第16話 蘇った傷跡

 じりじりと照りつける太陽の日差しが熱く眩しい七月下旬のある日のこと、佑俐がオフィスで事務処理をしていると、内階段をリズミカルに上がってくる足音がした。

 佑俐のオフィス兼作業所は大通りに面した伯母のビューティーサロンの二階にあり、仕事で訪れる者は外階段を上がってくる。

 ビューティーサロンの奥にある伯母の住居から直接階段を上がってくるのは、伯母かあるいはもう一人と決まっている。伯母はこんな風に階段を駆け上がったりしないから、今回は……

「ユウリ、ビッグニュースだ!」

 バタンとドアが開くなり叫んだのは、メイクアップスクール時代からの悪友、イーサン・ミラーだ。

「お前な~。外階段があるだろう。いちいち友季江伯母さんの店を通ってくるなよ」

「だって、佑俐は隣の作業所にこもると、ブザーを鳴らしても気が付かないじゃないか。前なんか十分ぐらい叩いて待つを繰り返したけれど、全然出て来ないから、倒れてるんじゃないかと心配になってドアをけ破るところだったんだぞ。ユミエが声をかけてくれたから、あのドアは今も無事でああしてあそこにあるんだ」

 イーサンが栗色の髪を揺らしながら、キックをする真似をしたかと思うと、すぐに体勢を立て直して、ビシッと表の入り口のドアを指す。

 振り返った顔の中で、ハシバミ色の瞳がどう? 分かった? と確認するようにきらめいていた。

「はい、はい。俺が悪かった。依頼された特殊メイクの研究をしていたんだ。じゃあ、せめて内階段から上がってくるときは、ノックぐらいしろよな。返事がなきゃ、そのまま入っていいけど、俺がナニしてたら困るだろ」

 アメリカらしい軽いジョークで注意したつもりが、イーサンはのってこなかった。

「ナニできるようになったの? それは初耳だ。僕が誘った時はノーだったのに、一体だれと?」

「誰って、そのうちできるかもしれないだろ。それに、イーサンは親友だって断ったら、違う顔ならいけるかもしれないと言って、俳優のマスクをかぶってきたんだぞ。普通はジョークだと思って噴くだろ。そんなんでよくミッシェルを口説けたな」

 佑俐が笑いながらイーサンの恋人の名前を出すと、イーサンは胸を押さえて、あぁミッシェルと感じ入った様子を見せる。イーサンはお調子者だが、佑俐が困った時にはサッと手を差し伸べてくれる本当にかけがえのない友人だった。

「それで? 要件は何だ? ミッシェルののろけ話をしに来たわけじゃないんだろ?」

「ああ、そうそう、ミッシェルの話も聞いて欲しいところだけれど、ユウリにとっていい話かも。日本のKテレビ局が、開局記念七十周年のイベントで、こっちで映画のロケをするんだって。もう聞いた?」

「ああ、うん、それか……」

 佑俐の顔が急に曇ったのを心配したイーサンが、デスクを回りこんで座っている佑俐の横にきた。

 佑俐がペン先でツンツンと突っつきだした美しいブルーのペンダントトップを、イーサンが木の形のアクセサリースタンドから外して、持ち上げてしまう。

「返せよ。俺のやる気の元なんだから」

「やる気だって? 冗談だろ? この透き通ったアクアブルーのペンダントを見ている時のユウリは、決して幸せそうな顔をしていないよ。アキラと何があったかは知らないけれど、留学したときに成功して見返してやるって言ったことからだいたいの想像はつく。ユウリはもう充分成功したんだから、過去から解放されるべきだ」

 イーサンの鋭い指摘に、佑俐は肩を竦めて両方の手の平を上に向け、降参ポーズをとった。頷きながら、自嘲気味に唇の片方を吊り上げる。

「分かってるよ。甘ちゃんだと笑われても仕方ないけれど、俺は有名になってあいつを見返すつもりでいたのに、自分でも知らずにあいつからのリアクションを期待していたんだ」

 こんなにも生々しく昔の感情を思い出すのは、一週間前に日本のテレビ局から一冊の本が届いたからだ。

 佑俐は机の片隅にある美嶋朝来の「愛の残像」に目をやった。

 タイトルを見た瞬間にあの日に引き戻されて、オーディオルームでの出来事が蘇えり、佑俐は激しく動揺した。

 六年の月日を経ても、晧良の面影にまだ振り回されるのかと自分で自分を叱咤しながら、いずれ仕事の依頼が来るだろう時に備えて、読みたくもない本に目を通したのだ。

 小説は良かった。感動した。佑俐があの家から逃げるために出したいい加減なアイディアも、売れっ子作家にかかれば、こうも印象的なシーンに変わるのかと舌を巻かずにはいられないほどに……

