浮気ものだ。
今の時点で良いと評価されたものが、数年先、いや数カ月先には輝きを失う。
実際のところ作品そのものが劣化するわけではないのに、人の心を引き付けるミューズが他の作品へと飛び立てば、人の興味は移り変わり、作品の価値は地に落ちる。
芸術一家の中で育った晧良は、流動的な価値観を肌で感じ、創作された映画や小説などの作品だけでなく、俳優たちや作家たち人間の浮き沈みをも目の当たりにしながら育った。
だが、一瞬でもミューズの微笑みを受けた者は幸運な方だ。一度も脚光を浴びることなく埋もれる作家や作品がどんなに多いことか!
一度しか微笑まないかもしれないミューズの心を射止めるには、佑俐の関心を作品へと戻すしかなかったのだ。
別れがこんなにつらくて、後を引くとは思いもよらなかった。
佑俐への恋情に比べれば、それまでにつきあってきた女性への想いは、恋すればこんな感じだろうと、過去に見た映画や書物のシーンを思い浮かべて無理に入り込もうとしただけだと分かる。
付き合い始めも流されるように始まり、終わりもあっけなかった。
男女関係になるよりも、仲間として戯れる方が断然楽しいのにと思うこともしばしばあり、自分は情が薄いのかもとしれないと思っていた。あの日プール際で、眩しそうに晧良を見ていた佑俐と会うまでは。
クールな表情に隠された一途な情熱を感じる度に、どんどん惹かれる気持ちを止められず、多分佑俐の為なら、自分は全てを投げだせるだろうと、予感めいた気持ちまで抱いていたのだ。
実家への連絡も滞りがちになり、心配した母の朝来が晧良にビデオ通話をかけてきた。
晧良のやつれ様に驚いた朝来が、何か問題があるのかと訊ねたが、佑俐のことを口にするわけにはいかず、晧良はダンマリを通した。
だが、尋常ではない晧良の様子を朝来が放っておくはずがない。病気や人間関係、授業のストレスなどの負の要因を探ろうとする母に苛立ちを覚え、晧良は違うと声を荒げた。
「じゃあ、一体その無人島で暮らして来ましたみたいな有様は何? 締め切りに追われたって、私はそこまで酷くならないわよ」
締め切りという言葉で、母が佑俐のアイディアをもらったと話したことが浮かんだ。秘密だと言って内容をしゃべらない朝来に業を煮やし、直接佑俐に訊ねたことまで思い出してしまい、何でも佑俐に結び付ける癖に苦笑が漏れる。
晧良は佑俐への想いを断ち切れない自分の弱さを心の中で叱った。
もし、この苦しい胸のうちを打ち明けてみて、お前は間違っていると言われたら少しは冷めるのだろうか。疲れた心が楽になるための出口を求めて、言葉を押し出した。
「人魚の小説は書き終わった? 俺さ、人魚姫の気持ちが分かった気がする。伝える手立てがあったって、言わないことが全てなんだ。本当に相手を思い、相手の成功を願っていたら、言えるはずがないんだよ」
暫く黙って息子を見つめていた朝来は、おもむろに口を開いた。
「成功を願うの? 幸せじゃなくて。……行動的なあなたがじっと耐えるしかないなんて、よほど相手の方に才能があるのね。あなたの気持ちがいつかその人に伝わることを願っているわ。それはそうと、佑俐君はどうしてる? 夏休みにアメリカの伯母さんに会いにいったことを晧良に聞いて、気になっていたの。またラスベガスを訪ねたりしてないかしら? ショーのことを聞きたかったのだけど」
「……」
「あら? どうかしたの? ひょっとしてケンカ中かしら?」
「ま、そんなとこ。佑俐はL・Aに行ったよ。メイクアップアーティストを目指すらしい。日本にはしばらく帰ってこないんじゃないかな」
冷静を装って答えたつもりが、スマホの中の母の顔から目が逸れる。そんな息子を見た朝来がハッとした様子を見せた。
問い詰められるのを覚悟した晧良の耳に、予期せぬ言葉が届く。
「それで、大海原を泳いで渡れる尾ひれが欲しいと言ったのね。でも、あなたみたいにいかにも男性ですって身体に尾ひれは似合わないわ」
数カ月前のそんな会話を覚えていたのかと、晧良は焦った。
これでは相手が佑俐だと告白したようなものだ。
だが、否定されると思っていた佑俐への気持ちはスルーされ、ダメなのは尾ひれの方かと唖然とする。
さすが芸術家だと感心するべきか、常識が違い過ぎることを嘆く方がいいのか困惑して、口をパクパクさせる晧良の姿は、もはや朝来の目には映っていないようだ。
「閃いた! マーマンみたいな怪人じゃなくて、男らしいマーメイドってそそると思わない? 最初から脚が生えているけれど秘密を持っているのがいいわね。よし、書き直すわ」
「おい、ちょっと待て。まさか俺のことを書いたりしないよな」
「あっ、それはないわ。今まで通り私の仕事に家族は無関係よ」
「俺の言葉から思いついておいて、無関係はないだろ。あいつにバレるような内容は書くなよ」
「大丈夫、大丈夫。ああ、どんどん思いつく。じゃあね。あなたも頑張って」
晧良が慌てている間に、スマホの画面には通話終了の文字がくっきりと浮かび上がった。
憑き物が落ちるという言葉があるが、晧良は今まさにそんな気分を味わっていた。
あんなに佑俐と別れた痛みに囚われていたというのに、悲しい気持ちは残っていても、悲観的な感情が霧散してしまったように感じる。
それというのも、朝来が晧良の気持ちを知ったにも関わらず、深刻に受け止めるどころか、自分の小説に気がいって、早々に話を切り上げてしまったせいだ。
つまり、毒気を抜かれてしまったらしい。
