第九話 バビロンの胎の中から
身体の中が暴れ回っていて、どんなに吐き出しても収まらない。火付け役の父が降参しても、止まらなかった。何か得たいの知れない衝動に支配されて、気が狂いそうだった。
「ローマン、ローマンちょっと落ち着け、な?」
「知らない知らない、俺こんなの知らねえもん。何したんだよ、親父俺に何したんだよ!」
「え、そりゃお前ン中に―――。」
「言うなよバカ!!!」
ばか、ばか、と、力なく叩かれる拳は震えていて、指の隙間から隣の指が見えている。身体を横たえているだけでも、呼吸を詰まらせて死んでしまいそうなのに、暴力的な、というより、暴風のような衝動に支配されて、じっとしていられない。
断じて、快楽などでは無かった。初めは確かに、快楽だと思った。実際快楽だった。だがだんだん、父と交わるに連れて、それが異質なものの感じがしてきた。しかし違和感は無かった。人間の感覚でどうかは分からないが、少なくとも自分としては、結構長い間、父とは交わっていなかった。その間にも先生と交わる事もあったし、時には暴力として屈服させたりさせられたり、ということもあった。
つまりは、変わったのは自分の方であって、父の胸にいることは昔と変わらないことだと思っていたのだ。
「なに、なにしたの………? 親父、こわい、俺こわいよ、俺になにし―――。」
涙ながらにローマンが訴え始めたところで、おえっとローマンは口元に手を当てた。すると、今まで如何にも疲れたという風体だった父が飛び起き、ローマンの背中を叩く。
「吐け、吐いちまえ。」
「う、ぐ………っ。」
確かに吐くのは容易い。だが、何故かこんな時に、聖書の言葉が頭を駆け巡った。否やこれは、聖書の言葉ではない。聖書が作られたばかり、まだ幼く、限られた人々にしか読まれなかった『経典』を聞きながら、『
それらが告げるのだ。『吐くな』と。『出したい』とせり上がってくる衝動を、それに追いつくように必死に駆け上がってくる。
狭い道を行け、針の穴を通れ、と、強烈に訴えてくる。
「吐け!」
ドンッ!
しかし、父に首を叩かれ、つっかえたものが口から飛び出し、そこからドロドロとしたものが、吐き出された。
―――それは、決して吐瀉物でもなければ、胃液でもなく、況してや人間で言うところの精液などではなかった。しかし父は、その吐き出した物の中で、蟲のように蠢く何かを摘まみ、言った。
「日頃の行いは大切にしておくものだぜ、ローマン・カトリック。」
そして、びちびちと跳ねる蟲のようなものを口に入れ、一息に飲み込んだ。その途端、『父』は血を吐いて倒れた。
「な、なん………っ!?」
戸惑いを隠せない『父』は、それでもここにいてはいけない、と、窓まで這いずった。遠くから、誰か走ってくる。歪んだ眼差しで見ると、それは自分の家族だった。
助けを求めるなら、彼等しか無い。何故彼等がここに来ているのか分からないが、とにかく自分はここから逃げ出したくて、彼等は何故かここに向かっていて、ならばきっと、きっと助けてくれる。
千切れそうな指先に力を入れ、窓を開けると―――。
―――ドシャッ。
先に矢追カトリック教会に辿り着いていたのは、マーティン一行の方だった。汚物のように地面に叩きつけられた父を見て、マーティンは思わず怯んだ。
あまりにそれは、醜く悍ましく。誰が見ても、『それ』は有害だった。その為逆に、マーティンはストップがかかった。
だが、ルーテルは怒りが勝った。先ほどまで両腕に抱えていた二人をドサリと落とし、背中に背負ったギター―――に、擬態していた松明を掲げ、叫んだ。
「薄汚い偽物!! お父様の姿を偽るな!! 『
『父』は、何か言おうとしたようだったが、真っ白な、それこそ罪を浄められたかのように真っ白な炎の帯が噴き出し、『父』に直撃して軌道を変えて空へ炎の柱が昇っていった。その炎からは、少しも煙は出なかった。
「あいてて………。」
「気がついたニカ?」
「…キャーッ!?」
落下の衝撃で目を覚ましたローラとジャネットは、自分が嘲笑っていた包雲達の側にいて、しかも父が居らず、景色まで変わっていることに戸惑いを隠せないようだった。しかし誰かに追いすがる訳にもいかず、おろおろと周りを見回している。少なくとも、包雲からは離れようとした。子ども二人がそんなことをしている間に、不気味な笑い声に包まれた足音が近づいて来る。
「そこにいるのは、マーティン兄弟にルーテル姉妹ですね! 何やら凄い火柱が見えましたが大丈夫ですか!?」
そこへ、やや遅れて、メソジスト達が到着した。彼らも遠巻きに、凄まじい殺気を感じているのか、言葉こそ穏やかなものの、その声には強い怒りが込められている。
「久しぶりだな、マーティン、ルーテル、ローラ、ジャネット、
その声は、この教会の主のものに、よく似ていた。
「ロー―――。」
「いや違う。」
だが、『彼』の弟は、妹の言葉を遮って否定した。
「―――あれは、
「ご名答!」
建物の暗がりから現れたその姿は、いつもと変わらないように見えた。だが、その笑みはいつものような、悪巧みをするクソガキのようなものではなく、凶暴な殺人犯のようでもなく―――まるで、善意というものを知らない、肉食獣のようでもあった。
少なくとも、ルーテルは生まれてこの方、国を巻き込んでローマンと殺しあったこともあるが、その時代ですら見たことがないような表情だった。
「俺はお前達の望んだモノだよ。」
そう言って、『彼』は、すっとマーティン以外を指さした。
「来て欲しかったんだろう? 待っていたんだろう?