 晧良の母は、古いフィルムの台本を改稿して、数年前に素晴らしい小説を出版したばかりか、映画化にまでこぎつけるという目標以上の夢を実現し、一方佑俐は、アメリカで眠る間も惜しんで技術を磨き、メイクアーティストとしての成功を手に入れた。

 あの時のやりとりが本という形になって届き、二人の夢が叶ったというのに、心のどこかで待ち望んだ晧良の声だけが届かない。

 あいつが悪かったと謝るのを想像して、心の中で留飲を下げていたのに、晧良の中で、佑俐は気にかけるほどの存在ではなかったことが分かる。

 鼻の奥がツンとして、佑俐は目を瞬かせた。

 自分の愚かさが忌々くて、今も頭を机に打ち付けたいほどだ。

 肩まで伸ばした髪をくしゃりとかき上げた佑俐を、イーサンが同情を込めた瞳で見つめた。手をそっと佑俐の頭に伸ばし、労わるように髪に絡めた佑俐の手に重ねる。

「それだけ真剣な恋をしたんだ。自分の思い通りにならないのが、恋愛なんじゃないか? 仕事とか友人づきあいなら、妥協点を見つける努力をするけれど、恋する気持ちはストレートでエネルギッシュだから、冷静な時には考えられないほど愚かな行動もするんだよ」

「ほんとバカだよな俺」

「いや、ユウリのは愚かとは言わない。魅力的になって相手を振り向かせたいという気持ちは、賢い戦略だ。相手がその努力に値しないだけの愚か者だったんだ」

「イーサン……」

 おっと、と言いながらイーサンが人差し指を立て、佑俐の顔の前で左右に振った。

「そういうキラキラした目で見上げたら男は誤解するぞ。思い出せ! 僕はアキラ以上に愚かだったんだぞ。なんせ俳優のマスクをかぶってユウリの気を引こうとしたんだからな」

 ドアを開けた時の衝撃を思い出し、佑俐は噴き出してしまった。

「やめて。それ思い出すと、ほんとに笑いが止まらなくなるから」

「僕の失恋は、ユウリの笑いの元になったんだから、無駄にならずに済んで嬉しいよ。そうやって笑っているとユウリは本当にチャーミングだ」

「ミシェルと俺とどっちがチャーミング?」

「おぉ、ミッシェル」

「一生やってろ!」

 胸を押さえて恋人の名前に感じ入るイーサンの様子に、佑俐は涙を流して笑った。


 ひとしきり笑いが収まった頃合いを見計らい、イーサンがKテレビの開局記念七十周年のイベントについて話を戻した。

「ひょっとしてKテレビから、先にお窺いでもあったのか?」

「うん、ユニオン《労働組合》を通さないと正式に仕事を依頼できないことは分かっているだろうから、先のスケジュールの調整も兼ねて、検討してもらえないだろうかという手紙と、小説を受け取った」

「そうか。でも、どうしてニュースを知らせたときに、浮かない顔をしたんだ? 小説に問題でもあるのか?」

「いや、いい小説だよ。実はラスベガスでのシーンのアイディアを出したのは俺なんだ。あんなでまかせみたいなアイディアを活かして切ないラブストーリーに仕上げてあった。すごいと思ったよ。問題は、この作者が晧良の母親だってことだ」

「ああ……そういうこと。それはメランコリックな気分になっても仕方ないな。でも、作品は作品として割り切るしかないんじゃいか? ユニオンの仲間たちは、特殊メイクの依頼があるなら、日本のテレビ局ということを除いても、実力からいってユウリを指名してくるだろうと噂している。他には誰に仕事が回ってくるんだろうってソワソワしているよ」

 だろうなと答えながら、佑俐は机の片隅に積んである未開封の郵便物の中から、書類入りの封筒を抜き出してイーサンに見せた。

「映画のロケのことは、数日前にユニオンからメールで情報をもらった。これはさっきユニオンから届いたんだけれど、まだ目を通していないんだ」

「さっさと開けてみろよ。ユウリが考え出すパーツを作るには技術がいるんだから。僕ならいくら仕事が積んでいてもユウリの依頼を最優にして、お望みのままのものを最短で納品できるよ」

