第八話 兄の目的

 炎は弾けているのが見えるのに、炎が弾ける音が聞こえない。そんな奇妙な世界に取り残されたマーティンとルーテル、包雲。そして昏倒しているローラとジャネット。マーティンは震えているルーテルの頭を一つ撫でてから、調べに行った。

 ベリーとバプテストの特攻は、カルヴァンの精神に大きなダメージを与えた。無力感もさることながら、仮にも妻と息子と呼んだ者が目の前で消えてしまったのだから、無理もない。マーティンはごっそりと内臓が抜き取られたかのような気持ち悪さに腰が抜けたくらいだ。

 だが、伯父はまだ諦めていなかった。目から流れ続ける血で、掌に模様を描く。そして、まだ間に合う、まだ救える、と、マーティンを呼び、自分をローマンの元へ連れていくように言った。理由は、勘だというが、読みは当たっていたらしく、実際そこに、父の偽物がいた。バプテストも、特攻を仕掛ける前に、『父上に会ってください』と言い残している。矢追カトリック教会に、何かしらの鍵があることは間違いないだろう。

 しかし、実際のところ、これで解決したのかと言うと、全くもって、解決はしていない。

 偽物は確かに、伯父が文字通りの捨て身の攻撃で滅した―――ように、見える。

 だが、何とも言えない直感が告げている。まだ、弟妹達の危機は去っていない。実際、偽物は、ここにいない弟妹のことを気にしているようだった。それはつまり、一網打尽にしようということに他ならない。

 もし、神の敵が、神の家族に敵対しているのなら、こんなに易々と敗北するだろうか? 伯父の犠牲が、あまりにも唐突すぎて、頭が回っていないのだろうか? いずれにしても、とにかく一度、帰らなくてはなるまい。

「マーティン兄さん、あの、どうやって帰ればいいのかしら…?」

「ああ、僕の力なら、少なくとも兄さんへの道は繋げられると思うよ。」

 すると、ルーテルはホッとしたようだった。マーティンが手を差し出したが、ルーテルは両脇にローラとジャネットを抱えているので、手が回せない。すると、包雲がルーテルの肘を掴み、マーティンの手を繋いだ。

「ナが繋いでも良いニカ? ナも一緒に帰りたいニダ。」

「勿論だ。こんなヘンテコな場所からは、さっさとオサラバしよう。―――我らは神へと至る道、神の身体、神の言葉を繋ぐ道を整える隅の親石の要石―――馬鹿兄貴への道を示せ! 『九十五ヶ条の議題フンフォンナインツヒ・テーゼン』!!」

 すると、何も無かった空から、槍のような物が降り注ぎ、複雑に曲がりくねった一本道を整えた。

「さあ、行こう!」

 しっかりと包雲は二人の肘と腕を掴み、大人二人の歩幅に合わせて必死に早歩きをした。


 身体が酷く重たい。眠りの汚泥の中から、身体を起こすことが出来ない。瞳を辛うじて開ければ、茶色い天井が見えた。ぼんやりとしていて、目の焦点が合わない。酷く世界は静かで、ひんやりとしている。

「ん………っ。」

 何かをしなければいけなかった気がする。身体を起こすと、頭にあった血液が、腹まで戻っていく音がした。

 身体が酷く重たい。

「う…っ。」

 誰か、来ていたはずだ。何かしなければならなかったことが、あったはずだ。思考さえも泥のようになり、形を保っていられない。何か強い呪いを受けたようだ。息が苦しい。

「はぁ………。はぁ………。」

 何も音は聞こえないが、酷い耳鳴りがしているような違和感がある。内臓の奥深く、奈落の底まで愛されていた筈なのに、どうしようもない空しさが腹底に溜まっている。吐き出した息は上澄みだけで、苦しい何かは吐き出せていない。