「………!!!」
目の前に、本当の敵がいることが分かって、マーティン以外は身震いした。マーティンだけは、どっしりと睨み付けている。
「…なんでローマンの姿をしている。」
「それは、お前達が最も罪深いと定めたからさ。」
思わず、目の前の敵から眼を話しそうになった。敵は、くつくつと嘲笑いながら言った。誰の記憶の中にも、ローマンが『大兄』として横暴を働いていた時代に、何かと嘲弄された記憶はあるが、その時とは質、ベクトルが違う笑みだ。
こいつは、自分が正しいとさえ思っていない。
「動機は何でも良かった。ドラッグでも酒でもギャンブルでも、誰か一人、特別堕落した『偽預言者』になってくれれば、三分の二を消す足がかりにはなる。だから、アブラハムの系図を奪った。アブラハムの系図に乗っ取れば、この世界の三分の二の信者が消えるからな。…まあ、載ってないヤツがいたのは想定外だったが。」
「実際、三分の一は上手く行った。だから、次はお前達一族のはずだったんだが、そこでお前らの父親が邪魔をした。この町に入ってきてすぐに、不快なバリアを張って俺を出られなくしてくれて、身体も三分の一飛び散った。」
つまり、町中で見たヘドロのようなものや黒い水銀のようなものは、敵の身体の一部だったのだ。だからパブテストは、それを触ろうとした南海に『サタンだ』と警告していたのだ。
「だ、もんだから、俺はお前らの父親と身体を交換させてもらった。俺の元の身体は、この身体の元の持ち主が真っ先に成敗してくれたよ。自分の父親の霊が入っているとも知らずに。」
ケッサクだぜ、と、敵は笑う。マーティンは今にも襲いかかりそうになったが、肝心の、『何故兄なのか』を聞き出すまで、耐えろ耐えろと言い聞かせた。
「そこからはこいつを囲って、快楽漬けにした。一回で終わると思ったんだが、流石に一七〇〇年、『不道徳の象徴』とされていただけはあったな、なかなか堕ちなかった。自己愛だけは強かったみたいだし、本当に父親に愛されてるとでも思ってたんじゃ無いのかねェ。」
「快楽漬け…?」
「だってお前ら―――。」
敵は肩をすくめ、何故分からないのか、と、言外に良いながら、答えた。
「『
一拍はさみ、その言葉の意味を理解したルーテルが悲鳴を上げた。罪がどうとか、そういうことではない。身内の
それに、
要するに、だ。
この敵がローマンを選んだ理由は、『いつも偽預言者と批判されているから』であって、決して本人にあったわけではない。批判されている理由は、確かに本人の素行の悪さもあるが、大体の幼い弟妹達は、『自分が正しい理由として』ローマンを批判している。歴史の最先端であり続けると言うことは、常に過ちの最先端を進み続けると言うことだ。それを理解するには、百年二百年などという時間はあまりにも短い。
この敵が、本当に侮辱しているのは、そんな未熟でまだ成長期である幼い弟妹なのだ、と、マーティンは理解し、これ以上語ることはない、と、一歩踏み出した。すると敵は、にんまりと笑った。
「聞きたいことは全部聞けたかい?」
マーティンは何も言わず、右手を天に掲げた。
「
マーティンの宣言に呼応し、光る獅子が剣を咥え、どこからともなく走ってくる。マーティンが初めて勝った戦争の英雄、『北方の獅子王』こと、グスタフ・アドルフの化身だ。咥えて持ってきた剣は、三十年戦争時代の骨董品だが、初めて大きな戦いに赴いた剣でもある。国際戦争にこそ発展してしまったが、この剣は正しく、彼だけでなく、
抜けよ、と、マーティンが剣を向けると、グスタフが低い唸り声を上げた。すると敵は自分の正体を隠さず、アルバの裾をはためかせ、裾を馬の姿に変えた。その姿は正しく、黙示録にある
「
馬の背に直接上半身を生やし、見てくれだけの足をつけた敵の剣は、刀身が無かった。雪のように白いマーティンの剣を嘲笑うかのように、血のように赤く燃える、刀身のように見える炎で出来ている。
「こいつは僕が殺す。お前達は手を出さなくて良いから、邪魔になるな。」