「過去を引きずるより、仕事しろってか? ついでに注文まで取りつけようとするんだから、ちゃっかりしてるよ」

 佑俐は力の無いパンチを、傍らに立つイーサンの腹に打ち込みながら、気の抜けた笑いを漏らした。

 イーサンは映画装置や化学製品に精通した技術屋だ。

 父親の代では、映画制作に必要な小物から機械までのハード面を請け負って製造してきたが、特殊メイクを学んだイーサンが入社してからは、特撮に必要なCG映像なども手掛け、ドラマや映画だけではなく、ニュース番組やCMなどの幅広い分野で使えるCG画像を展開してソフト面の強化を図っている。

 佑俐の特殊メイクに惚れたイーサンは、スクール時代から佑俐の世話を焼き、同世代としての楽しみを共有し、アメリカの映画界のことを教えてくれた。

 佑俐が驚いたのは、日本の俳優はプロダクションに所属するが、アメリカでは個々でエイジェントを雇って、出演交渉などに当たるということだ。

 佑俐は制作側ではあるが、俳優たちと同じように、アメリカには、映画関係者で構成するユニオン労働組合があることを知った。

 ユニオンには、映画のクルーであるカメラマン、音響、衣装、メイクアップアーティストなどがいて、加入することで法の下に労働環境を守られていること。外国からの安価な労働力が流れ込んで、アメリカ人が仕事を奪われないようにするための政策に加担していることなども理解して、外国人である佑俐は、日本が海外ロケをする場合にどうするのかという疑問を、イーサンにぶつけたことがある。

 イーサンの返事は、外国人がアメリカでドラマや映画を撮影する場合、現地スタッフを雇わなければ撮影隊にビザが下りないため、ユニオンが窓口となって現地のスタッフに仕事を振り分ける役割を果たしているとのことだった。

 今回日本のKテレビが、L・Aとラスベガスでロケをするという情報に、ユニオンのメンバーが自分たちに仕事が割り当てられないだろうかと期待しているのもそのためだ。

 去年、念願のEBー1ー1ビザ(芸術関係で成功した人におりるビザ)を取得して、アメリカでの永住権も獲得した佑俐のところに、日本の海外ロケの情報がいち早くもたらされ、書類が届いたということは、仕事の依頼に違いない。

 早く開けてみろとせっつくイーサンを無下に追い払うこともできず、佑俐は封筒の封を切った。

 案の条、Kテレビから、特殊なメイクアップが必要なこと、ドラマの宣伝効果を上げるために、アメリカで活躍する日本人のメイクアップアーティストの天野佑俐を現地スタッフとして雇いたいという申し入れ書と、契約に関する説明書類などが入っていた。

「やっぱり依頼書だと思ったよ。ユニオンの仲間たちが言うまでもなく、僕はユウリが日本人でなくても、特殊メイク撮影が必要なら、第一人者のユウリに仕事が回ってきたと思う。ユウリの腕は素晴らしいからな。もちろん受けるだろ?」

「持ち上げ過ぎ。でも、そうだな。将来的なことを考えれば、日本のテレビ局に顔を売っておくには好い機会かもしれない。それと、晧良の反応を期待するのもこれで最後にする。加工品がいるときは、イーサンに頼むからよろしく」

「ああ、有難う。友人としては、ユウリがアキラの亡霊から解放されることを願いたいよ。そのために僕もとことんオーダーに応えるつもりだから、どんな細かいことでも相談してくれ」

「頼りにしてるよ。俺が担当するのは人魚の特殊メイクだ。小説を読んでイメージしたのは沢山の鱗が必要になるってことかな」

「おおっ。かわいい日本の女の子のマーメイドか。ユウリはアキラ以外に男性には興味がないみたいだから、ひょっとして女優と恋愛のチャンスがあるかも」

「どうかな。ヒロインは日本の国民的アイドルの大原凪咲と、凪咲の恋人役を務めるのはアイドルグループのリーダーだから現場のガードはきついと思うよ。特にロケは時間との闘いだから、恋だのなんだの甘い言葉を囁いている時間なんか無いと思う。それに俺が担当する人魚は、女性じゃなくて、海を追われた人魚の末裔という設定の男性なんだ」