「はー………。はー………。」

 深呼吸を繰り返すと、指先がだんだん痺れてくる。

 まだ休んでいた方が良いのかも知れない―――。

 もう一度ベッドに沈み込もうとした時、静寂な世界が粉々に砕かれた。ドンドンドン、ドンドンドン、と、激しい殴打音で、脈動の音さえうるさかった過敏な聴覚が破壊される。

「兄上様!! 兄上様!! お願い出て、世界が終わっちゃう!!」

「………。?」

 あにうえさま、あにうえさま………。

 ああ、俺のことか。この声はコニーだ。生真面目なあいつが冗談でも言わないようなことを叫んでいる。

 ………めんどくさい。どうでもいい。

 身体が辛いからだろうか。弟の必死な声が全く心に響いてこない。まるで何かに心が覆われているかのようだ。考えることが酷く億劫で、その中には、家族といえども客人を家に入れるということも含まれていた。

 大体、『招かれて』いるのだから、入りたければ勝手に入れば―――。

「ねえ、なんで鍵かけてるの!? 教会の敷地には入れてくれたじゃん、お願い入れて、何か怒ってるなら土下座でも何でもするから!」

 ………鍵? 鍵なんて、かけていたっけ?

 違和感が、ぴちょんと心の中に染み入ってきて、目を開く。今度は天井がよく見え―――そうだったが、後ろから目を塞がれた。

「どこ行くんだよ、ローマン。」

 耳朶に口付けるようにして、父が後ろから抱きしめてくる。途端に、身体が、後ろに引っ張られる。ベッドが軋み、素肌が湿った布に吸い込まれた。もう少しここにいろよ、と、囁く父の声のかごに入れられ、思考が融けて―――。

「兄上様!! 兄上様!! お願い入れて!!」

 父からのキスに溺れきることが出来れば、それこそ簡単だったのだろうが、流石に気になる、と、唇と唇の間に手を差し込んだ。すると父は困ったように頭を撫でて、両耳を塞ぎ、もう一度キスをした。

「ん…っ、親父、親父ってば。」

「なんだよ。ああ、水が欲しいか?」

「少し休もうぜ。俺くたくただし、丁度客が来たみたいだし。」

「えー? 父さんとセックスするより、弟との会話の方が大事なのか?」

「………親父、今誰も居ないから良いけど、それ人間に聞かれたら間違いなくとんでもないことになるから、絶対聞かせるなよ。」

 すると父は、からからと笑った。

「分かってるって。んじゃ、オレ応接間に通して来るから、お前は身体拭いとけよ。………結構凄いことになってるからな。」

「…うるせえ、絶倫エロ親父。」

 自分の惨状など改めて見るまでもなく分かっているので、どちらかというと照れ隠しに布団の中に潜った。父がローブを着る音が、布団の向こうから聞こえてくる。

 布団の中の暗闇が、酷く目に優しい。気が遠くなるように、眠りに引きずり込まれる。

 眠い。眠い。眠い。

 膝を裸の胸に抱えて、小さく丸くなる。身体の奥がまだ熱い。

 ―――誰だお前!!!

「………?」

 それは果たして、どっちの声だったのか。確認しようとしたが、布団から顔を出すことはなく、ローマンは睡魔に押し倒された。


 司祭館の入り口で出迎えた『それ』に、コニーは悲鳴のような声を挙げた。すぐに背中に腕を回し、攻撃態勢に入るが、それよりも一手、『それ』の方が早かった。

「ええと…、こういう時、なんていうのがお約束だったっけ。」

「ぐ………っ、が、あ…あ、に………っ。」

 『それ』は、コニーの右肘、喉、鳩尾、左鼠径部を、ヘドロのような触手のようなもので貫いた。人間であれば即死するような、巨大な穴を空けられて、それでもコニーは『自分が消えたら信者が消える』という強い確信で堪える。

「ああ、そうだった。」

 『それ』は、しかし、そんな決意を踏みにじるように、ぐりっと触手を回した。コニーが耐えられたのは一瞬で、敢えなくその五体がバラバラになる。

「―――お前のようなカンの良いガキは嫌いだよ、だったな。」

 転がっていく全身から、コニーは口に出せない、最後の指令を出した。

 コニーが討たれ、存在を保てなくなる前に、共に戦おうとしていた亡霊達が霧散しようとする。が、『それ』の触手が、実態を持たないそれらの亡霊すらも、見事に射貫いた。

「もう少しで終わるんだ。無粋な輩は黙ってな。」

 そう言って、『それ』は司祭館の中に戻っていった。小さな亡霊の欠片が、むくりと起き上がるのを、わざと無視して。

 『それ』が、司祭館の玄関から一段踏み出すと、もうその姿は、ローマンと睦言を交していた父の姿に戻っていた。掛け布団を捲ると、全身を赤くしたローマンが、震えて荒い呼吸を繰り返しながら、丸くなっている。