加勢する戦力を呼ぼうとした弟妹の呼吸の音を聞き取り、マーティンは牽制した。そしてグスタフに跨がり、強くその鬣を握りしめた。グスタフが大きく咆吼を挙げると、それだけで、辺りの景色が変わる。そこは、グスタフ最大の戦いにして最期の戦いの地となった、三十年戦争時代はリュッツェンの戦場だった。既に記憶の中で風化し、『悲惨』『無念』という概念だけになった骸が横たわり、細かいところも大分荒くなっている。
隠れるところはなく、その故に、その戦いに無関係ではいられない。誰一人として、無関係な知らん顔をすることは許されない。そんな無責任は許されない。しかし、ホーリネスはペンテコステに持ちかけた。
「マーティン兄弟の言った通り、邪魔にならないように、隠れていよう。」
「出来るのか?」
「アンタが本物の聖霊さまを呼んでくれて、そしてボクの力で、ここに『不可侵の密室』を作る。…やるよね。」
「一つ貸しな。唱え続けるの大変なんだぜ。」
前髪の下の目元は、不敵に笑う口元とは正反対になっていた。目は口ほどにものを言うからだろう。
「ヨエルの預言はここに結実する! 『
「神よ、私の心に来て、語って下さい―――『「
ペンテコステが呼んだ、清らかで温かい、木漏れ日のような、しかし雹のように鋭い炎の雨が、ホーリネスの建てた小さな空間を避けるようにして、護る。そのスペースはあまりにも小さく、全員が入ることが出来ない。
すると、未だ吐き気と戦いながらも、ルーテルが身を起こした。
「ルーテル姉妹、無理は………。」
「…あのねえ、メソジスト。私にも意地ってもんがあるのよ。まあ任せなさい。丁度良いのがあるから。」
そう言って、ルーテルは先ほど松明になったギターを、弱々しく爪弾いた。小さく、咳き込みながら、歌い出す。
「けほ、ケホッ―――賛美しましょう、『
ギターの弦一本と、吐瀉物の臭いを含んだ酸っぱい歌声で、風船のように空間が拡がる。メソジストは、五つ子の兄が乗っ取られていたショックで何も言えないらしいアレクスを引っ張り込んで、記憶を手繰り寄せながら、その歌を一緒に歌った。マーシーは震えて、馬を喰い荒らし、スーツを燃やすその戦いに眼が話せなかった。
―――兄上様と同じ轍を踏んではいけない。
その言葉を守れるのか、その事ばかりが頭に浮かぶのだ。
「うわあっ!!」
マーティンの悲鳴と落下音で、ハッと全員が祈りの歌を止める。否や、ペンテコステだけが止めていなかった。目の前の現実に刃向かうように、大声で異言を唱え続ける。ルーテルの歌が止まった分、僅かに加護の風船が萎んだ。
青白い馬と分離した敵は、スーツが燃え落ちて、ワイシャツとトランクスを燃やしているマーティンの上にのしかかり、チラッと舌なめずりをした。
「今からでも、『偽預言者』、増やそうかな? お前面白い戦い方するな、このブラコン。」
その言葉の意味するところに、闘志に燃えて暴れていた脚がぴたりと止まった。怯えが走っているのが、敵の背中越しに伝わってくる。思わずルーテルギターを投げ捨て、ローラ、ジャネット、包雲の顔を抱きしめて覆った。今の自分に、劣勢を覆すことは出来ないと分かっているからだ。
それでもメソジストが止めようとしたとき、アレクスがその腕を掴んだ。何か、決心しているようだ。
「大兄の汚点は、
そう言って、アレクスは結局誰にも渡せなかった鍵を口に入れた。吐き戻しそうに嘔吐きながらも飲み込み、歪んだ首を馴らして、文字通り腹に押し込んだ。そして呼吸を整えてから、静かに天を仰ぎ、手を広げた。
空は戦場の炎の記憶で、焦げている。しかし確かに、アレクスにはその、現状にも似た黒い曇天の向こうに、神の光を見ていた。
「―――ローマン兄上、悪魔と
「―――任された。」
ドスッと、アレクスの腹が、人の手によって穴を開けられる。そして、その手は両手を添え、ギチギチと腹の傷を拡げていき―――。
「人の弟にまで手ェ出してんじゃねえぞ、このエロガキが!!!」
そのまま、銀の弾丸が銃身から飛び出すように飛び、敵の背中に風穴を開け、マーティンを抱いて転がった。
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