朝来が嬉々とした表情で小説を書き直すことを告げ、電話を切る間際に「あなたも頑張って」と晧良にかけた言葉が、まだ終わりじゃないと気づかせてくれた。
小説のようにダメな部分を消去して、上書きするわけにはいかないが、自分が思い描く夢に向かって展開することはできるはずだ。
まずは自分を大きくする。
もし、佑俐の才能が認められずに帰国しても支えられるように。
成功していたら尚更横に並んでも恥ずかしくないように、自立して何かを成す。
元々前向きな性格のため、目標ができた途端に晧良に快活さが戻り、大学の課題にも精力的に取り組んだ。
自分に何ができるのか。
常に探し求めてピンと張ったアンテナに引っかかったのは、―周囲をあっと言わせるような企画をして、実際に映像に撮るーというゼミの課題だった。
自分一人でできることは限られているため、晧良はゼミの仲間たちに、それぞれの得意分野を活かしながら、パフォーマンスを取り入れた作品を合同で作ろうという話を持ち掛けた。
音楽やカメラマンの腕を持つ者以外は、どんな特技があるかを話すことになり、水泳以外に披露するような特技が無い晧良は、小、中学生のころ、姉が習っていたシンクロナイトスイミングの練習に、しょっちゅう付き合わされたという笑い話をした。
すると、全員がそれだ!と食いついた。
「冗談だろ? アーティスティックスイミングは、文字通り動きをシンクロさせるから、俺だけじゃできないぞ。誰か他に泳ぎが得意な奴はいるか?」
得意じゃないけれど一応は泳げると前置きして、二、三人が手を上げた。
背格好も泳ぎのレベルもまちまちな彼らを特訓して、課題の期限に間に合わせるのは無理だと判断した晧良は、代案を上げた。
「水中の演技は、空中でのアクロバットをスローテンポで見せる面白さに優雅さが加わるから、確かに印象的だと思う。でもアーティスティックスイミングだけならプロのを見る方がいいと思わないか? せっかく芸大の仲間で力を合わせるんだ、陸で、絵や音楽や芸を取り入れたパフォーマンスを行い、水中へ繋げて見せ場を作る。ストーリー仕立てのエンターテインメントを創造しないか?」
全員が主役であれ!
晧良の提案にみんなが湧いた。
晧良自身は水中の演技だけではなく、脚本家を目指す仲間の相談に乗り、カメラマン志望の同級生の撮った映像にアドバイスをして、仲間内から一目も二目も置かれるようになる。
両親は自分たちの仕事柄、周囲から子供たちが特別待遇をされることを嫌い、近所やPTA にも職業を明かさなかったが、両親の光に当たらずとも、蛙の子は蛙なんだと晧良は自覚した。
完成作品は教授たちから高い評価を得て、生徒たちの活躍を紹介する大学のホームページにも掲載されることなった。
勢いにのった晧良たちは、大学の近くの市営プールを借りて作品を作り、YouTubeにアップするうちに一躍有名人になっていく。
特に素性が分からないほどド派手なメイクをした水中パフォーマーは人気を博し、あちこちの催しものから声がかかるようになった。
自分たちの想像力で、人々を楽しませたいという気持ちに、人々が共感して支持をしてくれることが、晧良たちをさらにやる気を起こさせが、一つ問題が起きた。
晧良たちのパフォーマンスは価値を見出され、有償化されることになったのだ。
更にコスチュームや舞台装置を見栄えよくするように、資金提供を持ちかける興行主まで現れた。
そうなると、これまでのような学生のノリだけでは済まされない。
資金繰りも運営も明確にする必要を感じた晧良は、仲間に会社設立を持ち掛け、ほぼ全員が賛同することになる。
こうして、晧良を代表とするエンターテインメント提供会社jack‐in-the-box(ビックリ箱)は幕を開けた。
晧良はパフォーマーの育成や、芸人やバンド、音響などの派遣も手掛け、着々と会社を大きくしていった。
会社の宣伝に親の名前を使えば業界で知名度が上がることは分かってはいるが、自分の力で成し遂げて堂々と佑俐に会いにいくのが晧良の夢だ。
そんな風に心に決め、会社の運営だけでなく、水中演技もこなしながら多忙な時間を過ごす晧良の元に、ある日、テレビ番組に出演した時に知り合ったKテレビの山口プロヂューサーから電話がかかってきた。
「実は、今度私共の局が設立七十周年のイベントを行うことになりまして、プロジェクトの一つに美嶋朝来先生の小説を映画化が決定しました。ロサンジェルスでロケを予定しているのですが、水中演技ができるタレントを必要としているのです。それで水島晧良さんのお名前と、他のタレント二名の名前があがったのですが、ぜひオーディションを受けて頂きたいと思いまして連絡をしました」
「……L・A……ですか」
「ええ。そうです。もし小説を読まれていないようでしたら、オーディションの応募用紙と一緒に送らせて頂きます」
「いえ、小説は知り合いが持っていますので、借りて読みます。応募用紙だけ送って頂けますか?」
「良かった。出て頂けるんですね。テレビ番組の撮影の時に、スタッフが仕事だということを忘れてしまうほど晧良さんのパフォーマンスが素晴らしかったと口々に言っていたんです。出番は少ないですが、重要な役になりますので、体調を整えてオーディションに挑んでください」
電話が切れた後、晧良はみんなに外出する旨を伝え、自動車を運転して実家へと向かった。
佑俐のことを知られて気まずかったせいもあるが、起業してからは忙しくて、ほとんど実家には帰っていない。母の小説の話をすることもなかった。
まさか、映画化になろうとは!
