第54話 空白の放課後

 放課後補習。

 それは、夏休み明けテストで赤点教科が2つ以上あった者に課せられる罰であると同時に、補習中の態度や再テストの結果次第では赤点にいくらか色を付けてやるぞという、教師たちの慈悲である。


「んがぁー、全然分からん……」


 奇妙なうめき声をあげて机に突っ伏している呼詠こよみ人美ひとみも、そんな補習に参加している者の一人である。

 彼女の赤点教科は国語と英語と科学。最低得点は三点。ボロボロである。


「みんな赤点無いんだもんなぁー……馬鹿は私だけなのか」


 友人たちは皆、補習には来ていない。そらしょう辺りは赤点が一つあったらしいが、二つ以上は人美だけだ。

 広い教室に、補習生はわずか7人。3クラス合計の人数である。


「つまり私は100人近い一年生の中でもワースト七位以内。これはもはや才能!選ばれし者と言っても過言では―――」

「そこ、静かにしなさい」

「はい……」


 先生に怒られてしまった。

 しぶしぶ補習プリントに視線を戻す。


 科学は元素記号だの化学式だの覚える事が多い。記憶力に自身が無い人美には天敵とも言える教科だった。

 ちなみに英語も天敵。国語も数学も地歴公民も天敵である。もはや敵しかいない。


 四面楚歌な人美の集中力は少しずつ薄れていき、そして途切れた。


「はぁ……」


 ため息をつきながら、窓の外を見る。


 日の沈むのが遅い夏は、4時半でもまだ明るい。グラウンドではサッカー部が練習をしている。その端ではテニス部が素振りをしていた。皆各々の放課後を過ごしている。


「それに比べて私の惨めさと言ったら……まあ自業自得なんだけど」


 いつもなら友人たちと一緒に帰っている放課後。しかし今日は、教室で静かに問題とにらめっこ。

 なんだか悲しくなってくる。


(中学の頃から補習は慣れたもののはずなのに、高校の補習はなんか寂しいな……)


 シャーペンをくるくる回しながら、心の中でそう呟く人美。


 いつも周りにいる人がいない場所。自分という人間を作っている物の中の、大事な物が抜けているような感覚。それはなんだか酷く不安で、寂しくて、空虚な時間だった。


 勉強は一人でするものだ、と周りの大人たちはよく言う。でもそれは、一人でいる事に対する『強さ』を得た者、ある意味ではそれこそ者が出来る事なのだ。そして自分には、まだその強さは無い。


 人美は柄にもなくそんな事を考えながら、再びシャーペンを掴み直した。





     *     *     *





 時刻は5時半。

 科学と英語の点数が何とか最低ラインを超えた人美は、ようやく外に出ていた。


 校門を抜け、しばらく歩いた所で見つけた自動販売機の前で止まる人美。冷たいみかんジュースを買って、ベンチに座った。


「つっかれたぁー……。仕事帰りのOLさんっていつもこんな気持ちなのかねぇ……」


 さすがに少しずつ薄暗くなってきた青空を見上げながら、人美はふと声を漏らす。


 当たり前だが、将来は友人たちとは別々の道を歩む事になるだろう。具体的に将来を決めているわけじゃないが、仲の良い友人と同じ会社で働くなんて事は滅多にないはずだ。当然、一人で歩んでいかなければならない。


「私に出来るかなぁ……」


 哀愁漂うオーラをまとってジュースをちびちび飲む。

 暗い思考になっていると体までさらに疲れてくる気がした。そして体が疲れると心も疲れてくる。負のスパイラルだ。


「まあ、ぼやいても仕方ないか。未来の事は未来の私が決めるよ」


 強引に明るく振る舞って、ジュースの勘をゴミ箱へ入れる。

 問題の先送りは良くないと言われているが、心の健康を保つためには重要だったりする。考えても仕方ない事は考えない。そんな選択も大事である。


「さてと、帰りますかね」


 よっこらせと腰を上げる人美。

 とそこで、買い物袋を持ったある少女と目があった。妹の糸美いとみである。


「おぇ、今帰り?」

「まあね。糸美は買い物?」

「おつかい頼まれたの。暑いし面倒だけど、おつりがお駄賃になると聞いたから」

「現金な妹よのう」


 醤油やら大根やらが入った袋を両手で持ちながら歩く妹を見て、横に並んで歩いている人美は手を差し出した。


「持つよ。なんか重そうだし」

「いいって、これくらい持てる」

「……反抗期?」

「ちがう」


 本当に重そうな袋だが、人美に渡そうとはしない糸美。ついに反抗期が来たかと少しショックを受ける人美だったが、そんな2つ上の姉の顔を糸美は見る。


「今日のお姉ぇ、人生に疲れた人の顔してる。だから荷物持ちなんて頼めないよ」

「……お姉ちゃんそんな顔してるの?」

「してる。仕事の事でご飯も食べずに真剣に悩んでた時のおぁと同じ顔してる」

「そんな重症だったか今の私……」


 母の人生に悩む顔は、人美にも簡単に思い出す事ができるほどよく見る。そして高校一年生の人美が、人生を何十年も生きている親と同じくらい悩んでる顔をしていたと言うのだ。妹に心配されるのも無理ないだろう。


「ごめんごめん、辛気臭い顔しちゃって。もう大丈夫だから」

「お姉ぇがそう言う時は大体大丈夫じゃないのは知ってるし」

「ぐぬう……」


 共に暮らしてきた妹にはなんでもお見通しのようだ。

 唸るそんな人美の一歩先を歩いていた糸美は、不意に振り返る。


「だから、今日は無理せずゆっくりして。荷物だって私が持つし」


 そう言って、いつも素っ気ない妹はほんの少しだけ、微笑んだ。


 人美は、めったに見ない糸美のそんな姿に思わず言葉を失った。

 そして反応が無いのが恥ずかしかったのか、糸美はわずかに赤くなった顔を背けて手を振った。


「や、やっぱり今の無し。無しだから」

「あーもう!可愛い妹め!」


 人美は今までの悩みを全部放り出し、糸美に抱き着いた。

 姉に抱き着かれるのも恥ずかしいのか身をよじる糸美だったが、無邪気に笑う姉の顔を見て、小さく微笑んだ。


 人生なんて果てしない事について悩むのは、また後でいい。少なくとも今は、妹と家に帰るこの時間の方がずっと大事だ。

 人美は心の中で、静かにそう思った。

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