「…やじ? 親父か?」

「ああ、戻ったよ、ローマン。」

「だれ、だった?」

「ああ、コニーの姿をしたサタンだったから、代わりに退治しておいた。…身体、拭けたか?」

 そう言って、ベッドに腰掛け、ローマンの髪を撫でてやると、ローマンはその掌を取り、指先を舐めしゃぶった。

「か、からだが、あつくて、だ、だしたい、おやじ、たすけて………。」

「やれやれ、絶倫はどっちだろうねえ。」

「早く! がまんできない!」

 はいよ、と、父は覆い被さり、性急に事を進めようとする息子を宥め、愛撫してやる。嬌声の質は代わり、今のローマンは限りなく『人間』に近かった。こんな姿がローマン・カトリックの信仰の姿だと知られたら、世の彼の信者は噴飯を通り越して、気が狂って豚の群れのようになり、川へ飛び込んで溺れ死ぬだろう。

 堕落を極めきるまで、あと少し。

 涙と汗と泡を飛び散らせながら、貪るローマンの歪んだ視界に、『父』の表情はもう映っていない。


 さて、兄が壮絶な消失を遂げて、僅かに数秒後、矢追ハリストス教会にいたマーシーは、兄に何かあったことに気付いた。というのは、あの亡霊の欠片が、ひらひらと落ちてきたからだ。言葉も意思も伝えられないまま、惨めに落ちてきたその欠片は、マーシーの掌で融けて消えた。

「どうしたんだ? マーシー。」

 ふよふよ、と、ペンテコステが覗き込んでくる。が、そこには、少なくともペンテコステは何も見つけることが出来なかった。

「お兄ちゃんの、戦士…。」

「何? 聖霊様?」

「お兄ちゃんに何かあったんだわ!」

 行かなきゃ、と、立ち上がるマーシーの頭を、ペンテコステの髪が押さえつける。

「落ち着けよ、マーシー。聖霊様以外の霊の言うことなんて聞くもんじゃない。」

「だってこの欠片―――!」

 すると、ひらひらと褐色の手が上がった。汗を拭いていたメソジストが、よいしょとアレクスを抱き起こす。

「鍵………。兄上に、鍵を、届けなければ………。」

「すみません、自分達には貴方が何を持っているか分からず、どうしようも出来ません。」

「………マーシー、これが見える?」

 そう言って、アレクスはメソジスト達には見えない、鍵を見せた。紐が引きちぎられた、金属製の古い鍵。マーシーは遠目に見ただけで、答えた。

「う、うん………。お兄ちゃんから聞いてるし、お父様アチェーツにお会いしたとき、見せてもらった………。天国の鍵。」

 すると、アレクスは儚く笑った。

「メソジストさん、すみませんが、僕を背負って、矢追カトリック教会まで連れて行って下さい。出来れば―――きっと、戦いになるでしょうから、全員来て欲しい。」

「戦い…?」

 不安そうにマーシーが言うと、ホーリネスが言った。

「心配しなくても、ボクがマーシーのことも守るよ。」

 マーシーはそれには答えなかったが、メソジストを筆頭に、その場から共に出た。

 ―――兄上様と同じ轍を踏んではいけない。

 お兄ちゃん、でも、他に戦い方が分からないよう………。

 そんな不安を言い出せないまま、敵も分からないのに、戦わないで済む方法はないかと、マーシーは必死に考えを巡らせた。


脱落者一覧

 叔父、従弟二名、エルサレム・カトリック、アンティオキア・カトリック。

 カンタベリー・カトリック、バプテスト・プロテスタント、荒井、南海、朝生。

 伯父、父(?)。

 コンスタンティン・カトリック。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る