しかも、L・Aでのロケがある。
高速道路を三時間ほど飛ばし、実家に着いた時には既に夕刻になっていた。
玄関で靴を脱ぐのももどかしく感じるほどに、晧良は急いていた。廊下を大股で歩き朝来のドアをノックする。
「どうぞ。晧良ね? そろそろ来る頃だと思ったわ」
パソコンに向かっていた朝来が、ドアの方へと椅子を回転させる。晧良は挨拶も忘れて詰め寄った。
「どうして、映画化のことを黙っていたんだ。Kテレビの山口プロヂューサーから、オーディションの話がきて初めて知って驚いたよ」
「まさか出るつもりじゃないでしょうね?」
「出るよ。俺が頑張ってきたのは、あいつに会うためだ。日本の映画のロケがあると聞いたら、佑俐も見にくるかもしれない。絶対に受かってみせる」
朝来の口から、大きなため息が漏れた。
「恋する者は周りが見えなくなるって本当ね。私は反対! あなたは知らないかもしれないけれど、アメリカでロケをする場合、現地スタッフを雇わなければならないの。天野佑俐君は今では世界に配信される映画のクレジットでは必ず目にする有名人よ。テレビ局はもちろん狙うでしょうね。どんな別れ方をしたのかは知らないけれど、以前の晧良の落ち込み方から考えれば、あなたが役を受けることで、佑俐君が断る可能性も出るわけでしょ。例えあなたがオーディションに通ったところで、テレビ局がその事実を知れば、あなたは即刻下ろされるわよ」
「そんな規約があるのか……佑俐にオファーがいくのなら、余計に俺はこの役を勝ち取りたい。佑俐のビッグネームは確かに話題性が出るだろうけれど、俺にも価値があるって認めてもらうつもりだ」
「一体どうやるつもり? 合格するまでは私の名前を一切使ってはだめよ。事前に親子を名乗って受かった場合、友人同士の喧嘩だけでは済まなくなる。あなたたちのことで撮影にひびが入ったら、それは親の躾がどうのこうのって非難が私にも向くし、それが原因で映画の価値が下がったら、テレビ局に多大な迷惑と損害を与えることになるんだから」
「俺だって、これでも会社を経営しているんだから、昔と違って人の機微には敏くなったし、自分の行動がどんな風に仕事に結びつくか、反対にダメージを受けるかも分かっているつもりだ」
そう、それならと朝来が話の先を促した。
「今度水族館で、最後の一葉をアレンジした新しい演目をやるのだけれど、プロデューサーと一緒に見に来て欲しい。演技の後で、プロデューサーに佑俐と喧嘩別れをしたことを話すつもりだし、それでも俺のパフォーマンスを気に入ってくれたなら、オーディションを受けることを許して欲しい。まだ心配だというのなら、佑俐に仕事を依頼するときに、俺が演じることをあいつに知らせて反応を窺うのはどうだろう?
晧良の身体から溢れるバイタリティーと、水中演技に対する自信を感じ取った朝来が、唇の両端を上げた。
「いい男になったわね。まさかこんなにも早く息子と仕事で関わるなんて、思いもしなかったわ。今の晧良なら、佑俐君と仲直りができるかも。あなたの「出演日と山口プロデューサーの連絡先を教えて。脚本家として興味があるからということにして、誘ってみるわ」
「ありがとう。助かるよ」
「晧良のパフォーマンスが人魚の末裔に相応しいならば、佑俐君が仕事を受けようが受けまいが関係ないわ。あなたの言う通り、あなたに価値があるって、私とプロデューサーに認めさせて。頑張るのよ」
「ああ。期待してて。俺は絶対に役を射止めてみせる。絶対に、絶対に、絶対にだ!」
言い切った晧良の目は輝いていた。
演目の日にちとプロデューサーの連絡先を告げ、朝来から小説を借りると車へと急ぐ。
ようやく佑俐に会えると思うと、再会したときのシチュエーションがあれこれ浮かび、帰路の三時間はあっという間に過ぎていった。
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