第10話 最悪の出会いが生んだ友情

 受付で簡単な手続きをして、胸に見学者用の名前入り許可証を下げると、佑俐は伯母と一緒に校内へ歩きだした。

 空港でも感じたが、映画で鍛えた英語力は、通常会話を訳すことなくすんなりと理解するのに役立ったようだ。


 あちこちで生徒たちが話すスラングの応酬も、最初こそは驚いたものの、聞いているうちに、佑俐たちの仲間が話す日本語もあまり変わりはないと思えてきて、役立ちそうな会話を覚えるために頭の中で繰り返す。リズミカルな生の英語を受け止めるうちに、佑俐は心が浮き立つのを感じた。


 廊下ですれ違った際に、伯母に話しかける同僚の様子や言葉から、伯母が慕われていることが容易に分かり、佑俐は自分のことのように喜んだ。

 高校時代に自分の夢を見つけた伯母は、それを叶えるために、たった一人でアメリカに渡り、努力の末に夢を実現したキャリアウーマンと呼ばれるにふさわしい人で、佑俐にとってずっと憧れのヒーローだった。


 佑俐も伯母を見習うべく画家になる夢を持って頑張ってきたけれど、自分の才能の限界を知った今は、痛くて眩しい存在だ。

 現状を知らない伯母から、画家を目指している自慢の甥っ子だと紹介されるたびに、佑俐は逃げ出したい気持ちになった。


 彫の深い外国人から見ると、アジア人の顔は若くみえるというが、佑俐もその例から漏れないらしい。佑俐を見た女性講師が、何てキュートな坊やなの。食べちゃいたいと言った時には、聞き間違いかと思って伯母に日本語で確認したら、その通りだと大笑いされた。


 一通り挨拶を終えた伯母は、講義で使う資料を揃えるために、講師たちが共同で使う部屋に行きかけて、佑俐を振り返った。


「せっかく見学許可証を発行してもらったんだから、校内を回ってみたらどう?始まる前に電話で知らせるから行ってらっしゃい」


 伯母は佑俐を自宅へ連れて行ってから、学校に来る予定だったため、講義の開始まで一時間半ほど余裕があるらしい。

 先ほど講師陣たちが関わった映画のポスターが貼ってあったが、俳優や女優たちのメイクアップ中のビデオもあるかもしれないと思いつき、佑俐は二つ返事で伯母の勧めに従うことにした。


 さっそく散策してみると、オープンスペースにいくつものブースが並んでいて、練習用に置いてあるトルソーにシャドウを入れる生徒や、友人同士組んでお互いの顔にメイクアップを施す女の子たち、まるでコスプレのような恰好をして写真を撮り合う生徒たちで賑わっている。


 何かを生み出そうとしている雰囲気は芸大に似通うところがあり、親しみが持てる。でも、何かもっとインパクトのあるもはないだろうかと探しながら、佑俐はどんどん進んでいった。 


 校内は思いのほか広く、佑俐はいつの間にか迷ってしまったようだ。

 突然、廊下の先にある部屋から、男が飛び出してきて、前屈みの体勢でよろめきながら走ってくるのが見えた。佑俐を見つけると、助けてくれと叫んで縋るように片手をあげる。


 遠目にも顔半分が赤く血濡れているのが見てとれ、こちらに差し出した手も真っ赤だ。佑俐は思わず後退りした。

 近づくにつれて顔の半分は、ただ出血しているのではなく、薬品でもかけられたようにただれて皮膚が崩れているのが分かり、佑俐は回れ右をして走り出した。


「待ってくれ、君。頼む。助けてくれ」


「俺はここの生徒じゃないんです。先生を連れてくるから待っていてください」


「そんなんじゃもたない。お願いだ。君にしか僕を助けられない」


 命の危機だと聞き、佑俐はピタリと足を止めて振り向いた。恐る恐る近づくと、男はこっちだと言って角を曲がる。佑俐がついて来るのを何度も振り返って確かめながら歩いていた男が、ここだと示した先は……


「はぁ? トイレ? 何でこんな場所に?」


「頼む左手のシリコングローブを外してくれ」


 いきなり佑俐の目の前に突き出された左手は、指があらぬ方向に折れ曲がっていて、佑俐は悲鳴を上げそうになった。


「おい、何やってるんだ。早くしてくれ。シリコンに触るのが嫌なら、ベルトとボトムを脱がしてくれてもいいけれど」


「断る!自分でやれ、セクハラ野郎!」


「右手の血のりが渇いてないから、グローブに触ると汚してしまう。頼む限界なんだ」


 よく見れば、手の盛り上がった傷や、顔の溶けただれた皮膚は作りものだと分かる。


「特殊メイク?」


「そうだ。僕は特殊メイクを専攻しているイーサン・ミラーだ。頼むからグローブを外してくれ、友達の苦労を台無しにしたくないんだ」


 凝った特殊メイクに釘付けなっていた佑俐はハッとわれに返った。

イーサンの指示通り長袖シャツを捲って、腕の半ばまであるシリコングローブのホックを外す。十cmほどの短いファスナーを下ろしてから両手の親指をグローブの中に入れ、慎重にずらしていった。