「男? ……何だか嫌な予感がするぞ」

 イーサンが顔をしかめながら言ったことが、佑俐を不安にさせた。気分を落ち着かせるために、契約書類の束に手を伸ばして、中身を確認する。

役者のプロフィール写真を目にして、なぜこんな大切なものが契約前に同封されているのだろうと不思議に思いながら、何気ないふりでページを繰った。

一瞬、しなりながら重なる紙の間に、覚えのある顔を見たような気がして、急いでページを遡る。

 見間違いを確認して不安を拭うつもりだったのに、写真を目にした途端、心臓の音が耳の中で大きく脈打った。

「どうして、ここにお前が‥‥‥」

 思わず呟いた言葉に反応して、イーサンが後ろから覗き込み、探るように知り合いかと尋ねる。

 学生時代にはまだ少年の面差しが残っていた晧良の顔も、六年の年月が精悍な大人の顔へと変貌さていた。

 晧良からの言葉を待ち続けて、来ないことに失望し、慣れとも諦めともつかないじくじくした痛みを抱えていただけに、写真を見ても、本人だとは信じられない気持ちが働く。

 期待しては、手痛いしっぺ返しを食らっていた教訓から、傷つかないためにも、イーサンに答える前に学歴や名前に目をやった。すると、芸名用に苗字だけ変えたのか、プロフィールに記された名前は、母親のペンネームに合わせて、水島晧良から美嶋晧良になっていた。

「イーサンが変なことを言うから、亡霊が現れたじゃないか。どうしてくれるんだ!」

「すごいハンサムじゃないか。ひょっとしてこいつがアキラか? あれ? 一度電話で話した奴かな。ずいぶん男らしくなって別人みたいだが……」

「そうだよ。俺の告白を鼻で笑って、セフレにしようとした奴だ」

「そんな酷いことをされたのか。会ったら僕の特撮用マスクで脅かしてやるよ」

 冗談めかして言うイーサンの目が笑っていない。佑俐のために晧良に手を出して、仕事をふいにさせてはならないので、佑俐も軽く受け流す。

「会った時じゃなくて、日本に帰るサヨナラの時にしてくれ。イーサンを見る度に笑いが止まらなくなったら撮影に支障が出るからな。それに、今から思うと、あいつばかりを責められない。俺だって晧良との関係を望んでいたのに、抑えようとしていたあいつを中途半端に煽るだけ煽って、心がないからとあいつを拒んだんだ。ただちょっとあいつの言葉がきつくて、両想いだと勘違いしていただけに傷ついたんだ」

「そういうことか。十代はやりたい盛りだからな」

「うん。……それにしても、何で、晧良は俳優になんかなったんだろう。企画とかプロデュースするのを目指していたのに」

「こいつが裏方とかないだろ。母親のコネに頼らなくても、絶対スカウトされたと思う」

「ああ、そういえば、出演者を不安にさせかねないから、メインでいった方がいいんじゃないかとアドバイスしたことがあったっけ。ああ~撤回したい」

 一人おろおろする佑俐を後目に、イーサンが腕を組んで考え始めた。

「何かあるな」

「怖がらせないでくれよ。何かってなんだ?」

「なぁ、ユウリ。あいつのリアクションを期待してたなんていいながら、何を今さらうろたえているんだ?気持ちに決着をつけるためにも、いつも通り冷静にな」

「もちろん。そのつもりだけど、何かあるってどういう意味?」

「僕が変に思うのは、契約前に写真を見せたことだ。もし、彼がこれを仕組んだとしたら、ユウリが断る機会を与えたんじゃないのかな。それとも自分にはわだかまりは無いけど、ユウリはどう? って挑戦してるとか」

 なるほど……と今度は佑俐が腕を組んで考える番だった。

「そうかもしれないな。どっちにしても断ったら、俺がいつまでも拘り続ける小さな男って思われて負けなわけだ」

「拘ってるくせに」

「何? 何か言ったか?」

「いや、受けるしかないなら、頑張れってこと。心配だから、再会したら話を聞かせてくれ。怖いなら一緒に会ってやってもいいぞ」

「心配してくれるのは有難いけれど、ガキじゃないんだから、大丈夫だ」

「それなら見物させてもらうことにするよ。今回の仕事は、ユウリとアキラの対決が見られそうで、ものすごくエキサイティングだ」

 じゃあなと手を上げて去っていくイーサンの後ろ姿に、中指を立てた佑俐は、誰が 楽しませてやるもんかと吐き捨てたのだった。

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