 前屈みになっていた時には分からなかったが、イーサンはかなり上背があり、ウェストの位置が高い。崩れていない顔の半分から推測すると、四、五歳年上だろうか。

ハシバミ色の瞳の中のダークオレンジの虹彩が、光の加減で鮮やかなオレンジに変わり、まるで花が咲いているように見える。メイクを落としたらかなりハンサムなのではないだろうか。自然に流した前髪の一筋が、額に滲んだ汗のせいで張り付いていた。


 汗が顔の作りものの傷の色をぼかしたりしないのだろうかと心配になり、拭いてやりたいが、今は一刻の猶予もならない。何とかシリコングローブを外すことができ、佑俐はようやく解放されるとホッとしながら、グローブを差し出した。


「君が持っていてくれないか。ああ、まだ右手の血のりが渇いてない。どうしよう。服につくかもしれない」


 イーサンが困ったように佑俐を見つめ、サポートしてくれないよねと訊ねた。


「あいにく俺は、スプーンより重い物を持ったことが無いから、バーベルを持ち上げるのは無理だね」


「服の方だよ。そっちじゃない」


 イーサンが噴き出した。

 腹筋で腹を圧迫したのか、Shit(くそっ)! と四文字スラングを吐いて、個室に突進していく。今度は佑俐が笑う番だった。


「大の方をするなら、ドアくらい閉めろよ」


 トイレに響き渡る佑俐の笑い声に、イーサンが信じられないとぶつくさ文句を言った。


「美人の前でこんな情けない姿を晒すなんて、あぁ、情けない」


「俺は女じゃないよ」


「それくらい見れば分かるよ。外見と違って面白いところがすごく好みだ」


 好み?そっち系の人間か。

 佑俐は晧良を思っているけれど、他の男性にときめくかというとそうでもないので、自分がゲイかどうか計りかねている。

 隠している人を除き、本物のゲイに会うのは初めてだが、佑俐も同性と付き合う人間に見えるのか聞いてみたいと思った。


 でも、クラブとか発展場と言われる場所でかわしそうな会話を、学校内でするわけにはいかない。伯母が講師をしているなら尚更だ。

 水が流れる音がして、衣類を整えたイーサンが個室から出てきた。

 イーサンがグローブを外した左手を水で洗っているのを見たら、何をしていたのか想像できてしまい、笑いそうになったとき、イーサンがくるりと佑俐に向き直った。


「悪かった。変な手伝いをさせてしまって。えっと、名前はユウリ君でよかったかな?」


 ネームプレートに目を走らせて名前を呼んだイーサンに、佑俐が呼び捨てでいいよと答える。イーサンが嬉しそうに、ユウリと繰り返すので照れくさかった。


「ユウリはこの学校に入るのか? もし入るなら、僕が色々教えてあげるよ」


「いや、今日は伯母を訪ねて日本からアメリカに来たばかりで、空港から直接ここに来たんだ。伯母がこの学校で講師をするからね。沢田友里恵って先生を知ってる?」


「もちろんだ。すごく教え方が上手いし、実力のあるメイクアップアーティストで、僕を含めみんなが憧れている。あっ、僕はメイクアップアーティストになるんじゃないけれどな」


「特殊メイクとメイクアップアーティストは違うという意味なのか?」


「区別したんじゃないよ。僕の家は映画で使う機械装置や化学製品を作っているんだ。僕は跡を継ぐつもりだから、工科大学を卒業してから、ここに入った。実際にメイクを学んで、どんなものが必要なのか知りたかったんだ」


 ショッキングな出会いだけに、ちょっとイカれたところがあるんじゃないかと思っていたら、とんでもない。イーサン・ミラーは先々のことまで考えている真面目な男だった。


「もし、佑俐がメイクアップに興味が持てなかったとしても、僕たちは友達になれないかな?」


 イーサンがスマホをポケットから取り出した。


「イーサン、血のりは乾いたの?」


「うわぁ、そうだった」


 身体をねじってパンツのポケットを確認するイーサンは、頭が良くてしっかりしているように見えるけれど、抜けているところもあるらしい。海外にこんな友人がいたら楽しいだろうと思い、佑俐はスマホを取り出し、イーサンと情報交換をした。

 交換し終えた時にスマホが震え、伯母からのメッセージで講義が始まることを知る。名残り惜しい気持ちを切り捨てて、佑俐はイーサンに別れを告げて歩き出した。

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